大通りを外れて小道に入り、小道から車が通れないような道幅の狭い路地へ。その路地をしばらく歩くと新しく構えられた事務所が見えてくる。その辺りに溢れている建物と全く同じ外観の、なんの特徴もない煉瓦の壁とガラスの扉。
 扉を押し開けると、これもどこにでもある、記憶に残らないくらい印象のない内装の受付とソファ。ただし、受付業務を担当している奴は嫌でも印象に残る頭とファッションをしてる。朝から見たくもない頭と顔だ。「遅刻ですよ」「はぁ?」「一分ね」しかも朝からうるさい。一分ぐらい大目に見ろ。
 舌打ちしてから受付の横の鉄の扉のドアノブを掴んで引き開け、ずかずかと自分のスチール机に向かう。
「機嫌が悪いなアラウディ」
「朝からうるさいんだよ受付係が」
 ああ、と苦笑いするジョットが「まぁそう言うな。受付兼パソコン業務兼書類仕事をしてるんだ。外に出ない分忙しいんだぞ、あれでも」そんなこと知ったことじゃない。ふん、とそっぽを向いて業務用の椅子に腰かけて足を組む。朝から気分が悪くて仕事をする気も失せた。
 苛ついてる僕に一つ息を吐いたジョットがパンと手を叩いた。
「よし、それでは全員揃ったところで今日の仕事の話だ。集まってくれ」
 僕は席を立たなかったけど、他はジョットの机の前に集まった。表のDはあそこにいるのが仕事の一環なので来ない。
 はぁ、と溜息を吐いてからガチャンと席を立って他の二人に並ぶ。
 この事務所にいるメンバーはジョットを筆頭にG、コザァート、僕、Dという少数だ。大人数なんてウザったいだけの僕には五人でも多い。でも、人に言わせればたったの五人、らしい。
「朝一で厄介な話はしたくないんだが、しばらくはこの一件をメインに動いてもらうことになる。これが資料だ」
 渡された書類の束のページをめくって斜め読みして内容を掴む。
 どうやら、大企業の社長が死んだらしい。ライバル会社を汚い手も使って蹴落としてきたグレーゾーンに足を突っ込んでる会社で、近々強制捜査の予定がされていた。そういう話の類はよく聞くので事情は流し読みですませ、その社長の死因の『変死』という二文字を眺める。「……何、変死って」「うーん」飛ばし飛ばしで読んだので一番に声を発した僕にジョットは苦笑いした。「次を見てみろ」言われてページをめくって手が止まった。カラーで写真があって、死亡現場であろう一室を写していた。それは別にいいんだけど。
「なんだこりゃ」
 顰めた声で顰めた顔をしているGが「おい、どうやったらこんな死に方するんだよ」と書類を少し遠ざける。コザァートもGと同じことをして書類を遠ざけた。「これ、酷いな…確かに変死って言うより表現のしようがない」とこぼす。
 問題の死亡現場では何か大きなものに叩き潰されたように潰れて飛散した、死体とも言えない、肉と臓器を飛び散らせた大企業の社長だったものが写っていた。
「…これでよく分かったね。その社長だって」
「ああ。それがな、被害者は直前まで明日の会議について部下と内容の確認をしていたんだ。部屋には被害者とその部下の二人だった。話がすんで部下が立ち去ってすぐに何か物音がして、再度訪ねたら、すでにこの状態だったらしい。もちろん血液鑑定で社長本人と判明してるよ」
「ホシは」
「見ていないそうだ。そもそも、その話を信じるなら、被疑者はものの数秒で社長室に押し入り害者を殺害したことになる。こんな殺し方を数秒でできるか?」
「恐竜でも召喚して踏み潰させる、くらいのことできないと難しそうだね…」
「その部下が殺ったって可能性は」
「殺され方がこれだけ壮絶だからな。返り血の一つも浴びてない人間は論外だろう。凶器になりそうなものも所持していなかった」
 ぱし、と書類の束を叩いたジョットが「そういうことだ。現場の惨状もあって本部は完全にお手上げさ。よほど経験がないと誰を行かせても吐くか気分を悪くするだけで仕事にならない、とさ」まぁ、そうだろう。Gもコザァートも引いてるし。僕でも現場写真だけで顔を顰めるんだから、この惨状に立ち会ったらそうもなるだろう。
 それでも仕事なので、何枚かある写真をじっと眺める。「これ」気になったものをとんと指で叩くとジョットがにやっと笑った。
