昔々、俺の祖先は大きなお屋敷に住んでいた貴族だったらしい。
 貴族という立場の人間が辿る道というのはだいたい決まっていて、後先を考えないお家柄のために没落して金も身分も失うか、貴族という我が身を守ろうと王族や権力のある者に取り入ってその豪奢で意味もない浪費の生活を続けるか、そのどちらかだ。
 俺の祖先は前者。つまり、没落し、きらびやかな洋服を纏い人を使うことが当たり前だった生活をなくし、途方に暮れ、かつて足蹴にしていた平民達に追われるようにして生きてきた土地を捨てた。それが今から三百年ほど前の話になるらしい。
「はぁ…。ここに生まれ育った俺じゃ、そんな話をされてもピンとこないよ」
 昔々、俺の祖先は大きなお屋敷に住んでいた貴族だった。…そんなことを父から聞かされたものの、だから何、と首を捻ってしまうのが正直なところだった。
 俺達は土地を追われた。お前ら貴族のせいで貧しい思いをしたと没落した貴族など誰も気にかけてくれなかった。だから逃げた。自分達を知らない北の土地まで。
 旅などしたこともない、実用的な生活を知らない人間が新しい土地に辿り着くまでに、一族の数は半分以下にまで減ったのだという。
 そんな昔話をされたところで実感など湧くはずもない。父の父のそのまた父の、もしかしたらそのまた父の、つまり俺の祖先は、そのときを経験したのかもしれないけど。祖先が辿り着いたこの土地で、自給自足でやっていってるこの村で生まれ育った俺には、はっきりいって関係のない話だった。
 しゅんしゅんと湯気を出し始めたやかんを火から外す。ポットに熱湯を注ぎながら、それきり黙った父の背中をちらりと眺め、カップを二つ用意する。
 どうして急にそんな話を持ち出したのだろう。…何か、裏みたいなものがある気がする。俺の気のせいだといいんだけど。
 今の話が昔話でありこの村の誕生の真実だとは知ってるし、理解してる。けど、だから、それがなんだっていうんだ。俺は貴族の血を引いてるかもしれない。けど、それだけだ。高貴な血が流れているのだからどうこうなんて馬鹿なことは考えられないし、そんな大昔のこと、もうどうだっていいことじゃないか。貧しいけれどそれなりに穏やかに続いていく日々。それが何より大事なんじゃないだろうか、と俺は思う。
 カップにお茶を注いで父の前に置いた。ポットをテーブルに置いて、両手で包み込んだカップに息を吹きかける。
「それでな。こんな話をしたのには理由がある」
「…、」
 ほら。やっぱりね。そうだろうと思った。
 ふー、とカップに息を吹きかけて視線だけで続きを促す。父はカップを片手で包んだだけで口をつけない。深い年輪が刻まれた大木のように皺がれている手だ。「…父さん今年でいくつだっけ? 歳」ふいに訊ねた俺に父は首を捻った。「さてな。60は超えたかもしれん」という父は父というより老人の歳で、この村は、圧倒的に年寄りばかりになってきている。
 貧しいけれど穏やかな暮らし。それが長くは続かないだろうことも、予感はしていた。ただ、どうしようもなかった。かつては貴族だったのだという俺達一族はここで静かに息絶えるのだと、俺はそう予感していた。
 父はようやくお茶をすすった。ランプの灯りの陰のせいか、父の表情が沈んで見える。本当、歳を取ったな。気付いたときからそうだったけど。
「お前はいくつだ」
「今年で23だ」
「そうか。まだまだ動けるな」
「そりゃあ…体力だけは自信あるし」
 首を捻った俺に父は陰影に沈んだ顔で「お前は行きなさい」と唐突なことを口にした。は? と首を捻る。「どこへ?」「どこでもいい。行きなさい」「…それ本気? 俺にこの村を出て行けってこと? ろくに村から出たことのないこの俺に?」思わず口調が強くなる。暗い表情をしている父の胸ぐらを掴みたくなった。なんだよそれいきなりどういうことだよ、何言ってんだよ、と。
「分かっているだろう。ここに留まっていてはお前まで朽ちる」
 朽ちる、という表現をした父に昂ぶりかけた思考が冷水を浴びて静かになった。
 高齢化の進む村。若いのは片手で足りる程度の数しかおらず、そのうち三人が女子で、一人はまだ小さい男子だ。
 漠然と思っていた。あの三人のうち誰かと子供を作るのかな、と。そうしたところですでにこの村は破綻している。緩やかに穏やかに死に向かうだけだ。今更抵抗したところで遅い。父の世代で子供に恵まれなかった時点でこの村は天から見放されたのだ。
 ぐっと拳を握る。「けど…あとは女の子三人に子供が一人だろ。男が俺一人じゃ、旅なんて無理だ」男と女、体力の基礎が違いすぎる。俺ならここを出てどこかに辿り着けるかもしれない。でも、女の子と子供を連れてたんじゃ行けるところも行けなくなる。俺には、四人も抱えてこの村を出るなんて無理だ。
 父はランプに沈んだ表情のまま言った。
「…そうだな。それは厳しいだろう。だから、お前だけ、誰にも気付かれぬよう、こっそりと出て行きなさい」
「…………」
 トン、とカップをテーブルに置く。
 ああ、やっぱりそうなるのか。そうだよな。今ここでこうして俺にだけ話をしている時点で、最初からそういう意味だったんだよな。俺に、一人だけでも生き残れと、父はそう言ってるんだ。
 父が黙って立ち上がり、扉の横に置いてある荷物を持ち上げる。その荷物は肩で引っかけて持っていけるくらいの少量で、そして、目立ったのは、その少量の荷物に似合わない立派な鞘に入った剣だった。
「これを持っていきなさい」
「…これって」
 テーブルに置かれた剣に触れる。…間違いない、この村で一番の宝とされている宝剣だ。普段は鍵のついた倉庫で大事に眠らされている、貴族の身分を追われた祖先達が最後まで手放さなかったもの。特別な装飾が施された、青の鞘がきれいな色の剣。
 没落した貴族の末裔。その話が本当なら、これは三百年前の代物ってことになる。
 躊躇ったあとに、そっと柄に触れた。自然と掌に馴染んだ。普段は鍬を持つか鎌を持つかしかしてこなかったこの手がだ。確かに、貴族だったことを示すような剣のまね事は父から習った。何度か年上ばかりを相手に木の棒でやってみたこともある。けど、本物を持つのは始めてだ。それなのに掌に吸いつくように馴染む。
 シャリシャリと金属のこすれる音を聞きながらゆっくりと剣を抜いた。キーンと静かに抜き身になった刃がランプの揺れる光を映している。
「護身用にはなるだろう。いざとなれば売り飛ばせ。それなりにはなるはずだ」
「……これ、ほんとにいいの? こんなことしたら父さんが」
 村の宝剣として静かに守られてきた剣だ。父の独断でこんなことをすればどうなるか。非難轟々なんて言葉ではすまないはず。
 父は唇を歪めて笑った。不器用な笑顔だった。「何、この老いぼれと息子のお前、どちらを生かしたいかなど、決まってるだろう」と言われて、不覚にもぐっときた。くそ、と顔を背けて剣の柄をぎゅっと握り締める。

