かたん、と小さく窓を開けると、湿った空気が肌を撫でた。部屋の空気を入れ替えようと思ったのにどうやら雨が降るらしい。
 空気を変えることは諦めて、せめて気分を変えることにした。ぎ、とベッドを軋ませて素足で床を踏む。
 一糸纏わぬ赤ん坊と同じ姿の自分を鏡で眺めて、鎖骨の下辺りにある赤い痕を指でこすった。…消えないか。まぁいいけど。
 熱いお湯を頭から被る。水滴はあっという間に全身を濡らした。髪を湿らせ、頭から顔を濡らして落ちていく雫を見るともなく見つめて、ふいにこみ上げた吐き気にぱしと掌で口を塞いだ。飲み込め、飲み込めと自分に言い聞かせるのに、肌を撫でた掌と息遣い、僕を犯した熱を思い出すと、吐き気はピークに達した。うえ、と胃液を吐いてタイルの壁に腕をつっぱらせる。
 吐くようなものは食べていないし、こうなるって分かっていたから何も食べなかったのに。それでも吐いてしまうんだな。自分で抱いてって言い出したのに。本当に抱いてもらいたい人でないから。そんな理由で、身体は拒絶するんだ。
 シャワーの水で胃液を流して何度もうがいした。それでも口は酸っぱかった。
 アラウディ、と僕を呼ぶ声で、肯定できる声など、たった一人だけだ。
「………はぁ」
 バスローブを羽織って、普段より少し白い色をしている自分の頬を叩いてから部屋に戻ると、相手が起きていた。ぶわ、と入り込んだ湿気った風にぺたぺた素足で歩み寄って開けっ放しの窓を閉める。
「雨が降る」
「らしいな」
「タバコくらい我慢できないの。僕煙たいの嫌なんだけど」
「一本くらい吸わせろよ。生き甲斐なんだ」
「随分簡単な生き甲斐」
 ふん、と顔を背けてバスローブの袖で口と鼻を覆って煙から逃げ、スーツのポケットから飴玉を取り出して口に放り込む。こうでもしないと胃液味に我慢ができない。
 僕が嫌いだと言おうがタバコをふかしている相手が赤い髪をかき上げた。そうすると顔まである刺青がよく見える。腕も背中もあちこち刺青だらけで、品がない。
 ぷか、とタバコの煙を吐き出した相手が言う。「吐くくらいならよしゃいいのに」と。カッと頬が熱くなったけど、袖で顔を半分隠している状態だったから耐えた。震えそうになった声で「あなたには関係ない」と吐き捨ててソファに腰かけぎゅっと目を閉じる。
 思い出すのは、僕とそっくり同じ顔をした、兄弟のこと。
 僕と自分がパッと見てどっちがどっちか分かるように、月の色の髪にパーマをかけてくるくるの天使の髪みたいにして、主語を僕から俺に変えて、僕よりも積極的に人の輪に入っていくようになった、人のために笑うようになった、僕の弟。
 僕は弟と正反対の道を歩んだ。そんな彼の変化を拒むように、人を拒み、極力彼以外とは口を利かず、誰のところへも行かない。誰のためにも表情を動かさない。ただ、、君に対してだけ僕の全てを捧げる。この心を。この気持ちを。叶うならばこの身体だって、君にだけ捧げて、君だけで満たされていたかった。
 でも、もう我慢できなかったんだ。君を思って一人部屋で息を殺す毎日が。自分を慰める毎日が。もう限界だったんだ。一人ではいけない気持ちいい場所へいきたくて仕方がなかった。
 こんな僕を知ったらが絶望するかもしれない。それだけが恐くて。
 だから、僕は、好きでもない男に抱かれることにした。
 簡単でしょう? とても簡単なんだ。たったそれだけのことなんだ。
 僕は、本当は、にむちゃくちゃにされたい。
(でも、それは叶わない。そうでしょう?)
