失敗した。
 今日はこの間思いついたパン屋の遠征というのをしてみた。それはよかった。おかげさまで好評で、店から持ってきたパンは全て売れた。おじさんおばさん喜ぶかな、と思って鼻歌なんか歌いながら帰路を辿っていたら知らない路地裏に入ってしまい、はっとして足を止めたときには遅かった。前も後ろも、知らない誰かに道を塞がれていた。
 失敗した。ものすごい失敗をしてしまった。鼻歌なんか歌って適当に歩いていたせいだ。思いつきが上手くいって気分がよかったからって、いつも気をつけていることを忘れるなんて。私の馬鹿。
「ご機嫌だなぁ」
 粘っこい声をかけられて身体を硬くした私に前方の男がげらげら笑う。後方から「オレらにも分けてくれよぉ」と男の声がして、ごくんと唾を飲み込んで今日の売り上げのお金が入った皮袋を意識した。
 渡せるわけがない。死守しなくては。どんな目に合おうとも。
 そばに転がっていた廃材のパイプをさっと拾って壁に背中を預ける。男二人対少女の私一人では、結果なんて決まってるようなものだ。だけど譲れない。これは、大事な売り上げなんだから。
 それでも現実は容赦なかった。
 男二人が嫌な感じに笑って懐からナイフを取り出せば、私の劣勢はもっとはっきりした。気持ちが折れそうになる。それでもパイプを構えてごくんと唾を飲み込んで気持ちを落ち着ける。
 このまま止まっていてはいけない。構えているだけではいけない。普通に戦っても勝てない。パイプとナイフ、私一人と男二人。結果は見えている。
 戦っても勝てない、と分かって表通りの方に向かって駆け出す。でたらめにパイプを振り回しながら男を退けて脇をすり抜けたとき、がっと腕を掴まれた。ひっと息を呑み込んだ私の手からパイプが転がり落ちる。どんと背中を壁に押しつけられてナイフが首筋を撫でた。
「よぅよぅ、そんなんで逃げられると思ってんの?」
 げらげらと笑う男を睨みつけると、がっと頬を殴られた。それからお腹を蹴られた。げほと咳き込んで歯を食い縛る。負けて、たまるか。
 足を踏みつけられ、腕を捻られ、身体をまさぐる手に悲鳴を上げようとした口を手で塞がれた。必死の抵抗も空しく皮袋を取り上げた男が「あったぜやりぃ」ともう一人と手を打ち合わせ、示し合わせたように二人で私を見た。上から下まで。嫌な目だった。背筋が寒くなる。
「あんたはもう用済みだけど、最後の思い出でもくれてやろうか?」
 太腿を撫でた掌にぞっとして悲鳴を上げた。くぐもった声が路地裏に響いても、誰も来てはくれない。
 こんなに運が悪いなんて。両親が死んだとき自分は運がないのだと思ったけど、こんなに運がないなんて。
 嘆く暇さえ与えず、男のナイフが私のコートを引き裂いて、その下のシャツも引き裂いたとき。視界の端をふっと影が過ぎて、一人の男が弾き飛ばされたように路地裏に転がった。「ぐあっ」という声にもう一人が「おいどう」した、と続ける前にその腕を掴んだ手が見えた。上品なコートに包まれた手だった。その手が男の腕を捻り上げもう片手がナイフを叩き落し、「いでででっ!」と喚く男を容赦なく蹴飛ばした。
 解放された私は、ずり、と背中をすらせながら地面に座り込んだ。
 男二人を簡単に蹴散らしたその人は、同じ男の人でも、全然違っていた。なんというか、全てが整っているのだ。着ているものも、その顔も、姿も、全てが整っている、彫像のようにきれいな人だった。
 きれいな人だったけど。その瞳はとても冷たかった。
 その人がざくざくと歩いて行って転がっている男が手にしようとしていたナイフを蹴飛ばし、その手を容赦なく踵で踏みつけた。「ああああ」と呻く男の顔を蹴飛ばし、転がっている皮袋を拾い上げる。
「君のだろう」
 こっちに戻ってきたその人が差し出した皮袋にぎこちなく頷く。
 彼は私の様子に首を捻り、それから気付いた顔で自分のコートを脱いだ。「とりあえず着て」と放られたコートにはっとして裂けた服の前を手繰り寄せる。
