これは記録的だと思うような雨が窓を叩きつけている天気の悪いその日、データとして窓の外を眺めて降水量を計測していると、弱いノックの音が響いた。
 この豪雨でスタジオが雨漏りしているとかで、収録の予定は伸びて、ボクらは暇を食らっていたところだ。
 もう修繕が終わったのかと窓ガラスに映って開くドアに視線をやって、一つ瞬く。
 作業部屋にこもって外を出歩くことの方が少ないボクの衣装担当がそこにいた。
 顔色が悪かったことと彼女がボクを訪ねてきた珍しさに窓から離れて「どうしたわけ」と声をかけて、暇潰しに読んでいた台本をテーブルに置く。そんなボクに彼女は部屋の入り口で立ち尽くしたまま「まずいのよ」と今にも泣き出しそうに滲んだ声を絞り出す。混乱しているのか、ボク以外にも嶺二と蘭丸とカミュがいるのに挨拶もせずスルーだ。普段は挨拶だけでもってぺこぺこ頭を下げてるくせに。
 …それとも、いつも気にすることを忘れるくらいにマズいことをしでかしたのか。それでボクを頼ってきた、って? ボクは使えない人材を庇ったり手助けするほど暇じゃないんだけど。
 でも、まぁ、それなりに長い間ボクの衣装作りの担当である君の言い分くらい聞いてあげようか。
 細い腕を掴んで部屋の外に連れ出し、「で?」何しでかしたわけ、と目で問うたボクに、彼女は顔に掌を押しつけて俯いて、震える声で、
「今日がこんな天気になるなんて知らなくて…どうしても必要な生地があるのにどこも切らしてて…買いに行かないと、衣装が完成しないのぉ。あ、明日までが、期限で…どうしてもって三日伸ばしてもらったから、もう、何が何でも完成させないと、私…っ」
「…………」
 まぁ、そんなことだろうと思ってはいたけど。
 一つ息を吐いて窓の外に視線を投げる。相変わらずの雨と風だ。恐らく今日はずっとこんな天候だ。車を出すのもよっぽどの用事でなければ躊躇われるだろう。『衣装担当が必要な布地を切らした』だけでは弱い。
 肩を震わせた気配に視線を投げる。泣くものかと歯を食い縛って掌で目を強く圧迫しているけど、油断すれば嗚咽を漏らして泣き出しそうな、細くて頼りない猫背となで肩。
 衣装担当の人間だからって、あまり贔屓にするのもよくない。この間は仕方がないから手を貸したけど、本来ならアレだってラインギリギリだ。
 けど、このまま彼女を放っておいたら本当に泣きそうだし。サイアク泣きながらこの雨の中生地を買いに出そうな気配すらあるし。どうしようかなぁ。
 今日の当直のマネージャーの顔を思い浮かべて、そのうち一人ボクを贔屓している人がいたことを考える。まぁ露骨にそういう態度は取られないけど、女の人って分かりやすいし。それらしく猫かぶって甘えたらいけるんじゃないだろうか。
「つまり、マネージャーが車を出すよう仕向ければいいってことでしょ?」
 確認したボクに、鼻を鳴らした彼女が泣きそうなのを堪えている目で見上げてくる。泣いてもいないのに目元がもう赤い。うさぎのようだ。
 そもそも、彼女はどうして今泣きそうなのだろうか。自分のミスを恥じているのか。ボクに己の失態について報告していることを恥じているのか。
 じっと赤い目元を観察していると、ポケットからハンカチを取り出した彼女がそれを口と鼻に押し当てた。「何か、あるの?」と視線を逃がしながらの声に「まぁね。ちょっと来て」歩き出すと、彼女は大人しくボクについてきた。向かった先はマネージャーが控えている部屋だ。
 当たりをつけたマネージャーに猫かぶって『どうしても今! クレープが食べたい! とびきり甘いヤツが食べたい!』とうたプリのメンバーエンジェル担当の美風藍らしく天使の笑顔で語尾にハートつけそうな勢いでウインクして駅に連れて行けと命令し、その間に彼女が獣みたいな速さで作業部屋に戻って必要な鞄を掴んで走って戻ってきた。へろへろではあるけど車が出ると分かって表情は安堵に満ちている。
 ボクの容姿とスマイルと猫かぶりのスペックがあれば突破できる壁ではあるけど。人間って好き嫌いに露骨っていうか。統計データからもそれを実感するというか。
 仕方ないですねぇもう、特別ですよ、なんて折れて玄関前に車を回しに行ったマネージャーにひらひら手を振って猫かぶりの美風藍を演じ、ふっと息を吐いて下ろした。隣に並んだが「さすが美風」と呆れたような顔でボクを見上げて笑う。その目元はまだ赤い。
「貸し一つだよ」
「はい美風様」
「キモチワルイからそれやめて」
「じゃあ藍様」
「却下」
「何よ。じゃあ藍」
「…そもそも名前呼びの変化でしか貸し一つを返せないのかってことだと思うんだけど?」
 む、と眉根を寄せた彼女が財布を引っぱり出す。五百円玉を取り出してボクの手に押しつけてきた。「それでクレープ買って」「あんな無駄に高カロリーなもの食べない」「どうしてもとびきり甘いヤツが食べたかったんでしょ?」「君のための口実じゃないか」「分かってますぅ。月末でお金ないから五百円しかあげられないけど、藍の好きなもの買えばいいよ」べっと舌を出したに半分呆れて半分感心する。ボクよりずっと年上のくせに子供っぽい。あと、仕事上の相手が誰であろうと個人的に贔屓はしない。あわよくばお知り合いになろうってのはあるだろうけど、あからさまではない。たとえばあのマネージャーみたいに。
(……好きなもの、ねぇ)
