はぁ、と息を吐いて帰宅すると見慣れた顔のメイドに出迎えられた。「お帰りなさいませアラウディ様」という声に声を返すこともなく、視線をやることもなくコートだけ預けてリビングへ行く。僕のそういった行動に慣れているメイドはそれ以上しつこいことは言わずに僕から離れた。
 はぁ、と息を吐いて自分の口に拳を当てる。
 これで今日何度目の溜息だ。僕らしくもない。

 私、結婚するの

 感情を殺したようなその声が、頭の中を過ぎる。笑っていることの多い君が諦めたような顔をして微笑する。

 だから、アラウディと会うのはこれで最後

 そう言って彼女は僕を振り返ることなく歩き出した。
 かける言葉が見つからなかった僕は、と彼女を呼ぶこともできず、その背中を見送った。
 …まるで、戦場で追い詰められた戦士のように、その背中は覚悟と悲愴さを滲ませていて。そして、全てに諦めていた。
 そんな背中にかけられる言葉が見つからなかった僕は。言いようのない、やり場のない心を抱えて帰宅した。
 ぽつぽつと話には聞いていた。彼女の親がすでに他界していることや、彼女に身寄りがないこと。親の付き合いで面倒を看てくれていたパン屋の売り上げが最近思わしくないこと。彼女が住んでいる借家はとても質素で小さく、狭く、きれいとは言いがたく、そんな場所でも彼女はどうにか生活していたことだって知っていた。
 知っていて。僕は大したことを何もしてこなかった。
(他人の世話を焼く? そんなの僕じゃないだろう)
 そんなよく分からない意地のようなものを理由に、僕は彼女に手を貸さなかった。
 実際忙しかったこともある。ボンゴレ幹部で一人裏切り者が出たから、それの始末とか、しなきゃならないことがあった。それも理由ではある。だけど僕が彼女に何もしなかったのは、しようと思えばできた全てのことをしなかったのは、もっと別の理由がある気がする。
 少しも減らない胃に、何か食べなくては、と思った。昨日から何も食べてない。仕事が忙しくて食欲なんてもの忘れていた。ただ、今日会ったら彼女が店の余りものだと言って僕にパンを押しつけて、そのパンを君と半分にして食べるのだろうと。そんなことを当たり前のように考えていた。
 自分でも遅いと感じるのろのろとした足取りでキッチンに入ると、ラップのしてあるパンが目についた。三日前彼女が自分が焼いたのだと笑って僕の腕に押しつけたものだ。忙しくて食べる暇がなく、一口しか減っていない。
 三日もすれば風味なんて落ちるものだろうと口にしたパンはまだしっかりしていて、素朴だったけれど、噛めば噛むほどじんわりとした甘みの広がる、彼女の味をしたパンだった。
「……どうして泣く」
 ぽつりとこぼした声はいつも通り無感動で無感情。
 それなのに今僕は泣いているようだった。
 ぽた、とキッチンのシンクに落ちた透明な雫を睨みつけながらパンを食べる。胃に押し込む。口の中を彼女の味でいっぱいにする。