 そのとき砂の擦れる音が聞こえて顔を向ければ、最初に蹴られた男の方が立ち上がっていた。「こんの野郎」と呻いた声と構えられたナイフが見えて、私が息を呑んだのと、男が奇声を上げて突進してきたのはほぼ同時。
 彼は冷静だった。私から男に視線を移すと突進してくる男のナイフの軌道から僅かに身体を逸らしただけでその攻撃を回避し、足を蹴り上げ、相手を転ばせた。
 そして、彼は転んだ男の容赦なく足蹴にし、踏み台にして、その首に肘鉄を食らわせたのだった。
「…次にこういうことしたら、君達のことは処分する」
 ぼそっとした声のあとに、彼は今頃気付いたのか「ああ、聞こえてないか」とこぼしてゆっくりと立ち上がった。
 私は、きれいで残酷な彼のことを眺めた。ぱんと一つスーツのジャケットを払った彼が私の方を見るから、慌ててコートを羽織る。コートにコートはすごく重たいし、大きいけど、服が裂けているんだから仕方がない。
 ぷちぷちとボタンを留めると少しほっとした。服、帰ったら縫って直さないと。
 …それが、私と彼の出逢いだった。
想い出は
 大事に抱き締めて持って帰った売り上げをおじさんおばさんに渡すと、そのコートはどうしたのかと訊かれた。それは必然、私には似合わない男物の、物のいいコートのことを言っていた。あまり心配をかけたくないから黙っていたことを話すと、二人に揃って叱られた。そして、パン屋遠征の話はなしだということになった。
 売り上げが伸びるのは二人にとって喜ばしいことだろうと思う。けど、私が危ない目に合うことを、二人はよしとはしなかったのだ。
 少しの落胆の気持ちを抱えつつ家に帰って、物のいいコートを脱いだ。大事にハンガーにかけて壁際に吊るし、自分の服とコートを手直しし、その日はあっという間に過ぎ去った。
 そして翌日。物のいいコートを持って待ち合わせた中央広場の噴水前に行くと、スーツ姿の彼がいた。やわらかいプラチナブロンドの髪に冷たいアイスブルーの瞳を持った人だ。
「アラウディさん」
 声をかけるとどこも見ていなかった瞳が私を捉えた。
 彼はとても整った顔をしていて、見目きれいな人だったけど、それに反比例するように表情はいつもなく、声も、瞳も、温度がなかった。
 おずおずとコートを差し出して「あの、洗ってもいなくて、申し訳ないんですが」と言うと彼は「クリーニングにでも出すから」と言う。普通に洗濯ができるうちだったらよかったのに、と思いながら、今日焼いたパンの入った紙袋も差し出した。用はすんだとばかりに帰ろうとしていた彼が無表情に首を傾ける。「何それ」と。
 表情の動かない人だ、と思いながら「あの、私が焼いたパンなんですけど。お礼できるお金もないので、せめて、もらってくれませんか」と伝えると彼はさらに首を傾げた。
「何のお礼?」
「昨日助けてもらったお礼です」
「ああ…」
 どうでもよさそうにぼやいた彼が私のもとへ戻ってきて、仕方なさそうにパンを受け取った。ふーんとこぼしてパンを引っくり返す彼に心臓がどきまぎしている。自分で作ったものを人にあげたのは、これが初めてだったりする。
 彼はパンにかじりついて、パンくずを落としながら咀嚼した。食べ方から、あまり食べ物に執着する人ではないようだ、なんて分析したりする。ごくんと唾を飲み込んで見守る私に「まぁ、素朴だけど、おいしいよ」と言ってそのまま黙々とパンを食べ始めた。
 ひょっとしてお腹が空いてたのだろうか。それなら、ただのパンでも、いいお礼になったろうか。
 少しほっとした私を他所に、彼はパンを食べ続け、やがて紙袋を空にした。ぱんと袋を潰した彼が「昨日のあれは、別に助けたんじゃない」とぼやくから「え?」と素っ頓狂な声が漏れた。そんな私を一瞥した彼が言う。「ルールを侵したんだよ彼らは。処罰するのは当然だ」と言った彼の袖からするりと手錠が現れて驚いた。
 そうか、あれだけ手際がよかったのは、そういう仕事をしている人だからなんだ。そうか、納得した。なるほど。
「…でも、君も君だ」
「え」
「女の子が一人で路地裏に入るもんじゃない。僕が気付いたからよかったけど、そうでなかったら最悪なことになっていた」
