三日くらいの言葉のとおり、彼は三日後に帰ってきた。珍しく怪我をして。胸の部分が裂けたコートを脱ぎ捨てたアラウディが「怪我した。手当て」とぼやくから彼が怪我をしたという事実に打ちひしがれていた私は我に返って慌てて救急箱を取りに行った。どかりとソファに座り込んだ彼からは鉄錆のかおりがふわりと漂う。それに少し眩暈を覚える。
 白いわたをピンセットでつまんで消毒液を垂らし、ワイシャツをはだけさせた彼の胸の傷をそっと消毒していく。何かの攻撃を避け損なったんだろう、薄く真一文字に走るの傷跡はそうひどいものでもなかった。これなら表面くらいすぐ塞がってくれるだろう。よかったと心底ほっとする。こんな傷作って帰ってくるなんて、すごく久しぶりだ。今回の仕事はそんなに大変だったのだろうか。
 なるべく丁寧に傷口の手当てをする私に、彼は何も言わない。
 消毒液に浸したガーゼを傷口に貼りつけ、最後にくるくる包帯を巻いた。きゅ、と軽く結んで「できた。お風呂で濡らさないようにね。黴菌入るから」「分かってる」血で汚れた破れたワイシャツやスーツを持ってさっそく洗濯をしなくてはと思ったとき、ソファに座ったまま彼がぼそりと「ジョットはどうだった」なんて言うから一つ瞬きした。どうだった、って言われても。
「いい人だね。この街や住む人のことちゃんと考えてくれてる」
「そうだね」
「ちょっと抜けてるところもあるけど、かっこいいし、十分いい人だと思う」
「そうだね」
「…えっと」
 同じ言葉しか返してくれない彼に困惑して眉尻を下げる。アラウディは私になんて言ってほしいんだろうか。
 ふうと吐息した彼が「お風呂に入りたい」なんて言うから「消毒したところだよ」と眉を吊り上げる私。でも彼は当たり前のように立ち上がってお風呂場に向かうのだ。「濡らさなければいいんでしょ」「そうだけど…」「着替え。用意して」無言の抵抗を試みた私だったけど、こっちを振り返った彼の水色の双眸に見つめられると結局流されてしまう。「分かった」と細く息を吐いて彼の自室まで行って黒いパジャマを取ってきた。どぼどぼバスタブにお湯を入れる音が脱衣所の向こうから聞こえてくる。
 開いたままの扉からそっと中に入って、着替えを籠の中に入れる。
「アラウディ、着替えここ置いとくよ」
「背中洗ってよ」
「へ?」
 聞こえた言葉に素っ頓狂な声を返してしまった。そろそろ出ていこうとしていた私の手を掴んで止めた彼が「自分でやると濡れるから背中洗って」「え。え、でも」「…何か文句あるの」「う、ううん」ぶるぶる首を振った私の顔は多分赤い。
 どうしてジョットといいアラウディといい、こっちがどきっとすることをこうもナチュラルに。ストレートに表現するんだろう。
 すぐそばで男の人が服を脱いでるんだなんて考えて、どきどきしない女はいないはず。私はその間自分の服の袖をまくったり髪をまとめたりしていたけど、気恥ずかしいものはやっぱり気恥ずかしい。
「あ、アラウディ先入ってよ。いいよって言ったら私入るから、ね」
「…そ」
 明後日の方を向いたまま口早にそう言う私に、彼は一言残してお風呂場のガラス戸の向こうに行ってくれたようだ。ほぅと息を吐いたのも束の間、「いいよ」とすぐに声が聞こえてどきんと心臓が跳ねる。いいよって、それ、お風呂場入ったってだけなんじゃ。
 でも、いつまでもこんなうじうじ? うだうだ? してるとアラウディの機嫌が斜めになりそうだ。それはいやだ。ごくんと唾を飲み込んで覚悟を決めて顔を上げて振り返る。いつもの顔でバスタブに腰かけている彼は私の気持ちなんて露知らずで欠伸なんかしている。
(た、タオル一枚のくせにどうしてそんなに普通なんだアラウディの馬鹿っ!)