 機械であるが故に好き嫌いなんて設定上でしか使わないボクは、五百円玉の硬貨を掌で包んで、ヒールの音を鳴らしてやってきたマネージャーに天使の笑みを向けて五百円玉をポケットに突っ込んだ。
 土砂降りの雨の中、駅前で車を停めてもらい、傘を指して外に出た。変装としてサングラス、パーカーのフードを被ったまま指でブリッジを押し上げる。ただでさえ暗いのにサングラスなんて視界を遮るだけだけど、借り物に文句も言えない。
 サングラスの持ち主はといえば「よおし買うぞお!」とこの雨の中元気よく走り出している。「ちょっと転ぶよ」と雨に煙る背中に声を投げたところで土砂降りの雨の音で彼女が返事をしたのかしなかったのかすら分からず、角を曲がって消えた姿に、五秒くらい考えてから同じ方向へ、雨水の溜まる路面を蹴って進む。
 クレープが食べたいと言って駅前に出てきた手前、彼女が戻るまで待つこともできないし。だからってクレープが食べたいわけでもないし。仕方がないから、追いかけよう。
 …それにしても誰もいないな、と豪雨に打たれる駅前の景色を眺め、これだけ人がいないのも珍しい、とデータを取って、彼女が曲がった角を右へ。
 一本入ればすぐそこにあるのは布や糸ばっかり扱ってる店だ。ただし一見さんお断り。イマドキ駅前でその条件じゃ潰れると思うんだけど、リピーターが多いのか、未だに潰れていない。
 傘を閉じてカランカランとベルを鳴らすドアを押し開けて中に入り、ふう、と息を吐いてフードを取る。カウンターでノートパソコンを眺めていた店主の視線がこっちにスライドした。「いらっしゃい…なんだい坊主か」相手が客じゃないと分かったらこの態度の親父だ。それでもにこっと営業スマイルを浮かべるのが外でのボクである。
「すみません。がどうしても必要な生地があるとかで」
「知ってるよ。彼女はウチのよさを理解してくれてるからね。こんな雨の日でも実に熱心だ」
 分かった顔で頷く店主に、頭の中が少し熱くなる。
 商売でしかに接したことがないくせに何を言ってるんだろうこの親父は。
(お前にの何が分かる? 仕事となったらこだわりぬいて二徹三徹だって辞さない彼女の職人肌を理解しているとでも?)
 ボクらの会話なんて聞こえていないのかは商品を見ることに夢中だ。
 すっと息を吸い込んで、熱くなった頭を意識して落ち着ける。
 …おかしいな。どうしてボクの思考回路は少し熱くなったんだろう。
 自分の思考に疑問を感じながら「」と呼びかけると、三秒くらい遅れて「はい?」と上の空の返事が返ってきた。視線は相変わらず布地やら布切れに釘付けだ。
「あまり長くは無理だよ。時間は逃げるんだから」
「はいはい分かってます。美風カゴ、カゴ取って」
 ボクは君の従者じゃないんだけど、と吐息してからカゴを手に隣に行けば、どさどさ遠慮なく商品を突っ込む。「こんなにいらないでしょう」と呆れるボクに「どうせ来たんだもん、買ってく」と譲らない彼女は買い物を続けた。ボクが残り五分と指定しなければ片付けなければならない仕事すら忘れていつまでも布やら皮やらを眺めていただろう。その物好きに呆れを通り越して感心すらする。
 なんでこんな、手を加えなければあってもなくても同じものに情熱を向けられるのだろう。
 思考と推察を重ねたけれど、分からない。分かったことはそれだけだ。ボクには理解不能ということが分かった、それだけ。
 会計後、両手で抱えるようにして紙袋を抱えたがはっと気付いた顔で立ち止まった。「何」「か、傘が持てない」と参った顔を本気でするから、はー、と深く息を吐いて傘立ての傘を二本抜く。後ろにボクがいるのになんでボクをまるっと無視したことしか言わないのかな。
「ボクのに入れば。濡れたらマズいんでしょう、それ」
 紙袋を顎でしゃくると何度も頷かれた。ぱあっと表情が明るくなって、さっきの困り顔との差に、思わずデータを取っていた。
 人間て不思議だな。いくら知っても底がない。
 身長的、にボクが荷物を持つより、傘を広げてやった方がいい。別に、荷物を持って傘を広げることもできるけど、それじゃああまりにマネージャーの機嫌を損ねる。別に機嫌を取る必要とかはないんだけど、機嫌を損ねさせる必要もないし。
 カランとベルを鳴らすドアを押し開けて外に出れば、雨と風がボクらを出迎えた。
 バチャバチャと路面で水が跳ねている。道路にできた大きな水溜りに勢いよく排水された水が合流して視界を流れていく。
 空からは大粒の雫。
 どこを見ても水だらけの景色の中、が大事に抱えている紙袋が濡れないように気を遣った。彼女が濡れないようにと傘の半分以上を譲ると、必然、ボクの肩が濡れる。
 パーカーにできる染みを一瞥してから前を向く。
 気にしていてもしょうがない。これくらいなら大丈夫だ。ボクは機械だから、水は得意とは言えないけど。
 水を見ているとうなじ辺りがチリっと熱くなる。浸水しなければ大丈夫だから軽く濡れるくらいは演出としても問題ないけど、この雨の量と勢いは、見ていて気分のいいものじゃない。
(あ)
 ポケットの中の五百円玉の存在を急に思い出した。
 …好きなものなんて結局思いつかなかったし、五百円なんて、ボクにはあってもなくても同じような価値の金額だけど。
 ポケットに片手を突っ込んで五百円玉を取り出す。
 どこにでもある日本円の硬貨を、何となく、雨の景色の中紙袋を抱えて満足そうな顔をしている彼女の横顔と共にメモリーに記録しておいた。