 私、結婚するの

 感情を殺したような声が何度でも僕の中に響いて、消える。
 パンを全部食べてからスーツの袖で目を擦った。踵を返して玄関に行けば、メイドが驚いた顔で駆け寄ってくる。「アラウディ様?」「コート貸して」用件だけ言ってコートを持ってこさせ、羽織って、家を出る。「アラウディ様どちらへ、」という声には答えずに敷地内に止めてある車の一台に乗り込んだ。探し当てた鍵を押し込んでエンジンをかけ、休日の街へと繰り出す。
 調べなくてはいけない。彼女の相手を。
 それから、阻止しなくてはいけない。彼女の結婚を。
 あの声が、あの表情が、結婚を望んだ女の子のものだとは思えない。
 彼女はそんなこと望んではいない。ただ、経済的な理由からそうせざるを得ないのだ。その選択をしなければならないほど、彼女の一日一日の生活には余裕がない。僕はそれをずっと知っていたはずだった。
 知っていて、何もしてこなかった。
 だって、何もしなくても、彼女はそこで笑っていたから。僕に笑ってくれていたから。その笑顔を見る度に、こんな時間がずっと続くんだと、僕は。馬鹿みたいなことを。もう時間はあまりないって知っていたくせに。
 本当に、馬鹿みたいに、子供みたいに、何を意固地になっていたんだろう。
 私、結婚するの。そう言った彼女の声とその顔を見るまで、あの背中を見るまで誤魔化し続けていたものが胸を埋めている。
 口の中に残っている彼女の優しいパンの味。記憶に残っている彼女の姿。焼きついている笑顔。泣き顔。怒った顔。拗ねた顔。喜んだ顔。
 アラウディ、と僕を呼んで手を差し伸べる君が見える。
 僕はその手を取る。その手を取って君のことを抱き締める。今まで誤魔化していた全てを曝け出して君に口付ける。どこへも行かないでと君に伝える。僕の隣で笑っていて、と君に僕の全てを捧げる。
 そうして君が笑ってくれたなら。僕はそれ以上望むことなんてない。それこそが僕が今一番欲しいもの。僕はそれを認めた。
(寂しい思いを。辛い思いを。悲しい思いをさせた。ごめん
 ごち、とハンドルに一度額をぶつけ、強く目を閉じたあとに顔を上げ、車の扉を開け放つ。
 目の前にはボンゴレ本部がある。昼夜構わず明かりの途絶えない屋敷を見上げて、仕事ではなく私用のため、重厚な扉を両手で押し開けた。
想い出は
 私の親のよき友人であったおじさんおばさんに難しい顔で話があると呼ばれたその日は、月が見えない夜だった。
 明日のパンの仕込みをしていた私は作業に区切りがついてから厨房を離れ、小さな食卓のある部屋を覗く。おじさんおばさんはやっぱり難しい顔のままで、いくつかの封筒を持ってあれこれと言い合っていた。
 私が声をかけると、二人は揃って口を閉じ、私を中へと招いた。予備の椅子に私を座らせ、二人は難しい顔のまま言った。
 最近の景気が苦しいこと。今まで両親の縁で自分達のパン屋の手伝いという仕事を与え、養っていた私の面倒をもう看られないということ。そして、次の春で私が十六になるということを挙げ、二人は持っている封筒からいくつかの書類のようなものを取り出して、この中から結婚相手を決めなさいと言った。
 私は突然の話に呆然としていて、頭があまりついてこず、言われるままに書類を受け取った。三つか四つある書類の束は、相手が三人か四人いるのだろうということを想像させたけど、そのページを繰ろうとは思えなかった。
 分かってはいた。いつかこんな別れ方が来るだろうということは、薄く覚悟していた。一日の売り上げを計算するときにその数字の移り変わりを見て予感していた。きっと近いうちに私はここを離れないとならないだろう、と。
 おじさんとおばさんは六年の間私のことを雇ってくれていた。亡き両親に代わって私の面倒を看てくれた。感謝している。だから、感謝以外の念は抱かないべきだ。
 私が無理矢理笑うと、おばさんが泣き出した。ごめんね、ごめんねぇと大きな声で泣き出すから、私は逆に笑うしかなくなる。
 おばさんがそんなに泣いていたら、私まで泣くことなんてできないじゃないか。