 殴られた頬と蹴られたお腹が痛んだ気がして、そっと頬に手を当てた。
 全く持ってその通り。私に弁解の余地はない。「ごめんなさい」と小さくなると彼は一つ息を吐いた。「痛むの」と言われて頬から手を離す。笑って「少しだけ」と言うと彼はまた息を吐いた。羽織っているコートのポケットに手を突っ込んで、そこから取り出したものを私へと放る。キャッチすると、塗り薬の類だと分かった。「あげるよ」と言った彼が私に背を向けて歩き出す。その背中と塗り薬にあわあわと視線を交互させている間に、彼は広場の端に停まっていた黒い車に乗り込み、行ってしまった。
 この間一人少女を助けた。路地裏で男二人に襲われて強要されそうになっていたことと、彼女の現金を男達が奪ったこと。治安が乱れることを望まない僕はその二つを理由に少女を助け、男二人を片付けた。
 …それからというもの、僕はなぜか週末街の中央広場に出かける癖がついていた。
 休日ともなれば人の多い噴水広場は思わず顔を顰めてしまうくらいには老若男女で賑わっていた。噴水が水を噴き上げる様子を見るともなく眺め、煉瓦ブロックの端に腰かけて、やっぱり帰ろうか、と思った頃に少女がやってくる。
 彼女は名前をといった。
「今日もお散歩ですか、アラウディさん」
「まぁね」
「…あの、余りものですけど、よかったら」
 そう言って彼女が差し出すパンを受け取って食べて、気付いて半分にして彼女に渡した。きょとんとした彼女が緊張を解したように笑う。僕から少し離れたところで同じようにブロックに腰かけ、パンを食べ始めた。
 僕は彼女から顔を背けて黙ってパンを食べる。特にお腹が空いてるわけではないけど、こうする以外何もすることがないから、食べれるものを食べるだけだ。
 余りものという言葉の通り、今日のパンからは彼女の味はしなかった。もっとしっかりしていてちゃんと作ってあるなと感じるパンだった。
 彼女が作るパンは、中に空洞があったり、膨らみが偏っていたりする。そして、優しい味がする。噛み続けていると仄かに甘いあの味が、思った以上に気に入ったらしい。僕がここへ通うのはきっとそれが理由だ。それ以外にはない。
 人の群れを眺めた彼女が「休日はいつも人がたくさんですね」とこぼす声を拾うともなく拾う。その声がどことなく寂しそうだと思って視線を投げると、彼女はパンを食べながら寂しそうな顔をしていた。
「…家族と来ればいいじゃないか」
 ぼそっと言ったら彼女は笑った。少しだけ悲しそうに。
「私が十歳のときに事故で死んでしまったんです。だから、両親の友人だったおじさんとおばさんのパン屋さんにお世話になってるんですよ」
 彼女は笑ってそう言った。僕は久しぶりに罪悪感というやつを憶えて視線を雑踏へと逃がした。「そう」とこぼして最後の一欠片を口に入れる。「そうなんです」とこぼした彼女は寂しそうで悲しそうだった。
 僕の両親は健在だ。仕事柄一緒にはいないけど、どうせ元気なんだろう。
 最も、死んでしまったとして、僕は今までと変わらない生活しかしないし、思うこともそうないのだろうけど。
 次の週末は彼女の提案で夜に会うことになった。
 夜に女の子が一人歩きするのは危ないと再三言ったのだけど、どうしても流星群が見たいのだと譲らない。結局、僕が折れなければ彼女は一人でも星を見に行くのだろうと思って、僕から折れた。
 陽の光がすっかり落ちた夜。春から夏に入り始めた季節の海岸を目指して僕らは街を出た。海までは少し距離があるけど、街から歩けないことはない。
 車を呼ぶと行ったけど、彼女は自分と僕の身分の差を考えてそれを辞退した。
 仕方なく徒歩で海岸へと向かう傍ら、灯りのそうない道を、彼女と二人分くらいの距離を開けて並んで歩いた。
「アラウディさんは、どうして私と会ってくれるんですか?」
 首を傾げた彼女の黒いワンピースを見ながら「別に」とぼやく。彼女はそんな僕に苦笑いをこぼしていた。
 別に、理由らしい理由なんてない。ただ、君となら会ってもいいかな、と思ったくらいで。
