「素晴らしいよ。私の感性にハマり込む絵だ…幼きピカソのよう。将来大物になるぞ君は」
 ある日家を訪ねてきた男の人にそう言われた。幼きピカソって、随分褒め上げるんだな、と思いながら描いた絵を適当にカンバスの上に重ねると「なんてことをっ」と慌てた様子で俺の手からカンバスを取り上げて「素晴らしい絵なんだ、保存法くらい考えたまえ」と怒られたので、曖昧に笑う。
 どさ、とソファに座り込んで、目を閉じる。
 少し、疲れたみたいだ。適度に休まないと駄目だな、やっぱり。
 俺が静かにしていると、革靴の音がして、首筋に人の手が触れた。「髪、切ったんだな」耳にかかる声の近さ。項を撫でる指の温度。抱いたのは不信感。それでも笑って「面倒見のいい人がいて。鬱陶しいから切れって言われたので。この前、美容院に連れていってもらって」月の色の髪と氷の色の瞳をしたコートの姿を思い出しながらそう返すと、指が離れた。代わりに頬に掌の感触。
 薄く目を開けて、顔を上向かせられるまま見上げると、遊び呆けている資産家の息子がいて、俺を見下ろしていた。どうやら、自分以外に俺に目をかけている人間がいると分かって機嫌が降下したようだ。
「いい加減私の屋敷に来ないか。こんな田舎に来る手間も省けるし、君一人養うくらい何も問題ない」
 …自分で仕事をしてないくせにそれを言うかなぁ。全部親のお金なのに。
 と、思うだけ思って顔には出さない。「俺、人混みとか苦手なので…」それに、と付け足して、頬にかかっている手にキスをする。手仕事も何もしてない苦労を知らない手はやわらかい。やわらかくて、なんの魅力もない。
「お屋敷で秘め事はできないでしょう」
 ねぇ、と笑う。泳いだ視線を逃がさないように、腕を伸ばして頬に手を当てて、こっちを向かせて。
「俺はここで待ってますよ。いつでも待ってます。また、来てください」
 バタン、と車のドアが閉まる音がした。そのくせエンジンのかかる音がまだしない。名残惜しいとでも、思っているんだろうか。
 深い息を肺の底から吐き出して手をかざす。絵の具で汚れていない手が逆に不自然だ、と思う。
 ぱたっと手を落としてベッドの中で寝返りを打つ。裸に羽布団だけでも午後の陽射しのおかげで充分あたたかいと感じる。でも、雲が出てきた。放置してあるイーゼルを回収してこないといけない。
 裸の身体を起こしてのろのろとシャワーを浴びに行き、べたつく身体をきれいにしてから新しいシャツと七分丈のズボンを穿いて、ブーツに足を突っ込む。
 まだいるんだろうかと玄関の覗き窓から外を見てみると、もう車はなかった。さすがに帰ったらしい。
 …恵まれすぎた環境にいる人なのに、それでも誰かに甘えたいなんて、贅沢だな。充分甘やかされて育ってきたのに、愛という蜜を欲しがって俺のところまでやってくる、どうしようもない人だ。
 外に出て、雲の出てきた空を見上げながらいつもの丘へ。放置したままのイーゼルをたたんで肩に引っかけ、木箱をずるずる引きずりながら家に戻る。
 明日は雨、とあの人が言っていた。なら明日はずっと部屋にいないといけない。それはそれで退屈だ。俺は絵は外で描きたい人なのだ。なるべく開放的な空間で思考を萎縮させないでおくことを重視してる。頭のどこかに何かが引っかかるとそれを気にして手が止まってしまうから。
 ガタン、とイーゼルを壁に立てかけ、ふらっとベッドに戻る。
 少し久しぶりにセックスしたせいか疲れてしまった。相手を悦ばせようと努力することは嫌いじゃないけど、あの人の啼いた声は少しわざとらしいから、それも疲れの原因かなぁ。
「…………」
 汚れたベッドを見下ろして、やっぱりこのままにはしておけないな、とシーツを掴んで剥がした。洗濯とかすごくめんどくさいや。
 絵を描かなくてはいけない。あの人に贈る絵を。
 何がいいだろう。俺がどんな絵を仕上げても喜ぶだろうけど、どうせなら気持ちの入ったものにしよう。ただの風景画じゃいけない。
 心臓か、あるいはハートを描く。赤いハート。血を噴き出してぱっくり二つに割れた赤い心臓。何度も何度も赤を塗りたくって厚みを増した心臓から緑の血液が流れ出す。黒い大地に、緑の血液が流れて、そこに木が生える。オレンジの木。実をつける木になるのは赤い色。赤いハート。赤い心臓。心臓から生まれた木が心臓を生む、永遠に続く循環。永遠に続く命などない、という矛盾のパラドックス。