 ソーンベリー・カッスル

「…?」
 誰かに耳打ちされた気がして振り返る。見慣れた色の石壁があっただけだった。…誰かが窓で聞き耳を立ててこそりと何かを言ったってわけじゃないらしい。
 首を捻っている俺に父も首を捻った。親子だから首の捻り方がそっくりそのまま同じだ。「どうした」「あ、いや。…父さん、ソーンベリー・カッスルって知ってる?」多分そんなふうに聞こえた、と思う何かの名前か名称を口にすると、父は顔を顰めた。「それは…かつての一族の屋敷の名だな」「へぇ…」そうなんだ。いや、っていうかなんでそんな空耳を聞いたんだ俺は。今始めて聞いたぞ。なんか、声が。
 声。…声に、聞こえたな。
 くすくすと微かな笑い声がした気がして視線だけで辺りを窺う。父がいる。寂しい風景の石造りの部屋がある。ここが台所であり居間であり玄関であり、家の中心。あとは寝に行く部屋があるだけで、風呂は男女別で一週間に一度湯を沸かして入るだけで、それで。だから。この声、聞いたことがない。
「…じゃあ、行くよ。グズグズしてると誰かに見つかりそうだ」
「そうだな。そうしなさい」
 父から荷物を手渡され、受け取って、中を確認する。この村では貴重だろう食料の類などが入った革の鞄を肩に担ぎ、抜き身だった剣に気付いて鞘に収めた。ベルトで腰にしっかりと巻きつけて固定する。それから部屋に取って返して少ない着替えを鞄に詰め込んだ。よし。最後に分厚くて丈夫なフードつきの外套を羽織れば完成だ。
 家を出る前に、最後に、改めて父を振り返る。多くの苦労と経験を積んだ父は若い俺を生かそうと自分が責め苦を追う道を選んだ。俺は、それに感謝しなければ。
 ここでこのまま朽ちていくこと。それはきっと運命だと決めつけて諦め、受け入れるしかないとうなだれていた。
 父によって違う道が示された今。俺は、一度も冒険をしたことがないこの人生を投げ出してみようと、顔を上げ、前を向くことを決めた。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。行ってこい。達者でな」
「うん」
 父さんこそ、と続けようとしてやめた。…父の行末は薄々想像できていた。この村は閉鎖的だ。そんな村で禁を犯すことがどういうことか、ここで長く生きてきた父に分からぬはずもないだろう。
 俺は父の屍を踏み越えていくのだ。
 ぎい、と軋む扉を押し開け、誰もいないことを確認してから、「ありがとう」とこぼして素早く外に出て扉を閉ざした。それが父との別れだった。
 足音を殺しながら砂利道を突っ切る。寂しい村の寂しい家は寒風のもと今にも凍えて倒れそうだった。それがこの村の現状であり、そして、遠くはない未来の姿だ。
 寒さを紛らわすように歩いた。熱い目頭を誤魔化すように大きく歩いた。
 泣くな。泣くために生きるんじゃない。笑うために生きるんだ。
 誰にも見つからずに村を抜け、森に入り、いつ何があってもいいようにと剣を抜いたとき、くすくすとまた笑う声。
 ばっと振り返って剣を構える。…誰もいない。獣も人も。あるのは闇夜に沈んでそのまま消えそうな村と、星の空くらい。

 ソーンベリー・カッスル

 また。空耳だ。かつて祖先が暮らしたという屋敷の名前。
 ちらり、と視線を落とす。星空の下刃は鈍く光っている。さっきもこれを抜いたときに声がした。三百年たっても健在のこの宝剣は、かつての居場所に帰りたいと言っているんだろうか。
 …まぁ、それでもいいか、と構えていた剣先を下げる。
 どうせ行く宛なんてないんだ。耳元で笑うこの声がそこに行って満足するなら、とりあえず目指してみよう。三百年前追われたその地を。