 おじさんが目頭を押さえながら私が抱えた書類を顎でしゃくり、生活には困らない相手を選んだ、とこぼした。私はそんなおじさんに微笑むことしかできない。
 …結婚相手を決めなさい。そう言われて一瞬でも頭に浮かんだ人のことを一生懸命取り消そうとする。
 整った顔。整った容姿。だけどどこか欠けた心を持つ、やわらかいプラチナブロンドの髪と冷たいアイスブルーの瞳の持ち主を、必死で否定する。
 叶わない。それは叶わない。絶対に叶わない。だから、忘れなさい。自分にそう言い聞かせながら封筒を抱えてのろのろと帰宅し、暗くて狭い部屋のベッドに倒れ込み、ようやく涙が出てきた。
 ベッドの脇に放り投げた封筒が現実を突きつける。私に定められた未来を突きつける。
 私の生活はぎりぎりだ。余分なことをするお金も暇もない。そんな私の収入先がこの春に途絶える。余分なお金なんてないから貯蓄なんてない。つまり、この春で、私は終わる。あらゆる意味で。
 そう思ったら涙が溢れて止まらなかった。
 もともと運はなかった。それは両親が列車事故に巻き込まれたときから思っていたことだ。十歳で両親をなくした。そこから今まで、人の助けも借りて、懸命に生きてきたつもりだ。
 だけどそれももうおしまいらしい。
 は、と嘲笑するように笑ってごろりとベッドに横になる。滲んだ視界に見える狭い家ともそろそろお別れなのだな、と思うとまた視界が滲んだ。
 結婚するにしても。そうして生活には不自由のない暮らしを手に入れたとしても。私は終わるだろう。少なくとも、という私は、もういなくなる。誰かの所有物となる私が生まれる。今の私は死ぬ。
 結婚を否定したとして、それでやっていけるだけの手に職もないし、悪事を働き泥水をすすってまで生きていこうという覚悟は私にはない。
 つまり、エンド。本当にこれで終わり。
 …と、私を呼ぶ人の声が聞こえた気がして、耳を塞ぐ。
(呼ばないで。呼ばないで。縋ってしまうから)
 決して人と馴れ合うことがないのだというアラウディという人を思い出しながら、引きずられて思い出すこれまでの日々に唇を強く噛む。
 あなたと過ごした時間。あなたと過ごした日々。甘い夢のようにとは言えないささやかなものでも、私には、夜空に輝く星々のように、かけがえのないものでした。
 次の日に会った彼にそのことを伝えた。彼は、多分驚いていた、と思う。もともとあまり表情の動かない人だし、真意のほどは分からない。私は彼にそのことを伝え、家に帰って、涙の涸れた瞳を閉じて眠ることにした。
 昨日あれだけ泣いたせいか。もう涙は出てこなかった。
 おじさんとおばさんには、四つの書類のうちどれにしようかなで選んだ、中身も見てない書類の一つを渡しておいた。
 どうせ私は死ぬんだもの。そこで終わるんだもの。だったらもうどうだっていい。未来の、死んだ自分なんて。
 そうやって諦めた心で眠りについた。
 そして、どん、という大きな音で目を覚ましたのは、夜明け前だった。寝ぼけ眼で目を擦った私は、今の物音が玄関の扉を叩く強い音だと遅れて気付き、身体が強張る。枕の下に忍ばせている包丁を掴んで振り返れば、どん、とまた扉が強く叩かれた。
、いるんだろう。僕だ」
「……、」
 アラウディ、と声を出しそうになって寸前で呑み込む。
 私はいないよ、いないからと首を振ってもどんと扉が叩かれる。私は苦しくなって包丁を手離し両手で耳を塞いだ。それでも「」とくぐもった声が聞こえる。私を呼ぶ声が。それを必死に否定する。
(呼ばないで呼ばないで呼ばないで! 私を呼ばないで!)
 縋ってしまいそうになる心を否定する。何度でも。
 もう帰って、と願う私に構わず、どんと叩かれた扉の向こうで「怒らないでね」という声が聞こえて、それから、扉が蹴破られた。もともと古くてあちこちが軋んだ家だ。彼が壊そうと思えば簡単に破れるような扉は、大きな音を立てて床に倒れて土埃を巻き上げた。
 いつの間にか泣いている私は、滲んだ視界で、扉があるはずの切り取られた景色を眺めた。
 アラウディだ。アラウディが立ってる。