「さすがアラウディ。勘が働くな」
「で、これは何」
 ちょうど脳辺りがぶちまけられてだいぶ醜いことになってるけど、何かを下敷きにしている。着ていたろう服や靴が潰れるか破けるかで飛散しているのに比べて、肉片に隠れるようにきれいに残っているこれは変だ。
「…これ、絵かな? 絨毯とは違う色合いだ」
 うえ、と口を掌で覆いつつも口を挟んだコザァートにジョットが頷く。「あ あ、そのようだ。今可能な限り絵の洗浄をしている最中だ。これだけ血液が付着しているから成果は期待できないが…」ふぅん。絵、ね。確かに変な事件だな。事件と表現するのもおかしいくらいに何もかもが変だ。この死に方も、床に落ちているカンバスも、全てが不自然。
 それでも事件は事件。すでに迷宮入りしそうな臭いはしてるけど、仕事だ。やるしかない。
「被害者の数日の足取りをDが追ってくれてある。手分けして当たってくれ。虱潰しになるかもしれないが頼むぞ」
 書類の一番最後にここ数日の被害者のスケジュールと顔写真があった。大企業の社長らしいけどどこにでもいそうな中年だ。そこだけ破って束をジョットの机に放る。「分担は」「コザァートは事件前から4日目、Gは3日目、オレは2日目、アラウディが前日だ」「…そういうのって君が前日を担当するところじゃない?」ジト目を向けた僕にジョットが苦笑いして「さっきのお前の勘を信じるよ。オレだってあんなに早くはカンバスを見つけられなかった。今回はお前が頼りだ」勝手なことを言うジョットに溜息を吐いてコートのポケットにたたんだ書類を突っ込み、早々に事務所を出る。
 事件の前日の被害者の足取りはこうだ。
 パリ市内の会社を『取引先の相手と会ってくる』と言って自家用車で午後15時頃に同社を出発。その後目撃されたのがムランというパリから30分弱の町で、特筆すべきことが何もないような場所。パリからしたら相当田舎だ。こんな場所に大企業の社長が直々に会ってまで取引する相手がいるとも思えない。
 車の目撃情報はここで途切れていたので、あとは普通の刑事がするのと同じ、人の目撃情報を探すしかない。
 道行く人間を掴まえて『この男を見ていないか』と写真を出す。道行く人間を掴まえる。写真を見せて知らないか訊く。人を掴まえる。写真を見せる。その繰り返し。
 その作業にさっそく飽きてきたとき、田舎のスーパーのおばさんが「ああーこの人」と僕に色目を使いながら声を上げた。「…知ってる?」「知ってるわよ。いつもね、一ヶ月に一回くらいやってきて、うちで色々買ってくのよ。いかにもお金持ちそうなのになんでウチなんかで買い物してくのかしらっていつも不思議でね」へぇ、とぼやいて写真の男に視線を移す。こんな辺鄙な場所まで仕事だと偽ってやってきて、生活用品や食品を買っていく。…明らかに変だ。女でもいるのか。
「いつも買い物してからどこ行ってるのかは」
「さぁ、そこまでは…。でも北岸の方向だったわ」
「北岸?」
 顔を顰めてタブレットで地図を呼び出しムランの北を引っぱってくる。北はアルモン谷とブリー高原に接しているらしい。どう考えてもここより人は少なくなるだろう。…証言者を捜すのが大変そうだ。
 溜息を吐いて「どうも」と話を切り上げて外へ出て、陽の高さを確かめる。だいぶ時間を食ってる。進展はしたけどあまり時間もないな。
 …北岸か。南だったらパリに近付いてフォンテーヌブローに入ったのに。あそこなら有名なキャンパス地だからまだ簡単だったのに。
 検索してみたけど大した写真も出てこなかった。ということは北岸というのは本当に何もないのだろう。
 仕方がないので一度出たスーパーに戻って適当に食料を買い込んで車に戻り、北岸に向けて出発する。
 道なりに走ってはみたけど、本当に何もない場所だった。田舎だ。圧倒的に田舎。退屈で死ねるくらいに田舎の風景。田園地帯でもなければ牛や羊が放牧されているわけでもない鬱蒼とした緑があるだけの。
 道沿いにある家を訪ねてはみたけど、必要以外に外でぼうっとする習慣のある人間でもいない限り通り過ぎた車のことなんて知るはずもないし、訪ねてきたわけでもないのなら写真の男を知るはずもない。無駄骨だけ拾ってさらに車を走らせ、民家が消えてきた頃、景色が晴れた。鬱蒼とした緑が突然途切れたのだ。