 あの日手を離して以来遠くなっていく一方の彼の心を思う。今何をしていて誰を思っていて何を考えているのか。僕はもう彼の心がちっとも分からなくなってしまった。
 彼と引き離されて泣き叫んだ子供の僕はもういない。今の僕は、ぐっと拳を握って、声を堪えて、弟に捜してほしいと思っている。早く見つけてほしいと願っている。迷子になってしまったのは弟の心ではなく僕の方で、辺りは暗くて、冷たくて、光はない。
 あのとき。の手を振り払ったとき。一緒に死んでいればよかったのかと問うた彼に、そうだよ、と声を荒げそうになった。
 あのとき一緒に死ねていたら僕は君と離れることはなかった! こんな気持ちになることもなかった! …そう叫びたかった。
 あのときあの場所で、二人で抱き合って死ねていたら。こんなふうに好きでもない男に抱かれる現実だって、なかったのに。
 僕とGとその他が帰還すると、ジョットが真っ先に出迎えた。「無事か」「ああ。問題なかったぜ。戦力にはこいつがいたしな」こいつ、で顎でしゃくって示されて眉間に皺を刻んだ僕に対し、ジョットは笑顔で「よくやってくれたG。アラウディも、とても助かった」と言う。
 本当は仕事にカッコつけてセックスしに行ったようなものだ。そんなこと、ジョットは知らないだろうけど。
 ぷい、と顔を逸らしてつかつか歩き出し、向こうから歩いてきた同じ髪色同じ瞳に息が詰まった。さっきまで灰色同然だった世界に後光が射し込んで、彼を中心に、僕の世界が息づいていく。
 
「お帰りアラウディ」
「…ただいま」
「怪我はない?」
「ないよ。大丈夫」
 優しく声をかけてよしよしと頭を撫でる手が愛しくて、愛しくて、胸が苦しくなった。どうしようもなかった。僕の頭を撫でる手に甘えるままスーツの肩にもたれかかる。…香水のにおいがする。甘い、バニラの。
 いつから、こんな甘いものつけるようになったんだろう。こんなものつけてたら女が寄ってくるのに。花に吸い寄せられる蝶みたいに君を貪りにくるのに。
「甘い」
「え?」
「バニラのにおい」
 指摘した僕に、ああ、と笑った声。「甘いの嫌いだっけ? ローズよりはよくない?」「まだ早いだろ、香水なんて。僕ら17だよ」「早いかなぁ。あと1つで俺達も成人だよアラウディ。大人になるんだ」ぽん、と頭を叩く手に心臓が痛んだ。大人…。
 僕はもうとっくに汚れた大人になってしまった。この手は血で、身体は誰かの精液でドロドロだ。こんなに汚れたのににあの頃と変わらない想いを抱いてる、こんな自分が、醜い。それなのに離れることもできない。を愛しく思いすぎた反動でまた誰かに抱かれないとならなくなるのに、そう分かってるのに、距離を取れない。
 伸ばしかけた手。抱きしめようと伸ばした手。その手でぐっと拳を握って耐えた。
 汚い僕は、きれいなに、触っちゃいけないんだ。
 とん、と肩を押して離れた僕にが目を丸くしていた。
「僕、疲れてるから…昼寝、する」
 自分から取った距離。放った言葉。どれもすぐに訂正したくなる、それを堪える。そっか、と頷く彼は僕を疑っていない。信じている。「お疲れ。頑張ったなアラウディ。ゆっくりおやすみ」と笑う顔から視線を剥がして大股で庭を突っ切り建物に入る。扉を閉じてからは走って飛ぶように部屋に戻った。バン、と勢いよくドアを閉めて嗚咽のこぼれる喉を押さえ、口を塞ぐ。
「う…っ」
 冷たい床に膝をついて、涙で滲む視界を凝らす。
(抱きしめたい。抱き合いたい。手を繋ぎたい。キスがしたい。抱いてほしい。抱いて、)
 叶わない願いで息をするのも苦しくなる。
 あの手で僕の肌に触れてほしい。撫で回してほしい。一番敏感な場所に触ってほしい。身体で君の熱を感じたくて仕方がない。
 ……きっと、もう僕のことなんて見ていないだろうけど。でも。
 四つん這いで窓まで行った。閉ざしてあるカーテンをそっと引いて顔を覗かせ、まだ立ち話をしているジョットその他を霞む視界で見つめて、
 が、さっきと同じ場所でこっちを見上げているのを見つけてしまった。
 しゃ、とカーテンを閉ざし、泣きながら、笑う。
 …中途半端に期待させないでほしい。苦しいじゃないか。死にたくなるくらい苦しいじゃないか。
 兄弟だから。男同士だから。理由をつけて我慢していたのに。ずっとこの想いを隠してきたのに。もう堪えることが難しいよ、
(僕は、君と一緒になりたい。母の胎内にいた頃みたいに一つに…一つの生き物として、息を、していたい)