 彼女が着ているワンピースは喪服のようだった。それを自分なりに手縫いして外着に直したのだろう。彼女の生活はいっぱいいっぱいなのだ。もうだいぶクッションのゴムが磨り減っている靴を見てそう思った。
「でも嬉しいですよ。理由はどうあれ、アラウディさんは私を助けてくれたヒーローですからね」
「…ヒーローなんて柄じゃない」
「あはっ」
 弾けたようにころころと笑う彼女を眺める。ずっと見ているとぱちっと視線が合った。微笑みを浮かべて首を傾げる彼女から視線を逸らして空を見上げた。街を離れると辺りは暗闇に落ち、海へと向かうほど、辺りは暗くなっていく。
 ふいにがさりと茂みの揺れた音に彼女が身体を強張らせて僕に寄ってきた。あの路地裏での体験から、ふいな出来事に少し怯え癖がついてしまったのだ。まぁ、それも仕方がないこととも言える。
「な、なんでしょうか」
「動物だろ。こんなに暗いんだから。人の目じゃ、通行人を襲うにしたって限界がある」
「そう、ですよね」
 ぴとっと僕にくっついて離れない彼女にはぁと息を吐く。
 そんなに怖いのなら、と探し当てた手を握ると、彼女は驚いた顔で僕を見上げた。僕はそれに知らないふりをする。やがて強張った顔に微笑みを浮かべた彼女が僕の手を握り返す。
 それから、気を紛らわせるために話をした。差し支えない程度の仕事の話をしたり、彼女の話を聞いたり、それを交互にしているうちに、僕らはお互いに指を絡めて手を握り合っていた。
(…変な気分だ。とても)
 と寄り添って歩いている自分も。彼女と手を繋いでいる自分も。彼女の話を聞いて口元に笑みを浮かべる自分も。この間までは存在しなかったのに。
 彼女と一緒にいる時間は煩わしくない。他の誰かに感じる苛立ちを覚えない。それどころか、彼女の作るパンがおいしいと思い、彼女が僕に笑いかける瞬間に安堵に似たものを覚える。
(これは、なんだろう。君に対してだけ感じるこの気持ちは、一体なんだろう。ねぇ
 彼女が海岸沿いの高台へと僕の手を引く。その手に引かれるままに歩く。高台へ上り、僕の手を離した彼女が星の降る空を見上げて両手を伸ばす姿をぼんやりと眺めた。
(これは、一体、何)
 答えの出ない問いかけを繰り返す。自問に自答は返ってこない。いつまでたっても疑問だけが湧き上がり、それで埋まる。
 立ち尽くす僕に気付いた彼女が「アラウディさん」と笑って僕に手を差し伸べた。それで、僕はようやく歩けるということを思い出し、君の手を取って、君の隣に並んで星を見上げた。
 あっちの星座のあの辺りが今日星がよく見える場所なんだとか、あれがいつでも一番輝いて見える星なんだとか、彼女は笑って僕に星の話をした。
 …本当は星なんてどうでもよくて、君の手を握ってその隣にいるという現実が、僕には大事、だったのだ。
「今日は機嫌がいいな」
 朝焼き立てのパンをいつものように並べているとおじさんにそう言われた。私はどう笑っていいのか分からずとりあえず笑った。「そんなことないよ」と。店の準備をしながらおばさんも言う。「嘘おっしゃい」なんて笑うから私は苦笑いする。本当に、機嫌がいいとかじゃないんだけどな。
 ただ。昨日彼と手を繋いで海まで行き、流星群を見て、遅くまで付き合ってくれたことが嬉しくて。それがまだ残っているだけ、だと思う。
 …これはきっとひと時の夢。そう思ってる。
 路地裏で助けられたあのときの不幸が、今の幸運に繋がっているのだ。不幸の分の幸運を使い果たしたらきっとこの日々はなくなる。そんな気がする。
 その日もパン屋の営業をして最後の売り上げの計算をし、最近数字がよくないな、と思いながら帳簿に電卓の数字を書き記した。残り物のパンをもらって家に帰り、小さく狭い家々がびっしりと並んでいる界隈に辿り着いて足が止まる。
 この界隈に似合わない上品なコートを着た、プラチナブロンドの髪をした人が立っている。壁に背中を預けて退屈そうに空を見上げている。
「アラウディさん?」
 声をかけると彼が私に気付いて壁から背を離した。「やぁ」と言われても私はどうにも返事ができず、「どうしてここに」と呆然とした声を出す。彼は視線を地面に逃がして「特に、理由はないんだけど」とこぼして片腕をこっちに突き出した。がさりと鳴った袋の中からはいいにおいがした。