 彼が私を呼ぶ。けれど私は首を振った。
 こんな時間に訊ねてくるあなたもあなただけど、どうして来たの。何をしに来たの。もう会わないって、私はちゃんと伝えたのに。
 私に構わずこっちへ歩いてくる彼に、反射のようなもので、一度は落とした包丁を握った。刃があちこち欠けて錆びてるところだってある包丁を。
 来ないで、と言いたかった。もう私のそばに来ないで、もう私の届かないところへ行って、と思った。じゃないと辛いから。
 包丁を手にした私に彼は一度歩みを止めたけれど、また歩き出した。「来ないで」と言っても彼は止まらない。止まらないで、私のいるベッドまでやってくる。
「刺したいなら刺してくれてもいいよ」
「、」
 いつも通りの感情のない声に言われて腕が震えた。
 …そんなこと。できるはずがないのに。
 それでも包丁を手離せずにいる私の手に、彼の手が重なる。その手が私の手を自分の方へと引き寄せ、左胸に、刃の先を当ててみせる。「そのまま体重をかければ、こんな刃物でも僕を殺せる」と囁く声にびくんと身体が跳ねて、怖くなって包丁を床に投げ捨てた。カランと乾いた音が響く。
 自分でしたことでも怖かった。アラウディに刃を向けた自分が怖かった。そうさせた何かが怖かった。
 刃が欠けて錆びた包丁が私に言うのだ。刺せばいい、と。
 包丁を見つめて動けない私に「」と声がかけられる。頬に手が添えられて、くいと上向かせられる。それでようやく包丁のことを考えずにすんだ。今私の視界はアラウディの整った顔で埋まっている。
「あらう、でぃ」
「うん。僕だ」
「…どうして、来たの。わたし、ちゃんと、お別れしたのに」
「うん。でもね、僕はそんなもの認めたくはないんだ」
(それは、どうして…?)
 私の疑問に答えるように彼が笑う。笑って、私に、唇を重ねた。
 瞬間。時間が止まったように感じた。
 ありえるはずがないと否定していた可能性を、未来を、見つけられた気がした。
「アラウディ…?」
 ぽかんとして顔を離した彼のことを呼ぶと、彼は笑った。今までにない顔で私に笑いかけた。
 それは、とても幸せそうで、とても満ち足りていて。いつもいつも寂しい背中をしているなと思っていたのに、いつもいつもまるで死んでいるようなんて思っていたのに、いつの間にか、彼はこんなふうに笑う人になっていた。
 その彼が私を抱き締める。こんなに狭くて汚い家にいるきれいでもない私のことを抱いて、財も権力も知識も力も、私よりずっと何でも持っている人が言う。「、僕と一緒になってよ」と。夢のような言葉を。その笑顔と一緒に私にくれる。
「僕は君のことがとても好きだ。愛している。君のいない生活は考えられない。他の男に君をあげるなんてとんでもないよ。君は、僕の隣で笑っているべきなんだから」
「…っ」
 ぐっと唇を噛んだ。
 きっと今の私はぐしゃぐしゃの泣き顔をしているだろうと思うのに、彼は笑う。「、僕のこと好きかい」なんて、分かりきってる答えを訊く。
 私は何度も頷いた。何度も頷いて「すきよ、だいすきよ。わたしだってあいしてる」と伝えた。
 彼は今までで一番の笑顔を見せて私の唇を奪った。それでよかった。だから私は泣きながら笑った。
 彼女がどれにしようかなで選んだという相手の男には、挙式のキャンセル料を見積もっても新たに挙式を挙げるんでも十分足りる金額の入ったスーツケースと、彼女へと贈られた婚約指輪を送り返しておいた。あくまで彼女が話を蹴ったのではなく僕が横から掻っ攫ったのだと意識させ、何度か抗議のような電話が来たが、それも相手が僕だと分かるとしぼむように消えてなくなった。
 それまで住んでいた大きな屋敷を手離し、使用人も解雇し、土地を売り払った。ボンゴレ幹部の花嫁ともなれば余計な虫がつくのは必然とも言える。それをなるべく避けるため、都心から離れた外れの場所に新しい土地を買って、派手でも地味でもない一軒家を建て、そこに移り住んで、一年がたった。
「アラウディ? アラウディー」
 今日も、僕を呼ぶ彼女の声が聞こえる。
 うたた寝していたところから視線を上げる。僕を探してぱたぱた歩き回るスリッパの音が聞こえていた。「」と呼べばぱたりと足音が止まり、またぱたぱたと音が続き、やがてひょこりと僕を覗き込んだ君が見えた。
「ご飯だよ」
「今日は、なんだっけ」
「アラウディがパンがいいって言ったからパン。あとは付け合せの野菜とスープ。他にリクエストあった?」
「ない」
「じゃあ起きて、ほら」
 手を引かれて、ソファに寝転がっていたところから立ち上がる。目を擦って漏れた欠伸を噛み殺すと、彼女がくすりと笑った。「そんなに眠いの?」と言われて浅く頷く。一日寝てないと眠いものなんだよ。まぁ、そんな感覚、君は知らないでいいんだけれど。
 素朴な食事でも、彼女が作ってくれたものならなんだっておいしく感じたし、ホテルのディナーを食べるよりもずっと胃が満足した。
 食事を終えて、眠いと目を擦る僕に彼女が言う。「ちゃんとベッドで寝てね」と。だけど僕は緩く頭を振る。首を傾げる彼女に「今寝たら、またと入れ違いで起きる」とぼやくと彼女はきょとんとしたあとに笑った。
「じゃあ私も早寝してあげるよ」
「…眠れないでしょ。僕が起きてるからいい」
「アラウディは寝るの。ふらふらしてて、どこかに頭ぶつけそうだよ。心配」
 そんなふうに言われると僕は口を噤むしかなかった。実際、かなり眠気がピークにきていて、座ったままだと寝てしまう気もしていた。
 彼女の手に引かれて階段を上がり、部屋に入って、ベッドに膝をついた。ぎしぎしと音を立てるベッドがまた眠気を誘ってくる。
 壁際に寄った僕の隣に彼女が潜り込む。全然眠そうじゃないけど本当にいいのかな、と見つめているとぱちっと目が合って、やわらかく笑いかけられる。そっと伸びた手が僕の前髪を揺らして「眠って」と囁かれ、その手を握り締めて、眠気に抗えずに目を閉じた。
 …幸せだ、と思った。幸福だ、と思った。
 そんなふうに思えるようになったのは、のおかげだった。
 生きるでもなく死ぬでもなく日々を過ごしていた僕は、彼女に出逢い、変わったのだ。こんなにも。こんなにも自分より優先したい人ができて、こんなにも、縋っていたい人ができた。
(幸せだ。幸福だ)
 握り締めた手に唇を寄せてキスをする。くすくすと押し殺した笑い声から、今彼女がどんな顔をしているのかを想像する。それだけで、僕も笑っていられる。
 夢を見た。彼女が好きな星空の夢。星が次から次へと流れて消えていく空の夢。
 僕はその空に向かって声の限りで唱え続けた。
 この幸せが、永遠に続きますようにと。