1月1日、元旦。朝からやかましい電話の音で起こされた。人がせっかく気持ちよく熟睡していたっていうのに元旦からひどい仕打ちである。
 うう、と唸って手を伸ばし枕元でやかましい携帯を掴み、着信相手を確認。何か急な仕事が入ったとかだったら嫌でも覚醒しなければと思って画面に表示された名前を睨み、『美風』という二文字を睨みつけて数秒。私は枕に顔を撃沈させて無言で着信をぶっちぎった。
 そりゃあ美風は私の大事なお仕事の被写体でなくてはならない人なんだけど、元旦の朝からモーニングコールで起こされるほど仲がいいわけでもない。仕事だったら事務所から連絡が来るはずだし、美風がそういうことを自分から知らせてくるなんて思えない。
 つまり、今の電話は仕事関係ではない。
 じゃあ切っても大丈夫。それで美風が機嫌を損ねたとしても、今の私には睡眠が何より大事だ。
 枕に顔を埋めて数秒で携帯は再びやかましいコール音。
「うう…なんなのよぅ」
 気のせいかしゃがれていると感じる声でぼやいて仕方なく出てあげると、『ちょっと何勝手に切ってるの?』と冷たい声が私の聴覚に突き刺さった。言外にこのボクが電話してあげたのになんて言葉がつきそうないつも通りの美風の声だ。
「元旦の朝っぱらからなんですか……私はまだ寝てたい…」
『初詣行くよ』
 相変わらずの突き放した声音。しかしそれに似合わないその言葉。
 ん? と首を捻ってしまう私。
 確かに元旦ですが、だからってアイドルの美風が初詣したいなんて、あまりに似合わない。お参りなんて所詮願かけ、いもしない神様に祈る気にはなれないって切って捨てそうなのに。
「誰が?」
『君が。ボクと』
 それでもってますますらしくないことを言うので、私は電話の向こうの相手に困惑するわけで。『したいんでしょ? お参り』「あー、うん。仕事用のお守りとかほしいけど」『だったらさっさと支度して。三十分で行くからね』「え、ちょ、」ブツ、と通話が途切れた。私は困惑顔のまま携帯を眺めてぱたりと手を下ろす。
 なんか知らないけど、そういうことになってしまったようだ。私に拒否権はないらしい。まぁ立場的に強いのは確かに美風なので、彼に付き合えと言われたら私はやっぱりそうするしかないわけなのだが。
 寝起きから三十分で出かけられるように身支度しろという美風の無理難題になんとか間に合わせ、朝ごはんも食べずに冷蔵庫のミネラルウォーターのボトルだけ持ってブーツに足を突っ込んでコートを着ていたところでピンポーンとチャイムが鳴った。「はぁいはいはい待って、待って」ずぼ、とコートの袖に手を通して鍵を外して扉を開ければ、メディアに露出している美風藍からは想像もできないほど野暮ったい格好をした美風が立っていた。思わずぶふっと吹き出してしまう。よれよれでくたびれた感じのデザインが古いコート、髪は全て毛糸の帽子の中にイン、整った顔立ちに不釣合いな瓶底の眼鏡。これもまた古そうなデザインだ。
「な、何それダサい。中年のおじさんじゃないんだから」
 なんとか笑いを堪えようとするものの結局吹き出した私に、美風は不機嫌そうに眉根を寄せて眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「人の多いところへ行くんだ、美風藍だって分からない格好の方がいい」
「はぁ、そうね。そうね」
 いつまでも笑っている私に美風が眉尻をつり上げたので、おっとこれ以上は怒られそうだ、と笑いを引っ込める私。
 コートのポケットの鍵で施錠してアパートの扉前から離れて二人で歩き始める。
 いたって平凡的な格好の私と、ダサい格好をした美風。でも案外と、背中を丸めて猫背になって歩く美風はそういうダサい格好も似合っている。全く、15歳にして末恐ろしい未来の可能性を持つ子だ。
 行くんなら屋台も出てる大きい神社へ、と言ったら美風は眉間に皺を寄せたけど、却下することはなく私についてきた。
 1月1日、本日は晴天なり。よかったよかった。新年を始めるのにふさわしい天気だ。
 と思ったところでぐうとお腹が鳴った。…そういえば私は朝飯を食べていなかったんだったか。
「うーん…」
