…一つ、謝らなくてはいけないことがある。
 私があなたと指切りして交わした、最初で最後の約束を、私が守れないということ。あなたはきっと気付いているのだろうけど、それでも笑ってくれたことが、すごく嬉しくて、哀しかった。
 私は逆立ちしたってあなたの真似はできないし、あなたのようにはなれない。結局、なれないまま、届かないままで終わってしまった。
 そのことに今、心からの謝辞を。ごめんなさいアラウディ。私はあなたに嘘を吐いてしまった。
 それでも。そんな私でも、愛していると、抱き締めてくれたこと。生涯私だけを愛するとキスをしてくれたこと。君が欲しいと私を抱いてくれたこと。
 それらの全てを、記憶といわず、身体といわず、魂といわず、もっと深い私自身に刻んで、私はいくね。
 あなたは私よりずっと遠くまで行くだろう。
 いつか、私のことなんて忘れてしまうかもしれない。
 それでいい。それでもいい。それでも私は、あなたを愛している。
 燃え盛る焔の色を見つめ、それらが私を覆い尽くし滅ぼそうとしているのを感じながら、私は目を閉じる。
(こんな最後で。ごめんね。アラウディ)
 私はもう、あなたと一緒には、いけないみたい。
 約束。破ってごめんね。アラウディ。私の、愛した人。
想い出は
 玄関先で車のブレーキの音がした。掃き掃除をしていたところから顔を上げると、きれいな金の髪をしたアラウディの上司の人が車から降りたところだった。私と目が合うとにこっとした笑顔を浮かべて「おはよう」と挨拶をくれるので、私もにこっと笑って「おはようございます」と挨拶を返す。
「アラウディー、車が来たよ」
 二階の窓が開いていたので手でメガホンを作って呼んでみたけど、返事のようなものは聞こえなかった。
 もう、と息を吐いて箒を置いて家に上がる。
 上司の人はその間庭の方を見ていた。なんの変哲もない一軒家の庭だけど、もう少し、手入れしておけばよかったかな。
 こん、と部屋の扉をノックしても返事がなくて、「アラウディ? 入るからね」と断ってからドアノブを回して扉を開けた。
 大きく開け放たれている窓と、揺れているカーテンが一番に目に入った。まだ春には早いこの季節にそれだけ豪快に窓を開けるなんてアラウディらしいけど、冷たい風にさすがに身が竦んだ。窓を閉めに行って、施錠してから改めて部屋の中を見回して彼を探せば、ベッドが膨らんでいるのを見つけた。自然と眉間に皺が寄る。これから仕事だっていうのにしっかり布団を被ってうたた寝だろうか?
 がし、と布団を掴んでばさっと剥ぎ取った。
「こらアラウディ、もう上司の人が来て…?」
 最初は怒った顔と怒った声を作ってみたものの、中途半端に途切れた。
 ベッドにいる彼はさっきまで普通だったはずなんだけど、今はどこか苦しそうに息をしていて、気のせいじゃなく顔が赤い。
 まさか、と思ってぺたっと額に手をやると熱かった。
「アラウディ? アラウディ、辛いの? ねぇ」
 しゃがみ込んでエプロンのポケットからタオルを取り出して彼の額を拭った。普段は汗なんて無縁ってくらい涼しい顔しかしない彼が汗ばんでいる。体温が高いのだ。風邪、かもしれない。
 私の問いかけに対する返事はなかったので、玄関へ取って返して上司の人にアラウディが病気だと伝えた。頭を下げて今日の仕事はごめんなさいと言うと彼は優しく笑って了承してくれた。いい上司さんだ。
「ここしばらく、アラウディには厳しいスケジュールを強いていたかもしれないな…すまない。オレがもっとしっかりしていればこんなことには」
「いえ、いえいえ。私の管理も甘かったんです。私も、もっとアラウディのこと気をつけないと」
 ぶんぶん首を振ってそう言ったら上司の彼はふっと笑った。「オレもお嫁さんが欲しいな」なんて呟きにかーっと顔が熱くなってくる。
 お嫁さん。それはなんだかすごくこそばゆい響きで、いても立ってもいられないようなむず痒さが私のそこかしこで生まれる。