「僕だけじゃ食べ切れないから、君と食べようかと思って」
「え、」
「…どうせ今日もパンですませるんだろ。そんな食事ばかりしていたら栄養失調で倒れるよ」
 ぼそぼそそう言った彼にきょとんと目を丸くする。
 そりゃあ、今日もパンですませようと思っていた。野菜は二日に一度摂ればいい方で、ひどいときは一週間パンと牛乳とチーズだけで過ごしたこともある。そんなこと彼が知るはずもないのに、と思ったけど、この街で自警団というものをしている彼がそういったことを知っていても不思議はないかな、とも思った。
 いいにおいにつられてそばに行く。私だけじゃないのだろう、いいにおいにつられてこっちを見ている人も何人かいた。ここは常識ある人達が集まる界隈だけど、見せびらかすようなことは、好ましくない。
 ポケットから古ぼけた鍵を取り出して施錠を解き、彼を中に入れた。狭いし汚い部屋は掃除だってろくにしていない。これで彼が来るのは何度目かになるけれど、その度に、申し訳ないな、と思ったりする。
「いいにおいですね」
「うん。だから買いすぎた」
「ふふ」
 この人でもそんなことがあるんだな、と笑うと彼も口元を緩めて笑った。
 あまりきれいとは言えないお皿を二枚並べ、今日の残り物のパンと、チーズを持ってくる。お湯を沸かすには火を起こさないといけないので、それは諦めた。
 わくわくしながらビニールの袋からいいにおいのするものを取り出せば、まるっとしたチキンが一つ入っていた。暗い室内でも分かるくらい照りのある上等なチキンだった。
「わぁ…」
 ごちそうに目をきらきらさせていると、「包丁貸して」と言われた。キッチンから比較的きれいな方の包丁を持っていく。彼は慣れた手つきでチキンを真っ二つにした。ぱかっと割れたチキンの中には野菜がぎゅっと詰まっていて、本当に、おいしそうだった。
 でも、きっとこれは高いに違いない。そう思ってそろりと彼の方を窺う。私の視線に気付いた彼が首を捻った。「食べたくない?」と。慌てて首を振る。全然食べたい。すごくおいしそう。
「でも、私、お金とかが…」
「それはいらない。代わりに欲しいものを決めたから」
「え、」
 それは、私に支払えるものだろうか。不安顔になった私に彼は笑って「敬語をやめてよ」と言った。はい? と首を傾げる私を見て「敬語をやめて。普通に話して。僕を呼ぶのにさんもいらない」と言われ、困惑しながら「えっと、アラウディって呼べばいいの?」と訊けば彼は浅く頷いた。
 それくらい、意識すれば難しくはない。けど、そんなことがこのチキンの代金だなんて、そんなこと。ぐるぐる考えていると彼がチキンを見て「冷めるよ」「あっ」せっかくのチキンが。それは駄目だ。
 すとんと席に座って、お皿に載ったチキンにぱちんと手を合わせていただきますをしてからナイフとフォークを入れた。冷めるよと言ったわりに彼はそんな私をテーブルに頬杖をついて眺めていた。
 一口食べて、もぐもぐと黙って食べて、二口めに進んで、三口め辺りでようやく手が止まる。
「おいしい…すごくおいしい」
「ならよかった」
 笑った彼が自分のチキンにナイフを入れた。その姿を見つめてからナイフを動かしてチキンを切る。
 …期待してしまうじゃないか。こんなに優しくされたら。そんなふうに笑われたら、私、期待、しちゃうじゃないか。
 そんなわけないって分かってるのに。これは彼の気紛れに過ぎないのに。

 ああ、きっとこれで私のあの不運分の幸運は尽きたろうな、と思うには十分なおいしさのチキンと、私を見て笑う彼に笑いかけながら思った。それでもいい、と。
 こんな時間が永遠になれば私はどんなに幸せになれるだろう。
 でもそれは叶わない願い事。
 だから、今を噛み締める。アラウディといる今を。この狭くて小さくて汚い家で、おいしい食事を食べて、彼と笑ったことを、私は絶対に忘れない。
 …どんなことがあろうとも。決して、忘れたりはしない。