陽が暮れる前に事務所に戻り、全員集まったところで今日の成果を報告し合う。僕以外はどこも外れだったようで、持ち帰った情報にジョットが勝手に喜んでいた。「やはりお前に行かせて正解だったな」と。
 顎に手を当てたGが「しかし、ムラン? そんなとこにわざわざ絵を買いに会社抜け出して行ったってのか?」理解できん、と首を振るGにコザァートが気付いたって顔で「絵っていうと…死体の下敷きになってたカンバスとか?」「そう。これ」事件の参考品として持っていっていいかと訊ねた僕にあっさり譲ってくれたほぼ赤い色で埋まっているカンバスを掲げると、おお、と微妙な反応をされた。ジョットは「随分独創的だなぁ」と多分褒めて、Gはあからさまに顔を顰めてコメントなし、コザァートもははと空笑いして「なんか…赤い色に現場を思い出すよ……」と閉口する。
 お世辞にも『きれい』だとか『幻想的』とは言いがたいこんな絵を、僕が帰るまでずっと描き続けていた。
 うーんと首を捻ったジョットが「まぁ、カンバスに絵を描く人なんて掃いて捨てるほどいるだろうしな…たとえ同じ布地、同じ枠組みのカンバスだとしてもそこまでだな。状況的に見て被害者がその彼の絵を買っていったと判明しても、それ以上にはならんだろう」僕もそれは同意見だった。死の間際に買ったばかりの絵を眺めていた、という図が見えるだけだ。
「絵の洗浄とやらはどうなったのさ」
「ああ。あまり参考にならんぞ」
 タブレットを操作したジョットが写真を見せてきた。洗浄を終えたらしいカンバスは赤やら黒やらで汚れている。何が描かれていたのか半分も分からないけど、なぜか、白い色の部分が多い。カンバス地が見えていることを考えるに白い絵の具ではなくもともと何も描かれていなかったようだ。
 何か、変な感じだ。メインとなるべき何かが抜け落ちているような。まぁ、絵の感覚や芸術の分からない僕が言うのもなんだけど。
 とにかく、今日は目撃者を捜すことに時間を費やしたから、詳しい話は後日と行ってあの場所を離れた。もう一度行って当時の詳しい話を聞くしかないだろう。
 ガチャン、と椅子に腰かけて足を投げ出し、人に会いすぎて疲れた意識を休める。
 警察の人間なのに対人に疲れるなんてとよく言われる。ついつい鬱陶しく思って苛立って、それを我慢するのに疲れるんだけど。
 …そういえば、お互い自己紹介もしないまま別れてしまったな。明日行ったら挨拶くらいはしてやろう。
 ジョット達は引き続き被害者の足取りを追うとのことだったので、翌日、僕一人で午後一番くらいの時間に彼の家を訪れた。
 ドアを叩いたけどまた無反応だ。もしかして、と裏に回って草原を見渡す。…いた。あの黒い頭、彼だ。
 さくさく草を踏みつけ歩いていくと、昨日と全く同じように絵を描いている彼がいた。「やぁ」声をかけると筆をカンバスから離して僕を振り仰ぐ。「…ああ。また来たんですね」「昨日は詳しい話ができなかったからね」腕を組む僕に彼は笑って白いカンバスを草の上に置いた。空いた場所をどうぞと僕に譲るので、座っておく。
 …彼と同じ目線になってみても、カンバスに描かれているような嵐の最中の風景なんて見えない。天気のいい晴れた午後だ。それなのに彼のカンバスにはハリケーンでも来たかのような荒んだ景色が広がっている。
「で、それは何を描いてるわけ」
 昨日も同じ質問をしたな、と思う僕に彼はふふと笑う。「何に見えますか?」「…少なくとも、ここから僕が見ている景色には見えない」そうですか、とこぼした彼が筆を持ち上げる。
「描きながらでも?」
「どうぞ。それで手元が大丈夫なら」
 じゃあ、と絵の具をたっぷり含ませた筆を遠慮なくカンバスに押しつける彼の手を眺めながら足を組む。…やっぱりどう見ても変な絵だ。
 脇に挟んでいたタブレットの画面を起動させる。「で、さっそく訊きたいんだけど」「どうぞ」「君の絵を買っていった男、その日初めてここへ来た?」町で情報収集をした感じだとそれなりの間一月に一度ここへ通っていたみたいだけど、ということは伏せておく。ここで相手がはぐらかすようならその行動を問い質さなくてはならない。
 彼はあっさりと「いいえ」と僕の問いを否定した。初めてではない、と。
「何度目?」
「さぁ。数えていないので忘れました」
「少なくとも何度かは来てるだろ」
「そうですね」
「それで、男の名前も知らない?」
「知りません」
「…彼はここへ来るのに町でわざわざ色んなものを買っていってる。君のために、だろう?」
「ああ…そうですね。そういえば色々もらいました」