 コンビニに入ったはいいものの。せっかくだから屋台のご飯だって食べたい。でもそうすると財布が心もとない。お守りにお賽銭におみくじに屋台のご飯…。三千円しかないこの財布……。銀行にお金があったかどうかも怪しい。
 ATMの前で財布と相談していると、美風がこれみよがしに溜息を吐いた。サイズが合っていないのかずり落ちる眼鏡を指で押し上げつつ「何、お金ないの?」「うん」「…しょうがないなぁ。貸しだよ」美風がコートのポケットから今日のダサい格好には不釣り合いなブランドの革財布を出す。仕方なさそうに、だけど。
 今日の美風はなんだか贔屓だ。初詣に行くと言い出したのはいいとして、私の家までわざわざ迎えに来るみたいなことをしたのもそうだし、私が行きたいっていう神社についてきたのもそう。それに貸しとはいえご飯を買ってくれるっていうこれもなかなかの贔屓っぷり。少し前の美風なら相手が大物だろうが小物だろうが態度は一貫していたはずなんだけど。
 しかし、私はお腹が減っているのである。美風の申し出は素直にありがたいので甘えておにぎりを一つ選んだ。屋台でもしっかり食べるために控えめに一個。
 歩きながらでも食べられるものをチョイスしたんだけど、美風はレジで肉まんを二つ頼んで、おにぎりの入った袋と肉まん一つを私に押しつけた。「それはあげる」と肉まんを顎でしゃくって一つは自分で食べ始める美風に、首を捻りつつ、ありがたくあたたかい肉まんを頬張る。
 うむ、うまい。腹が減っていればこそ余計に。
 そんな感じでほどよくお腹を満たしつつ最初の鳥居をくぐり、立ち並ぶ屋台を下見しつつ参拝道を歩き、神社を目指す。
 元旦、思っていたよりも人が多い。天気がいいから寒くてもみんなお参りに来たのだろう。ここは近辺では一番大きな神社だし。
 神社へ近付くにつれ人口密度が増してきた。砂利道は地味に押し合いへし合いになりつつある。平均身長しかない私は男性相手になれば当然押し負けるので、背の高い美風とは少しずつ距離が出てくる。
「あ、アイぃ」
 美風、という目立つ苗字では呼ばないことになっているので、響きを誤魔化して名前で呼んだ。助けてーと人混みから手を伸ばす私に、美風は呆れた顔で手を伸ばし返して、私より大きな手で助けを求めた手を取る。
「はぐれないでよ、しゃれにならない」
「こうも人が多いとは…押し負けちゃうのよぅ」
「ふーん。じゃあ、負けないようにしてあげるから歩いてね」
 言うが早いか、美風は私の肩を抱いた。お? と目を白黒させている間にすっかり抱き込まれていて、むしろ、美風が歩きにくいことこの上ない感じになっている、気がする。「あ、アイさん」「何」「歩きにくくないですか」「それなりに歩きにくいけど、亀の行進みたいにしか人が進まないんだ。問題ないよ」いつも通りな感じでしれっとそう言う美風の顔には瓶底の眼鏡。ダサいコートにニット帽。そんな格好の美風でもよく見ればイケメンであることは隠せない事実なのであって。
 で、私はそんなイケメン15歳に抱き込まれて何をしているのかという話であってだね。
(……あったかいなぁ美風。なんでかなぁ)
 カイロみたいにほくほくしている美風に背中側から包まれていると、それだけで寒さを忘れるようで、神社までの長い道のりもそう苦ではない気がした。
 神社にお参りするための作法を調べようか調べまいかと寝ずに考えに考えて、結局下調べも何もしなかった。自分のため、というよりはのためにそこまでする自分は馬鹿でしかないと思ったからだ。
 たかが願かけ、いもしない神へ縋って願って自己満足で終わる行事だ。ボクには関係ないし関心もない。
 そうは思っていたものの、この辺りでは一番大きいんだと言われる神社の前にできる人だかりと、投げ込まれる賽銭をデータとして集める。一円しか投げない人もいれば千円札を投げる人もいる。ボクにはただの捨て金にしか見えない行動だけど、投げ入れる本人には意味のある行動なんだろう。多分。
はいくら投げるの?」
「えーっと、ご縁がありますようにの五円玉と、五円の十倍ご縁がありますようにの五十円玉。お金があったら五百円も投げたかったけど」
 人の腕の中で財布を広げて唸る彼女はわりと真剣な顔つきをしている。この願かけが現実の何かに成ると信じているのだ。考え方も都合がいいっていうかちゃっかりしてるっていうか。まぁいいんだけど。