 上司の彼にはぺこぺこ頭を下げて休暇を取ってもらうようにお願いし、黒塗りの車が出て行くのを見送り、私は家に飛んで帰った。アラウディが仕事着のスーツのまま寝ていたのでとりあえず着替えさせ、熱を測り、氷枕を用意して交換し、氷水で絞ったタオルを額に置いて一息。常備薬の薬の類を確認し、それから、朝は入らないとコーヒーしか口にしない彼が食べるものを考えなくては、とキッチンに行く。
 彼が寝たままだから、症状の詳細はまだ分からない。ただの風邪かもしれないし、もっと違う病気かもしれない。それでも胃に入るもので、なるべく栄養も取れるものとなれば、滋養系のスープに、消化しやすいリゾット系かな。
 冷蔵庫を覗いて材料を確認していると、どたんばったんがったんとすごい音がして、思わず振り返ったら、アラウディがいた。なんていうか、落っこちたって姿で階段下にいた。
「わっ、アラウディ!?」
「……ふみはずした」
 ぜぇ、と荒い息を吐く彼が気に入らないって顔で階段を仰いで睨んでいる。慌てて駆け寄って起きるのを手伝えば、彼は自力で歩くのも困難なくらいひどくふらふらしていた。
「ねぇ、どこが辛いとかある? 風邪かな。心当たりは?」
「つらい…というか、だるい。いたいとこはないからへいき。こころあたり、は、ない」
 ソファに脱力した彼の隣に座り込んで、額に手を当ててみる。汗をかいたせいでぺたぺたしているプラチナブロンドの髪を緩く払って流した。「食欲は?」「…いまはあんまり」「スープ系なら、少しずつでも口に入りそう?」浅く頷いた彼に頷いて返す。なら今日はそれで決まりだ。
 喉が渇いた、という彼のために冷蔵庫へ行ってオレンジジュースを取ってきた。あっという間に飲み干した彼が二杯目が欲しいというのでもう一杯注いで持っていく。これもあっという間に空にしたけど、喉の渇きは潤ったようで、彼は細く息を吐いてソファに背中を預け、目を閉じた。
 アラウディの片手がソファの上を這い、私の手を見つけるとぎゅっと握り込む。
 その手に握られて、もう片手で彼の手の甲を撫でたりしながら、投げた視線の先の窓の外の木立にリスが来ているのが見えて、平和だな、と思った。アラウディが風邪を引いたことを除けば、とても平和だ。世界は今日も平和だ。
「ジョット。なんだって?」
 ぽつりと落ちた声に顔を向ける。彼は目を閉じたままだった。私はジョットというらしい上司の顔を思い浮かべつつ「すまないって言ってたよ。最近のアラウディのスケジュールが過密すぎたかもって」「は」短く笑った彼が薄目を開ける。アイスブルーの瞳が覗いて、プラチナブロンドの髪が一房視界にかかるように落ちた。
 手を引かれて、引かれるままに寄り添う。
 私の肩に額を押しつけ、彼が呼ぶ。「」と、甘えるような響きで私のことを呼ぶ。私はそんなあなたの手を撫でて、「アラウディ」とあなたのことを呼ぶ。
 今あなたの隣にいて、手を繋いでいて、寄り添って息をしている。そんな現実がひどく幸せだった。
 何年かぶりに風邪なんてものを引いて、思いのほか回復するのに時間がかかった。
 歳を取ってきてるってことかな、と思いながらまだダルい身体で出社すると、ジョットが一番に寄ってきた。「大丈夫かアラウディ」「平気だよ」「四日は長かったな。さっそく仕事の話になるんだが、いいだろうか」「好きにしたら」どかっとソファに座ってコートのボタンを外す。ジョットが持ってきた書類に視線を投げて斜め読みした。四日ぶりだと仕事は本当に面倒くさい。
「かわいいお嫁さんだな」
「……それが何」
「そう睨むなよ。心から羨ましいだけだ」
 笑って何を言うのかと思えば、この男はそういうことを簡単に口にする。
 だから嫌いだ。君の強さは肯定するけど、そういうところはやっぱり嫌いだ。
 今頃家で家事に追われているだろう彼女のことを自然を思い起こし、この四日は幸せだったな、と束の間彼女との時間に感情が浸る。
