ある日決めた。日記をつけようと。
 それまでわたしは日記なるものを記したことなんてなかったけれど、そもそも文字を書く機会もあまりなかったのだけれど、そう思ったことで気に入るような日記帳を探しに文房具店を訪れたりした。でもそこじゃちょっと地味めのものばかりだったから市場へ出かけて人ごみにまぎれながら気に入るデザインの日記帳を探した。かわいいのがいいのかシックなのがいいのか、それとももっと豪華なものがいいのか。気に入るものを探すのは時間がかかったけれど、わたしは見つけた。手触りがよくて、持ち歩いてもへにゃってなったりしないようにハードカバーで覆ってあるそれを。
 だからわたしは出かけるときいつもその日記帳を持ち歩こうと決めた。それからお気に入りの万年筆も一緒に携帯しようと思った。ほんとは雰囲気が出るし羽ペンなんかがいいなと思ったけど、あれはインクがいるし、持ち歩きには少し不便だから。
 だからわたしはその日記帳と万年筆を鞄に入れて、今日も街へと出かけに行くのだ。
「こんにちわ」
 それでその日は白い髪をした子に声をかけられた。ベンチに座ってぼんやり公園の噴水を眺めて休憩していたわたしは一つ瞬きして顔を上げる。白い髪をした子はにっこり笑って「それいいですか」と言うから、わたしは自分の膝の上にあるものに視線を落とす。籠。残り一つの黄色の花。ああそうだ、わたし今日は花売りをしてたんだった。忘れてた。
「最後だから。ラッキーねあなた、サービスしたげる」
 だからわたしはその子に黄色い花を差し出す。目を丸くして「いいんですか?」と言ったその子にわたしは頷いた。
 この籠いっぱいにあった最後の花だ。これだけ売れたのだから一つくらい誰かにあげたって文句なんて言われやしない。花を受け取ったその子が笑って「ありがとうございます」と言うからわたしも笑った。幼い顔立ち。でも着てるものはちょっとしっかりしてる。黒いコートに白いクロス。
 黒いコートに白い。クロス。十字架。
 空っぽの籠を抱えて立ち上がり、もう行かないといけないことに気付いて「じゃあね、さよなら」と言葉を残して公園を出て行く。「さようなら」とその子はわたしを見送った。わたしはぎゅうと籠を抱きかかえて早足に公園から離れていく。
 そしてわたしは、忘れないうちに今日あったことを日記帳に記す。
 黒いコートに白いクロス。十字架。
 あれがなんであるか、何を意味するのか、わたしは知っている。
(…エクソシスト)
 まだ大人にもなってない、子供の男の子だった。わたしも同じくらいの外見だろうか。あまり鏡を見ないしあまり見た目を気にしたことがなかったけれど、そういえばどうだったろう。最近のもっぱらの関心はこの日記。わたしはこの日記にその日あったことを憶えている限り書き記している。
 誰かと話した会話の数も、その内容も、その日の時間の流れを追うようにして。
 それから最後に付け足す。
 その日に殺した人の数を。
 理由はただ一つ。それはわたしがアクマだから。
「…今日の数。いくつだっけ」
 鞄から日記帳を取り出そうと思って、だけどその自分の手が血まみれなのに気付いてぴたと手を止めた。だめだ今触ったら日記帳汚れちゃう。せっかくきれいなの買ったんだから、きれいなままにしておきたい。だからすぐそばの川でざぶざぶと手を洗った。石鹸ないけどしょうがない。忘れないうちに数を書いておかないと。忘れないうちに。
「こんばんわ」
「、」
 忘れないうちに。
 振り返ればそこにはお昼に会ったあの白い髪をした子がいた。コートは黒くてやっぱり白い十字架を掲げていた。だからその子は間違いなくエクソシストだった。
 濡れた手をタオルできれいに拭く。「こんばんわ」と返しながら鞄に手を伸ばして日記帳を取り出す。ぱらぱらとそれをめくって今日の日付の部分を探し出す。向かい側にはエクソシスト。昼間にも書いた。この子のこと。
 すぐその場で何も起きなかったのは、この子がわたしをアクマと気付かなかったからか。でも。
「…その、左目。あなたアレン・ウォーカーでしょう?」
「当たりです。どうして僕のことを?」
「有名だからよ。わたしたちの間でも、あなたのこと。その呪われた左目はわたしたちを視ているって」
 今日の数。殺した人の数。確か19だった。だからわたしはその数字を記す。そうして万年筆にきちんとキャップをしてぱたんと日記帳を閉じた。
 顔を上げる。目の前にはエクソシストが一人。まだ子供。この子を殺せばちょうど20でなんだか区切りのいい数字だ。わたしはこの子を殺さないとならない。なぜならわたしはアクマだから。アクマは人を殺す。わたしたちを壊すことのできる人ならなおさら殺す。自分が壊されてしまう前に。
 だからわたしは、人の形を崩す前にその子に聞いた。疑問に思ってたことを。
「その目に映っててわたしがアクマだってわかってたなら、昼間あの公園で、どうしてわたしを殺さなかったの?」
 その子が笑う。わたしをアクマと分かっていながらそこで笑っている。そうして言う。「あなたがあんまりにも人間らしかったから」と。だからわたしは瞬く。人間らしい。アクマと分かってる相手にそんなことを思うって、変。