 ぎくしゃくしながらお風呂場にぺたりと素足で踏み込む。どぼどぼお湯を吐き出し続けるバスタブに足を突っ込んだ彼が「ジョットとは」「え?」「…あいつと何かあった?」「? 何かって?」さっき巻いたばかりの包帯をしゅるしゅると取っていく。アラウディは腰までお湯に浸かったところだ。細い腕が伸びてきゅっと栓を捻ってお湯を止めた。
 ぽたん、と雫が落ちる音がやけに大きく響いて聞こえる。
 私は首を捻った。彼の言葉がどういう意味なのかよく分からない。
 彼は明後日の方向を見たままだった。私はお湯に手を浸して、その手で彼の背中をゆっくり撫でるようにして濡らしていく。
「ジョットはいい奴なんだろ」
「うん。そう思う」
「僕のそばよりジョットのそばの方がいいだろ」
「? どうしてそうなるの?」
 意味が分からなかった。彼はぼそぼそ不機嫌そうに「だって、そうなるだろ」と私には分からないことを言う。なんだかよく分からない。彼の頭は今どんなことを思い浮かべているんだろう。今何を考えてるんだろう。ゆっくり彼の背中を撫でて濡らしながら、私は困り果ててしまう。
 タオルを濡らして石鹸で泡立て、ゆっくり丁寧に、彼の背中を洗っていく。撫でるように。
「ジョットはいい人だと思うけど。私、アラウディの方がいい」
 心から思っていることを言うと、ぱしゃとお湯が揺れた。あまり表情を動かすことのない彼が、驚いた顔で私を見ていた。私はその顔にきょとんとする。どうしてそんなに驚いてるんだろうアラウディは。
「僕の方がいい…?」
「う、うん」
「どうして」
「どうしてって…えっと」
 どうしてと訊かれると言葉が出てこない。彼の背中を洗いながら「えっと、どうしてって言われても。アラウディの方がいいんだもん」「だからどうして」「それは……うう」どうして、の答えが自分の中に見つからない。どうしてって言われてもそう思うんだから、理由なんて。
 じっとこっちを見ていた彼が吐息して「もういいよ。なら、いいんだ」とぼやくように言って目を閉じた。
 彼が結局のところ何を言いたかったのか、私には分からずじまいだった。それから彼は一言も言葉を発しなかったので私も黙っていた。黙って背中を洗って丁寧に泡を取り除き、濡らした掌で何度も何度も背中を撫でるようにして残りの泡も洗い流した。
「…今日ハンバーグがいい」
 お風呂を出た彼の胸に包帯を巻いていると、ぼそっとそう言われた。私は顔を上げて笑う。注文されるとすぐイメージができるし材料のことも手早く考えられる。「ハンバーグね、分かった」きゅ、と包帯を結んで黒いパジャマを広げる。袖を通した彼が適当にボタンを留めて「寝る」と言うから寝室まで見送った。黒い色で統一されたベッドに腰かけた彼がそのままごろりと横になって目を閉じる。
 きっと仕事で疲れてるんだろう。今から眠ってもらって、ご飯のときに起こせばいい。
 寝転んだまま動かない彼のために、羽根布団を手にとって被せてあげた。ふわりと揺れるプラチナブロンドの髪は少し伸びてきているから、また切らないといけないかもしれない。
 布団をぽんと叩いて「おやすみなさい」と声をかけて離れようとしたとき、ぱしと手を握られて、びっくりして振り返る。水色の瞳が少し眠そうに細められて私を見ている。
「…そのうち気付くだろうけど」
「? うん」
 ぼそぼそとした彼の声に枕元に顔を寄せた。「」「うん。聞いてる」「…いい。寝る」かくんと肩を落とす。何か大切なことかと思ったら全然そうじゃなかった。ちょっとむくれた私に知らん顔で目を閉じた彼はもう私の手を離していた。
 全くもう、今日のアラウディはなんだか変だ。ジョットと自分を比較してどうこうなんて言うのもそうだけど、背中洗ってって言うのだって、思えば変だ。
 首を傾げつつ私は彼の部屋を出て、今日の晩餐のために買い物に出る。
 外は眩しいくらいの晴天だったけど、心の中はなんだかもやもやと、すっきりしない。