 真っ黒な絵の具を筆ですくった彼は、それをそのままカンバスに叩きつけた。ビシャ、と黒い色が絵を汚して、かろうじて嵐の風景だったものが全く別の意味不明の産物になる。
 あくまで淡白な、むしろ感情の起伏すらないような、面白くない反応だった。話をメモしようとタブレットを起動させたのにメモすることがない。顔を顰めて「じゃあ、何でもいい。男がここに来たときの様子とか、話したこととか」そう言うと、彼は膝にパレットと筆を置いた。鬱陶しいくらい長い髪を絵の具で汚れた手でかき上げると、そのまま自然な流れで僕の頬に掌を当てた。絵を描くときと同じ、笑うとき以外のぼうっとした顔のまま、掌が頬を滑る。
 何を、と言おうとした僕に「こういうことを」とこぼした彼の手が滑って落ちて、腿に触れる人の掌の感触に、ぱん、とその手を払った。睨む僕にふっと笑うと「こういうことを、されてました」と言う、その意味を理解しかねた。「は?」と顰めた声を出した僕にふふふと笑って払った手で再び筆を取る。
「物好きな人でした。頼んでもないのに色々買ってきて。あれが必要だろう、これが必要だろうって用意して。俺が絵ばかり描いてると、気を引こうと色んなことをするんですよ。キスとか」
 ……聞き間違いだろうか。キスって聞こえた。いい年齢の大人の男が青年に満たない男子にキスとか…物好きっていうか男色家じゃないか。だからこんな変な絵も買っていったんだろうか。僕だったらお金なんか出さない意味不明な絵を。
 男の顔写真を思い出して、その顔が隣の童顔に口付ける様子をリアルに想像してしまって無意識に頭を振っていた。どう考えても気持ちが悪い。
「それ、セクハラってこと?」
「そうですね。そうなるのかも。触っていいって言った憶えはないですし」
「…君はそういうことされても無反応だったわけ? それとも嫌だって言っても無理強いしてくる奴だったの?」
 被害者の人間像を想像する僕に、彼は笑った。なんだかおかしそうに。…僕は何もおかしなことは言ってないと思うんだけど。
 黒い絵の具が付着したままの筆に青い絵の具をのせて、彼は言う。
「こんな辺鄙な場所でしょう。ただでさえ何もない。わざわざ来てくれる人まで拒んでいたら、何も残らないでしょう。不快感でさえ。俺は、来てくれる人は拒みません。全部創造のための糧にします」
「ああ、そう…」
 ちっとも理解できなかったけど、彼にとっては不快感よりも絵の方が大切らしい。
 あ、とこぼした彼が手を止めた。「そういえば、名前も聞いてませんでした」と言う彼に『被害者は男色家』と偏見半分の意見をタブレットに打ち込んで「アラウディ」と告げると、「俺はっていいます」と自己紹介された。ふぅん、とぼやいて腕を組む。…全然情報がないな。というか彼は何にでも反応が薄いというか、関心がなさそうというか、全てが絵に向きすぎているというか。
「他に何かないの。何でもいいんだけど」
「そう言われても…」
 うーん、とぼやいた彼が黄色の絵の具をすくった筆をカンバスに叩きつける。
 …ますます意味不明の絵になってる。一体何を描いてるんだこれは。黒、青、黄が踊り狂ってるとでも言えばいいのか。絵の具とカンバスの無駄にしか思えない…。
 ふう、と吐息した彼が筆を水桶の中に突っ込んだ。ふらりと立ち上がって伸びをすると、長い髪を風に揺らしながら「じゃあ、家の中でも見ていきますか。何かあるかもしれないし。ないかもしれないですけど」言いながらもう歩き出している。そっちがそう言うなら、と後を追いながら、僕より小さい彼の髪をつまんでみた。前をちょろちょろしてあまりに鬱陶しいので。
「ねぇ、切ったら。髪」
「え? なんでですか」
「どう考えても鬱陶しいだろこの長さ」
 呆れた僕を振り返ってそうかなぁと首を傾げる。何か考えるような間のあとで「あの人が気に入ってたので…」「は? 誰」「アラウディが調べている男の人が」「ああ……」どうやら本当に男色家らしい。どう考えても犯罪だ。全く、生きてたら逮捕するところだ。大企業の社長なんだから不倫くらい女としろ。
 どうぞ、と僕を家に招いた彼は、一番にハサミを持ってきた。「切ってください」と。「…なんで僕が」「鬱陶しいんでしょう? 俺は別にこのままでもいいですけど」「…………」放っておくと本当にこのままの長さで過ごすだろうと簡単に想像できたので、閉口してハサミを受け取る。細い肩を掴んでくるりと背中を向かせ、長い黒髪にハサミを入れてバッサリ切り落とした。ぱさ、と音を立てた髪が床に散らばる。
 自慢じゃないけど、人の髪にハサミなんか入れたことがなかったので、かなりざっくばらんな出来になった。まぁ、あのまま長いよりは鬱陶しくないはず、ということで自分を納得させる。切らなかったよりはマシだ。