 …と、いうか。人混みの中では猫背のがあまりに小さくて、人の波に押し潰されそうな気がして、思わずこうしてしまったけど。ここまで来たんだしそろそろ離してもいいんじゃないだろうか。お賽銭を放り込めばこの人混みは抜けるわけだし。
 うん、そうだ。離そう。
 思ったところで人混みが一歩前に動いた。腕、ではなくて足を動かして、「もうちょっと」と白い息を吐き出すを眼鏡越しに眺める。
 離そう。そう思ったのに、腕の関節はぎこちなく軋むばかりで、思うように動かない。
 ずっと抱き締めてたからその形で関節が固まっている。動きそうにない。そんなはずがないのにそう錯覚するようなこの軋み方。
 ボクは、を離したくないのだろうか。それは、なぜ。
「アイ?」
 前進んだよ、と彼女の目に急かされて一歩前へ。同じ調子でいけば腕も動くはず。だけどやっぱり動かない。油が足りなくてブレーキをかけたら軋んだ悲鳴を上げる自転車みたい。
「ちゃんと」
「え?」
「藍って、呼んでみて」
 動かない腕の代わりに口から滑って出た言葉。あ、と思って噤んだときにはもう遅くて、なんで? と首を捻った彼女がこっちを見上げている。不思議に思いつつも問い質すことはなく、「藍?」とボクのことを呼ぶ、君が、
 君が、ボクの中で場所を取っている。最初の頃よりずっと大きな容量で、記憶というデータだけでは飽き足りず、ボクの思考回路の所々にその存在をちらつかせるようになった。
 理解できなくて、理解できるまで読んでやろうと彼女の仕事部屋から持ち出した恋愛小説。その一文にこういう表現があった。
『彼女のことがいつ何時も、頭の中を離れない。』
 ボクのコレは、そういうことなんじゃないだろうかと、最近、なんとなく、そう思うようになった。
 でも、それは馬鹿馬鹿しいことだ。だってそうだろう。ボクは機械なんだ。人間じゃないんだ。人間みたいに恋したり、誰かを愛したり、好きになったりなんてできないんだ。
 博士はボクには無限の可能性があるって言ったけど、ボクは自分には機械以上の何かはできないと最初から諦めていた。
 機械だったから何でも予想できた。確率も、予想も、未来も、全部想像できた。自分の行き着く先でさえ。
 15歳のアイドルは、天使みたいな笑顔でみんなのことを癒して歌って踊って夢を配る。
 でも、本当のボクは機械で、天使でもなければ人間ですらなくて、機械の身体にチューブを何本も繋がれて、死んだように横たわっている。
 生きていく意味も。死んでいく意味も。息をする時間も。メンテナンスのためチューブに繋がれ目を閉じている時間も。どちらかといえば、全てが億劫でしかなかった。
「恋って楽しいの?」
「え? えー、えーと……あまり経験がない人に訊くのはどうかと思いますが」
「誰かを好きになったことはあるんでしょ。それって楽しい?」
「えー…うーん、楽しいばっかりじゃないよ。苦しいときもあれば悲しいときもあるし、嫉妬とか、することも多くなる。それで胸が苦しかったり、他事が手につかなくなったりね。その代わり、些細な小さなことが嬉しくなる。たとえば、今日お話できたなぁとか、目が合ったなぁとか。好きにならなかったら何でもなかったことが、自分の中で大きく、素敵なことになったりする、かな。ってなんでそんな話」
 チャリーン、と五円玉と五十円玉を投げ込んだが手を合わせた。ボクも彼女と同じ五十五円分を放り込み、彼女に倣って手を合わせる。

 願かけ。願い事。
 ボクが、今、一番叶ってほしいことは。

 考えながら歩いた。おみくじを引く列に並んで、寒そうにするを大義名分のもとに抱き込んで、三十分くらい並んだ末、ボクは大吉、彼女は小吉を引いた。興味はなかったけどデータとして写真と一緒に保存し、彼女がそうしたようにおみくじが結びつけられている枝に破れないように結んだ。
 その後は砂利道にたくさん出ている屋台を練り歩いた。からあげ、焼きそば、たこ焼き、チョコバナナ、りんごあめ、カステラ、わたあめ、サメ釣りエトセトラ。ぼったくりもいい加減にしろという数字が並ぶ中、一年に一回だし、と彼女は気前よくあれこれ購入した。そのうち財布がすっからかんになったので、物足りなそうにしている彼女のため、仕方なくボクが財布を引っぱり出した。