 森、に近かった景色が背丈の低い草原に変わる。どうやら高原地帯に入るらしい。
 そこで、途切れて久しかった民家らしきものを見つけた。こじんまりしてるけど人が住んでる形跡はありそうだ。
 道端に車を停めてエンジンを切り、ドアを開けると、乾いた風が顔に吹きつけた。そういえばしばらく雨が降ってない。
 チャイムがなかったので、こじんまりした家のドアを叩く。…反応がない。廃屋ってわけではなさそうだけど…。
 庭でもあるのかと思って裏に回ってみたけどそんなものはないし、開けっ放しのカーテン、覗ける部屋に人影もない。首を捻って辺りを見回して、高原の先の方に人の頭を見つけた。あんなところに。
 膝丈の草を蹴飛ばしながら歩いていくと、黒い髪が見えた。…この辺りでは逆に珍しいんじゃないだろうか。さっきまで赤毛か金髪しかいなかったのに。
 その誰かは鬱陶しいくらい長い髪を風に揺らしていた。
「ちょっと訊きたいんだけど」
 声をかけると、一拍遅れてから相手がこっちを振り返る。
 鬱陶しいくらい長い髪をしてるから女かと思ったらそうじゃなかった。童顔だけど男だ。喉仏が浮いてるし。「誰ですか?」顔のわりに声は低い。男だ。
「人捜しをしてる。この写真の男見なかった?」
 今日何度口にしたか分からない言葉と一緒に写真を突き出すと、受け取った相手が目を細くした。しばらく写真を見つめたあと「ああ、知ってます」と言う声にああそうと流そうとして留まる。「…知ってる?」黙ってるから知らないのかと思ったら予想外の収穫だ。浅く頷いた相手は「知ってます。少し前、ここへ来た」と言う。「何をしに?」と訊ねた僕にすっと伸びた手が指したものは、カンバスだった。彼は木箱に腰かけていて、その前にイーゼルとカンバスがある。…絵、だ。肉片と臓器の下になってたものと同じ。
「絵を、買っていきました」
「……それ、君の絵?」
「そうですよ」
「…なんの絵?」
 絵は絵なんだけど。なんというか。独創的というか。褒めたとしてもそんな言葉しか出てこない。ピカソを連想させるような訳の分からない絵だ。芸術に興味の欠片もない僕にはそういうものにしか見えない。
 これを買いに、大企業の社長がわざわざこんな辺鄙な場所まで来た? それならそれで個人的な趣味になるのかもしれないけど、理由を偽って食料その他を買い込んでやってきた意味が不明だ。
 僕の言葉にふふと笑った相手は「なんに見えます?」と疑問に疑問を返してくる。
 彼が位置取った場所から見えるのはただの景色だ。青い空と白い雲と草木色。見る限りの自然。そこに人の造形物は見えないし、走る道も砂利道で細い。
 どこにも人の手の色がないのに赤い色で埋まっているカンバス。花道のように彩られた細い道。赤い色の中でときどき顔を出してるのが何かの塊。青かったり黒かったりする。
 趣味がいいとは言えないこんな絵を買うためにここまで来たっていうのか、大企業の社長は。
「その人が、どうかしたんですか?」
 首を傾げる相手に言い淀む。…一般人だし。でも、今の話が本当なら、彼は事件の前日被害者に会っていた、重要な参考人だ。反応が見たい。
「死んだんだ。君に会った翌日に。事件性が高い。だから調べてる」
 さすがに死体の下に君が描いたと思われる絵があったから、とは言えない。
 表情筋の一つでも見逃さないよう観察しながら言葉を並べると、彼はいたって淡白に、へぇ、とこぼしただけだった。それきりこの話に興味をなくしたように木箱の上に積んである新しいカンバスを手に取る。ほぼ赤い色で埋められているカンバスは無造作に草の上だ。
 その淡白さに眉根を寄せる。「…驚かないの?」世間一般の反応として、顔見知りが死んだならまずそれが一番なのに。
 彼は筆を取ると「絵を買っていっただけの人ですし。その人の何を知ってるわけでもないですし。驚くにも、哀しむにも、遠いでしょう」…それはそうかもしれないけど。
 それに、と付け足した相手はふふふと笑って「俺、見ての通りの世捨て人なんで。そういうことにとくに疎いのかも」と笑ってチューブの絵の具をパレットに搾って落とした。