「花を売ってたんでしょう? あなたのこと見てました。魂を感じた瞬間から」
「…花売りしてたんだもの。お花売るに決まってるじゃない」
「そのときのあなたは、笑ってた。まるで人間のようだった。だから少し様子を見てたんです」
 その子の左手が形を変える。歪な形。でもわたしも人の形を解いたら同じくらい歪になる。その子が悲しそうに笑って「できれば信じたくなかった。でもこれが現実だから」とこぼす。
 わたしは日記帳と万年筆を鞄に戻した。
 ここで、おしまいだ。
(アクマになってしまったから。わたしはそれに生まれたただの自我だから。だからしょうがない。しょうがないの。人間にはなれないの。どうやっても、真似事しかできないの)
 日記を書いても。どれだけ人と同じことをしてみても。わたしは結局人を殺してしまう。人のようになりたいと願いながら人を殺してしまう。
「あなたを破壊します」
 歪な形の左手。イノセンス。それを感じながらわたしは人の姿を解いた。
 もうおしまいだ。いつかおしまいがくることは分かってた。だから大丈夫、怖くない。大丈夫。痛いかもしれないけど怖くはない。苦しいかもしれないけど怖くはない。
 わたしは、あるべき場所へ還る。それだけ。
 ぎし、と軋む音がした。
 一体のアクマと戦った。自我を持っているそのアクマは僕と同じくらいの外見の少女の姿で、昼間見たときは見間違いかと思ったくらいに人と同じように振舞っていて、人と同じように息をしていた。
 だけど今目の前にいるその子はもうアクマだった。兵器だった。レベルは2か3か分からない。進化したアクマは固有の能力を持ち、僕らはそれに気をつけながらアクマを破壊する。
「……どうして」
 だから。大した抵抗もなく僕の左手にボディの大半を壊され、それでも反撃というものをしようとしないそのアクマに、僕はそう訊いていた。ぎぎと軋む音がしてアクマが笑う。「どう、シて。どうしテかな。ドうして」そう呟く声にも力は感じられなかった。
 破壊しなくては。内蔵されてしまった魂のためにも、僕はこのアクマを破壊しなくては。
 だけど昼間に見た花売りをしていたその子の姿が、まるで人間のようだったその子の姿が、頭から離れない。
「あれん」
「、」
「壊すノ。アレん。わたしを、こわす。こわして」
 ぎぎぎと軋む音。「アレン」と呼ばれる。迷ってる時間も考える暇も本当ならなかった。だけどその子が、自分の力を抑えているから。だから僕はこうやって考える時間が。本当なら休む暇も息つく暇もない戦いをするはずなのに、こんなに一方的に僕ばかりが攻撃してアクマを破壊して。
 アクマを。
「…哀れなアクマに。魂の救済を」
 銃の形をした左手を添えて。僕は引き金を引いた。どんと音がした。アクマは弾け飛んだ。魂が見えた。内臓されていた魂は、浄化された。
 だけどちっとも、アクマを救った気にはなれなかった。
 昼間見たとき、見間違いであってほしいと願った。感じた魂の存在とアクマの存在。花を売って笑っている子。アクマ。信じたくなかった。信じたくは。
 だけどこれが現実だから。
(…あれは)
 発動を解いた手を伸ばす。夜闇の中、彼女が最後に人の姿で記してたもの。鞄から少し顔を覗かせているそれは、日記帳だった。一緒に万年筆も出てきた。試しにぱらりとページをめくっていけば、スケジュール帳のように細かくその日何をしたかが書いてあった。女の子のつたない字で、それでも懸命に字を綴っていた。
『○月□日
 今日は朝早くに目が覚めた。やることもなかったから一日ぽっきりのバイトってものをしてみた。大きな館の清掃のバイト。体力仕事で女の子には厳しいよと言われたけどわたしはへっちゃらだ。だからその日はそれをやることにした。
 お昼、休憩の時間に同じように一日ぽっきりの清掃バイトにきてるおじさんに褒められた。お嬢ちゃんえらく体力あるなと。俺も見習わないとなって。でも当然だ。だってわたしは…
 夜、その日のバイトは終わり。一人の帰り道でわたしは空腹を感じた。だけどそれを我慢する。そうしないとわたしは、今一番近い、あの館にいた人たちを襲うだろう。それは、いやだから』
 日記だった。本当に、それは日記だった。ページをめくればめくるほど彼女が過ごした日々が目の前に再現されるようだった。それくらい彼女はとても、人間らしかった。
 ふいにぽたと涙が落ちて慌てて目を擦る。
「…馬鹿か僕は」
 ぱんと日記帳を閉じて、落ちている鞄に万年筆と一緒に突っ込んだ。ふうと一つ大きく息を吐く。
 大丈夫。これは僕が自分で選んだ道。歩いていくと決めた道。
 だから大きく振りかぶってその鞄をぽーんと夜空に放り投げ、それから左手を発動し銃の形を作り出してどんと撃った。当たり前に全てが砕け散った。彼女が懸命に記した日々も、全てが。
 それまでフードの中に隠れていたティムがもそっと顔を出す。だからティムに笑いかけて「終わったよ」と言ってその場に背を向けて、さああと夜風に消えていくアクマの残骸に、彼女の残骸に背を向けて、僕は歩き出した。

 大丈夫。これが僕の選んだ、生きていく道だ。

いつだって踏み潰して
(そうして、僕らは先に進み続ける)