 そんな自分の甘い思考を仕事用に切り換え、彼女のことは胸の奥にしまい込んだ。
 どれだけ深くにしまい込んでも、どれだけ鍵をかけても、結局彼女は僕の意識のどこかしらに現れ、僕に笑いかける。アラウディ、と僕を呼んで手を差し伸べる。
 その手を取ろうとしたとき、ギャギャ、という大きな振動で意識が揺れて、冴えた。
「何…?」
 まだ半分寝ている頭でぼやいて瞬きを繰り返す。僕は確か、今日の仕事を終えて、家に帰る車の中、だったはず。
「あ、アラウディさん、あれを…っ」
 運転手の慌てふためいた声に、あれ、と指された方角を見て、
 僕の意識が。身体が。魂が。全てが凍った。
 フロントガラスの向こうで、僕と彼女の家が、燃えていた。
 車を蹴破る勢いで扉を開け放って外へ飛び出す。熱気はここまで伝わってきた。それほどまでにひどい燃え盛りようだった。
? っ」
 声を上げても彼女の声は応えない。周辺に避難してくれたなら、きっと応えてくれるはずだ。嫌な予感が背筋を凍らせる中、リングに落とした視線で一つ舌打ちして駆け出す。僕のリングは増殖。使えない。雨の沈静か、大空の調和か、その辺りでなければ。
 炎が恐ろしくはなかったから家に飛び込んだ。すでに玄関は崩れ落ちていた。
 炎なんか怖くはない。僕が怖いのは彼女が無事ではないかもしれないという現実だった。
っ!」
 声を張り上げて何度も咳き込む。スーツの袖で口元を覆いながら彼女を探して一階を彷徨い、二階へ行こうとしたけれど、階段はとうに焼け崩れていた。
 駄目だ。これ以上はもう僕では。
 げほ、と咳き込みながらも家から出ることもできず、スーツに移ろうとする炎を蹴って避けながら「」と彼女を呼ぶ。そのうち咳が止まらなくなり、息をするのが苦しくなってもと彼女を呼び続けた。返事はなかった。最後までなかった。それは、本当に、僕を絶望の淵に叩き込む出来事だった。
 消火活動を終え、捜索した焼け跡から一つの死体が見つかった。歯型も彼女のものと一致した。
 そうであってほしいという一抹の希望をかけて僕らの家をこんなにした輩を見つけ出し、死ぬ手前まで暴力を加えて彼女の居所を吐かせようとしていた僕は、それを聞いて糸が切れたように動けなくなってしまった。
 焼け焦げ、彼女の面影など全く残っていないそれが彼女なのだと思ったら、もう僕の心はどこへも行けなくなっていた。
 あとはただ、事務的に生きて、事務的に日々をこなす、機械のような僕が残った。
 …あとはもう、特別語ることなどありはしない。
 彼女は死んだ。それは望んだ死の形ではなかったけれど、いつか死ぬ生き物として生まれついた僕らには避けようのない別れの、一つの在り方だった。
(だけど僕はそんなもの認めたくなどなかった)
 彼女の名前を彫った墓を作っても、葬儀を挙げても、心は少しも動かなくて。僕と結ばれた彼女はそれ故に死んだのだ、と思ったら後悔なんて念さえ湧き上がって、終わりなく僕を苛んだ。
 彼女のことばかりで僕の中が埋まっていく。
 そうしてずっと機械のように生きていたら、そのうちどこかで僕も壊れたらしい。
 ああ僕も人間だったのだな。これでまた彼女に会えるかな、と少しの期待を込めて、億劫な身体で目を閉じる。
 黒いワンピースを着て。星が好きだった君が、今日は流星群が見えるからと僕の手を引っぱって、天体観測をしようと言い出した日のことを思い出す。
「今日は、流星群が見える…」
 その一声。懐かしいようなその声で、たゆたっていた意識が急速に今へと醒めた。
 僕はそこにいた。ここにいた。知らない風景の中に。懐かしい面影を持つ少女がすぐそばでベッドに転がって雑誌を眺めている。その横顔がひどく懐かしくて、? と呼びかけた。けれど彼女は僕に気付かず、「天気…今日の天気はっと」と呟いて小さな機械を操作し始めた。