 仕事をしているときののことばかり知っていたから、仕事以外の彼女の表情をあまり知らなかった。随分と子供っぽい顔で笑う。
「アイーあとで返すからあれも! あれも買って!」
 ぴょんと跳ねた彼女が指すのは大きな貝だ。水槽に入ってるあれを焼いて提供する屋台らしい。
 ふう、と一つ息を吐いて、しょうがないので希望を叶えてあげた。「じゃ、それ一つ」「まいど! 彼女の分だけでいいのかい? 元旦くらいごちそうしてやれよ彼氏!」…そういう彼氏彼女とかじゃないし。仕事上のパートナーでしかない。今はまだ。
(今はまだってなんだ。矛盾してる)
「…じゃ、そっちの焼き鳥二本。ももで」
 商売に慣れてる中年の男は慣れた手つきで会計をすませた。千円札二枚で支払ってお釣りの小銭をポケットに突っ込み、ビール箱を反対にして板をくくりつけただけ、という簡単な椅子に腰かけて足をぶらつかせている彼女のもとへ戻る。貝は今から焼くので先に焼き鳥だけ持ってきたボクをまんまるにした目が見上げてくる。
「今日のアイはなんか珍しいね」
「は? 何が」
「なんかさ、いつもと違う感じ」
「見た目ってこと? 変装してるんだから当たり前だよ」
「そうじゃなくて。もっと、こう、なんていうの」
 粘土細工でも作ってるみたいにもにょもにょ手を動かしたが曖昧に笑う。「恋の話もそうだけど。ついにアイも恋をしたとか?」なーんてね。誤魔化して笑った彼女が焼き鳥の櫛をつまんでかぶりついた。
 恋。
「……そうだったらいいなと思ってるけど」
 ぼそっとこぼして焼き鳥の櫛をつまんだボクに、彼女が咽て咳き込んだ。詰め込みすぎだよと呆れて背中をさすってやる。相変わらずの猫背と撫で肩。頼りなくて、力加減を間違えたら折れてしまいそう。
 苦しさで涙を浮かべる瞳が昨日の泣いていた君に重なる。
 …ほら。必要もないのにボクの思考回路が君を想起している。ただの過去、ただの事実、それで終わらせない。
 小説みたいな恋はできない。物語のように流れる想いも生まれない。ボクは機械だから、全てのことを分析してしまうし、考えてしまうし、直感とか第六感とかは信じないし、全てデータをもとに思考し結論を導き出す。
 そんなボクの気持ちでも、心でも。そう呼んでいいのだとしたら。ボクのこれは、きっと、多分、恋だ。
 服のボタンとか素材の布や皮の一つ一つにこだわり、情熱を向け、そのためなら寝る暇も食べる暇も惜しまず、人としてはあまりできた生活をしてない、仕事上だけの付き合いのパートナー。
 いつからだっけ? 仕事のしすぎな君をそれとなく帰るよう仕向けるようになったのは。
 いつからだったっけ? 理由もないのに呼び止めて、その度に理由を作って、適当に誤魔化しながら、自分で引いた線を踏みつけ越えたのは。
 必要ないのに余分なことをしたのだってそのせいだ。その気持ちのせいだ。そう考えれば少しは納得がいく。
 ボクが、君を好きだから。全てのことを、身勝手に、自己満足に、してあげたいだけ。
「恋をしたことも、人を好きになったこともない。なかった。だからこれが正しいのか分からないけど」
 。ううん、。ボクは君を独り占めしたくてたまらない。
 そう告げたボクに、君は目を丸くしていた。そんな君の表情でもボクは記憶する。どんなに情けない泣き顔でも、最高の笑顔でも、君に関する全部をボクの中に留めておきたい。
 ぽかーんとしたまま固まっている君と、そんな君を見つめるボクの前に「焼き立てだよ!」と空気を読まず置いていかれる炭焼きの芳ばしい香りの貝。
 はっと我に返った彼女は「あ、貝。貝を食べよう」と慌てたように割り箸を手に取って、ばき、と下手くそに割った。「熱い方がおいしいよ。ほら、アイも」不自然に慌てる彼女の頬がほんのり赤かった。…それなら今は問い詰めるのはよそうとボクも割り箸を取る。
 本当なら今すぐ是の答えがほしい。否だというならその理由も聞きたい。何でも知りたい。何でもいいから。なんだっていいから。
 学習するよ。君が好きになってくれるように。
 成長するよ。今よりもっとずっと人間らしく、人間みたいになれるように。ボク、頑張るよ。

好きをくださいと願った日