 かたん、と筆を置いて伸びをした頃にはすっかり夕方になっていた。
 血を噴き出す心臓に指で揺れて、ずず、と緑の血を引きずって黒い地面へ垂らしていく。
「…………俺に、殺されるなら、本望。でしょう?」
 名前も憶えていない男のために描いた絵。
 空っぽのまま愛する方法を知った身体。
 矛盾の塊のような自分という存在。
 …もっと素敵な物語が描けたらよかった。
 きれいな風景やきれいな建物。教会のステンドグラスとか、有名な古城とか、セーヌ川に浮かぶ船の家とか。凱旋門の下をくぐる車と比較しながらその大きさに驚いたりしたかった。したかった、な。
 カンバスから指を離して絵の具を舐める。
 これでまたあの人が来るんだろう。なんだっけ。きれいな顔ときれいな名前の人。警察の人だと思うけど、はっきりそう聞いたわけじゃないし、よく分からない。最近は個人的に俺のところへやって来ては日がな一日俺と一緒にいる。べたべた触れてくる人ではないし、そんなに喋る人でもない。その分他の誰かにつき纏われるよりは楽だ。
「アラウディ…だったかな」
 月の色の髪と氷の色の瞳。あれだけきれいな人だから、街ではきっと女の子の視線を独り占めしてるんだろう。もっとも、あの人はその視線をウザいの一言で跳ね返していそうだけど。
 …でも。そうだな。あの人のそばにいたら、いいインスピレーションを得られそうだ。きれいな人のそばにいたらきれいな絵が描けたりはしないだろうか。そんなに簡単じゃあない、かな。そんな機会があるとも思えないけど。
 ベッドに腰かけて寝転がり、布団を被って、リモコンでピッと電気を消す。
 開けっ放しのカーテンの向こうの雲が晴れ始めている。この辺りは他に民家もないから夜がよく見えるだろう。
 横たえた身体でしばらくぼうっとしてから腕をついて起き上がる。
 晴れてきた。せっかく月がよく見える位置にある。夜に筆を取るのは神経を使うけど頑張ってみようかな。
 イーゼルとカンバスを一枚、絵の具のセットを鞄に突っ込んで肩に引っかけ、椅子代わりの木箱を引きずりながら家を出る。
 ざわ、と吹いた風が髪をなぶった。肩につかないくらいのすっきりした髪になって頭がいつも軽い。アラウディの言うとおりさっさと切っていれば重たくなかったな。
 どん、とイーゼルを地面に突き立て、カンバスを置き、引きずってきた木箱をイーゼルの前にセッティング。腰かけて鞄を横に置き、パレットや絵の具を出しながら空を見上げた。うん、きれいだ。風もあるからこのまま雲は流れるだろう。描かなくちゃ、この空を。
 雲が立ち込めて重かった空に風が吹いて、隠れていた星と月が顔を出し、こんばんわ、と笑う。イメージとしてはそんな感じ。
 だけど、筆を置いた頃に出来上がった絵は想像には少しも追いつかない泣いた空。月と星が涙を流して砕け散り、大地に突き刺さる、夢も希望もない風景。
 やっぱり俺にはこういう絵しか描けないんだろう。きれいな絵なんて描けないんだ。こんなにきれいな空の見本を前にしてるのに少しも似なかった。哀しいくらいに。
 すっと頬を滑ったものに指で触れる。…冷たい。
 がし、とパレットを掴んでカンバスに叩きつけた。ビシャ、と絵の具の残りで汚れた空が絵の具色の涙を垂れ流す。
 夢も、希望も、俺には何も関係がない。幸福も、幸せも、俺には何も関係がない。抱くだけ無駄だ。思うだけ無意味だ。絶対に叶わない。俺にはもう何もないんだ。絵以外にはもう何も。
 絵の具が固まり始めている筆で汚れたカンバスの上に字を書いた。掠れた『hope』には羨望以外の何も認められなくて、は、と短く笑って、手にしたキャンバスを木箱に叩きつけた。一度じゃ枠組みが軋んだだけで壊れなかった。何度も木箱にカンバスを叩きつけた。両手で掴んで何度も、何度も、何度も。
 やっと壊れたカンバスを草原に放り投げて、冷たいものが伝った頬を掌で拭う。
 泣いたって何も変わらない。俺は絵を描くだけだ。描き続けるだけだ。この腕が使い物にならなくなるまで。