 手を伸ばす。、と手を伸ばして触れようとして、指先が空を切った。僕の指は彼女に触れることなくその腕をすり抜けていた。
 どこかぼやけていて、そして透けていると感じる自分の手を目の前に持ってくる。
 …僕は死んだのだろう。それはいい。それは分かってる。人はいつか死ぬのだから、そんなことはどうでもいい。
 それなら。僕より先にいったはずの、ここにいる彼女は、誰なのだろう。
 懐かしさで離れることができず、呼んでも抱き締めても気付いてくれない彼女のそばをたゆたい、彼女についていき、天体観測に付き合ったり学校へついていったりしているうちに気付いた。この懐かしい彼女は僕の知っているではないけれど、の生まれ変わりとか、その辺りの子なのだろうと。それは僕にそっくりの奴を見つけたことで確信したことだ。
 僕があの黒髪の奴で、君がこの子。きっとそうだ。
(だって、こんなにも似ている)
 教室で必死にテストの予習をしている横顔を見つめる。その横顔は、僕のパートナーとして必死に社交場の勉強をしていた君によく似ている。
 あの終わり方はあんまりだって僕が魂のレベルで抗議したことが叶ったんだ。君がいないなら僕は死んだように息をするしかない、そうやって生きた僕の呪いがこの現実で叶ったのだ。もう一度君と生きたい、という願いが、叶ったんだ。
 叶ったことは嬉しい。
 だけど今の僕は彼女に対して全く興味がないらしいと気付いて複雑な心地になった。
 僕はまだこんなにも彼女を愛しているのに、彼女がいないともうどこへも行けない心しか持っていないのに、あの僕はそうではないらしい。

 ねぇ、寂しくはないかい

 一人ベッドでうつらうつらしている君に声をかける。今はという名前である君は、クッションを抱き締めて今日の勉強の復習をしつつ今にも寝そうになっている。
 ふ、と笑みがこぼれて、伸ばした手が君に届かなくても、僕は彼女の髪を撫でた。何度でも。

 僕はね、寂しいよ。。今の君と僕は一度も言葉を交わしていない。考えられないよ。君がいなくても平気な顔で生きている僕なんて、僕じゃない

 雲雀恭弥、というらしい僕によく似た奴のことを思い出す。
 そして、時間がない、と告げるようにブレた自分の指先を見つめた。
 ここにいる僕はきっと残滓のようなもの。ボンゴレリングの中にいる時間が切り取られた明確な僕ではない。脆くてあやふやで、いつ消えてもおかしくないような、頼りない存在。
 今ここにいられるうちに君へとできることを。僕がしなくては。
 愛している。そう告げても君はうつらうつらと眠そうに船を漕いでいるだけで、僕に気付くことはない。
 ずっと愛し続けるよ。心からの言葉を口にしても彼女は僕を見ることはなく、かくんと大きく船を漕いだ拍子にどさっとベッドに倒れ込んだ。はっとしたように目を開けて「あわ、あー、うー」と眠そうに目をこすって起き上がる姿が胸を締めつける。
 愛している。僕の魂がそう叫んでいる。ここにいる残り物の僕も叫んでいる。君への未練で現在で目醒めた僕が叫んでいる。愛している、と、それだけをずっと叫び続けている。
 、と呼べば君がふと顔を上げて僕を見た。目が合った。そんな気がしただけで、実際彼女はすぐに視線を外してしまう。「えっとー何してたっけ? なんだっけ…あ、復習っ」ぽんと一人手を打ってもう一度教科書を繰り始める姿を見つめ、僕は目を閉じる。
(こんなにも君を愛している僕がいるのに。現在の僕が現在の君を愛していないなんておかしい)
 そうだ、と一人頷いて目を開ける。
 君はすぐそばで難しい顔をして教科書を睨んでいる。そんな君の隣にいたくてベッドに上がり、寄り添って座っても、君は僕に気付くことはない。
 寂しいよね、と言葉をかけても彼女は何も言わない。
 でもね、その寂しさは僕が取り払ってあげる。それが僕が最後にしたいことだ、とこぼして、触れられない腕で、ゆっくりと君のことを抱き締めた。