 僕の散髪に文句も言わない彼は、箒を持ってきて床をきれいにし始めた。
 その間に手袋をして家の中を物色した。使われないまま溢れているものがたくさんある。気になるのは、明らかに場違いに高価そうな額縁。その中には絵がない。
「ねぇ」
「はい?」
「あれ、なんで中に何も入ってないの」
 空っぽの額縁を指した僕に、ああ、とぼやいた彼が切り落とした髪をゴミ袋に入れる。
「いつか、俺を描いてくれないかって言ってました。それでこの中に飾ってくれ、って」
「………」
 げっそりした僕に彼は笑う。「そのうちねって誤魔化してたんですけど…描いてあげればよかったかなぁ」意地悪だったかなぁ、と言って額縁を撫でた姿から視線を外す。もう死んでる人間にアレだけど…いい大人が、本当に勘弁してほしい。
 はぁ、と溜息を吐いた僕に彼が首を傾げる。ぼやっとした顔で僕を眺め始めたので、自由人の彼は放っておいて、また物色を開始した。額縁以外に特徴のあるものはこれといってない。あとは基本的な日用品というか…。
「そいつは君にどんな話をしてたのさ」
「話…」
 うーん、と視線を天井辺りに漂わせながら、「あまり話をする人ではなくて…余分な話はとくに。ずっと、俺のどこかを触ってるか、絵を見てるかで」はあ、と大きく息を吐いた僕にふふと笑う。「アラウディは嫌いですか? そういう人」「…嫌いっていうか、気持ちが悪いよね、普通に」「そうですか? 愛は自由だと思います。性別に縛られるものでもない」愛、ねぇ。妻子持ちの男に色目使われて愛は自由とかよく言える。芸術家は人と視点が違うのだろう。そうでなければあんな絵描けないだろうし。
 目ぼしいものは何もなかったので、簡素なソファに勝手に腰かけた。
(やっぱりこれといって情報がない。被害者が妻子以外に男に色目を使ってたってことが分かったくらいで…)
 ふらっとキッチンに寄っていった彼が今頃お茶の準備を始めた。もてなす気があるらしい。「ウバ、アッサム、ダージリン、どれがいいですか」「どれでもいいよ」「じゃ、適当に決めます」紅茶の準備を始めた彼の背中を眺める。髪が肩甲骨より短くなって、多少さっぱりした。もっと切ってもよかったけど、おかっぱはさすがに嫌だろうと思ってあの辺りでやめておいたのだ。まだもう五センチ短くしてもいいかもしれない。面倒だから今日はもうしないけど。
 タブレットを睨んでいる僕のところへ「どうぞ」とカップを持ってきた彼に「どうも」と受け取って、首を捻る。「君は飲まないの」「今はいいです」笑った彼がソファに腰かける。疲れたように目を閉じてうなだれ、それきりうんともすんとも言わなくなった。
 なんなんだ、と眉根を寄せつつ紅茶をすする。
 ……確かに。中性っぽい顔はしてるけど。着てるものが絵の具だらけだし。そもそもこんな場所で絵を描いてるだけの彼と大企業の社長がどうやって出会うっていうんだ。
 眠っているように動かない相手に手を伸ばす。
「…そいつは、君にどんなことをしてたの」
 訊く必要もないこと、知る必要もないこと。聞いたって気持ちが悪いと思うだけのこと。
 訊ねた僕に、彼は小さく笑った。唇がやわらかく弧を描く。「髪をすくって、唇を寄せますね」「ふーん…」ざっくばらんになった髪を指ですくう。艶があって指通りがいい。試しに唇を寄せてみた。…悪くはない。「それから?」「何も反応しないでいると、空いてる方の手を握られて」投げ出されたままの右手に触れる。ずっと筆を握ってるせいか少し固い。「それから?」「最後は、いつもキスされます」ぱち、と目を開けた彼が僕を見上げる。ぼやっとした顔。寝起きですって言っても通じそうな。
「キス、しますか?」
「…嫌だよ。あんな男と間接キスしたくない」
 ふんとそっぽを向いて手を解いた僕に彼は笑った。
 一瞬のうちに起こした気紛れに気付けてよかったけれど、危うく流されるところだった。
 再び目を閉じて静かになった彼を横目で見やる。
 ………何か。おかしなものは感じる。
 なんていうか、引力、みたいな? 一度見たら強烈に印象に残るあの絵と同じで、彼には引力みたいなものを感じる。引かれないでいることができない、僕が引かれかかったものに、あの男は引かれたのかもしれない。一度見たら忘れないあの絵のように。
「アラウディ」
「…何」
「呼んでみただけですよ」
 ふふ、と笑う横顔にガキがと毒づきながら手を伸ばして、投げ出されたままの手に掌を被せる。絵の具で汚れた手。絵ばかり描き続けている手。
 あの男に対してもそうだったように、彼は僕の掌にも無反応で、ただ唇を緩めて微笑を浮かべ、目を閉じていた。