小言を言われない五分前に事務所のガラス扉を押し開けると、受付で何か慌ただしく動いていたDが「遅いですよ」と毒づいてきた。はぁ? と顔を顰めた僕に書類の束を突き出して、「また例の変死事件です」と言ってくる、その手から書類を引ったくって鉄の扉を押し開ける。
 また。またってつくってことは、多分。
 やってきた僕にジョットが険しい顔を向けた。「アラウディさっそくで悪いが」「ちょっと待って、まだ目を通してない」確認したくて被害者の情報はすっ飛ばして現場写真を食い入るように見つめる。
 …あった。絵だ。カンバスだ。血で真っ赤になってるけどカンバスで間違いない。
「状況を確認しよう。コザァート」
「被害者は資産家の一人息子。親のスネをかじることを当然として生きてきた、言っちゃ悪いけど、駄目な人間の典型」
「ではG。ざっとでいい、現場の説明を」
「一人息子の就寝準備を手伝ったメイドが部屋を出たのが昨夜午前一時。翌朝七時に別のメイドが起床を伝えに行き、部屋のドアを叩いたが、返事がなかった。しつこく起こすと逆ギレされるため一度部屋を離れ、八時頃にもう一度起こしに行き、反応がなかったので部屋に入ると…この状態だったそうだ」
 ベッドに横たわり、仰向けで、大事そうに絵を抱きかかえ、その姿とは真逆に凄まじい断末魔の叫びを表した顔で絶命。死因は失血性ショック死というありふれたものだけど、そこに至った原因、これが僕らのところまでこの事件が回ってきた理由だ。
 被害者は左胸、心臓を内側から裂けたような傷口で辺りに血を撒き散らして死亡したものと見られる。「…悲鳴を聞いた人間は」「皆無だ。おかしな物音もしなかったそうだ」「……つまり、勝手に内側から心臓が裂けて、血を噴き出して、一人死んでいった?」ジョットが困惑顔で「状況がそうとしか思えん、と本部は言ってる。まぁ気持ちは分からないでもない。…これは事件と言っていいのかも微妙なところだろう」確かに、と頷くG、コザァートの面々を流して書類を斜め読みですませて顔写真を剥ぐ。「おい、アラウディ、まだ分担は」言いかけるジョットを無視して事務所を出る。
 血の赤で塗り潰されて絵の色なんて分からなかった。何が描かれているのかも。
 でも、僕には予感があった。予感というか直感に近いのかもしれない。根拠なんてないけど、自分が抱くそういった類のものはよく当たる。
 パリから車を飛ばした。朝の通勤ラッシュに巻き込まれてまともに身動きのできない車内で苛々とハンドルを指で叩く。
 どうしてまた絵なんだ。どうしてまた奇怪な死に方なんだ。これじゃあに疑心の目が向けられるのに。
 ムランの北岸まで車を飛ばし、急ブレーキをかけて停車、あの丘へと走る。
 彼はやはりそこにいた。今日もまた絵を描いてる。

 細い背中に声をかけると、一拍遅れてこっちを振り返った彼が首を傾けた。今日は髪を結んでいない。ざわ、と吹いた風が彼の黒髪をさらってぱらぱらと散らす。「アラウディ? 今日は早いですね」「個人的にじゃなくて、仕事だ」コートのポケットから資産家の一人息子の写真を引っぱり出して突き出す僕にぼやっとした顔を向けてから写真を眺める。
「…今度はこの人が死んだ、とか?」
「知ってる顔?」
「知ってる顔。ご贔屓さん。俺のためにカンバスや絵の具を大量に買ってくれました」
 これもそう、と真っ白のカンバスを撫でる手は、まだ絵の具に触れていないのか汚れていない。何がおかしいのかふふふと笑うと「そう、それに一番俺にご執心で、あんまりせがむから、セックスしましたよ」びゅお、と突風が吹いて僕の手から写真をかっさらった。空高く舞い上がった写真を掴む気にもなれなくて、呆然と彼の横顔を見つめる。
「君は、自分を売ってるの…?」
 パレットを膝に乗せた彼が絵の具のチューブを指で選り分ける。「みんな、多かれ少なかれ、お仕事っていうのは自分を売ってるものでしょう。俺にはそれが当てはまらない、なんてことはない」筆を選び始めたいつも通りの手を掴んだ。ぽん、と草原の中にチューブがいくつか転がって落ちる。
 相変わらずのぼやっとした顔に噛みつくようにキスをした。…思っていたよりもやわらかい感触だった。
 男とセックスできるくらいならキスなんて朝飯前なんだろう。至近距離で見つめる瞳の中に感情の起伏は感じられない。
「…任意同行、付き合ってくれる? パリまで」
 彼はいたっていつもの顔のまま「いいですよ」と言ってやんわり僕の身体を離した。
 落ちた絵の具を拾いパレットやカンバスを片付ける姿が本当にいつも通りで、それが何か悔しくて、僕はずっと拳を握っていた。
「で、連れてきたのか…本当に行動が急だなお前は……」
 疲れた顔をしたジョットがごほんと咳払いをして一般人に向ける人が良さそうな笑顔を浮かべた。「初めまして。アラウディの上司をしてるジョットという者だ」よろしく、と手を差し出したジョットにが一拍遅れて手を出し、握手を交わす。「です」淡白に名前だけ返して会話を終了させた彼にジョットが曖昧に笑って僕を肘で小突く。お前が連れてきたんだから何とかしろよ、と。
 受付のカウンターの向こうから遠慮なくを睨めつけているDがすっと手を上げた。「アラウディにやらせるくらいなら私に」「は?」「彼は全てが不用意すぎる」勝手を言うDに目を眇めて喧嘩なら買おうと一歩踏み出したところへ「まぁお前ら落ち着け」とジョットが割って入る。
 僕とDのどちらがロセに事情聴取するのかと睨み合いになっていると、「分かったよ、オレが対応する」ジョットが参ったとばかりに両手を掲げた。ふん、とそっぽを向き合う僕らに疲れたように息を吐いて、気持ちを切り替えたのか、相変わらずぼやっとした顔で眺めている彼に向き直る。
「では、オレから質問させてもらってもいいだろうか。答えにくいことなら黙秘してくれていい」
「どうぞ」
「この男とは顔見知りでよかったか?」
 僕が見せたものと同じ顔写真を提示するジョットに、が浅く頷く。「知っています。名前は知りませんけど。聞いた…かもしれませんが、忘れました」そうか、と頷いたジョットが「では、この男に絵を贈ったりしたか?」「…贈ってはいません。買っていきました」「彼のメイドの話では、彼は『贈り物だ』と言いふらしてそうなんだが」ふうと息を吐いたがそこで初めて表情を崩した。少し疲れた顔をしてソファに背中を預ける。
「確かに、あなたのために描きましたって言いましたけど、お金はもらいましたよ。セックスまでねだられたので、何ももらわないままじゃ、さすがにもとがとれないし…」
 言いかけて、僕らの反応を見て口を閉じた。「まぁ、もらいました。語弊はありますが、俺が描いたものかと思います」それが何か、と首を傾げる彼にジョットが僕とDを視線で窺った。言うべきか否か、ということだろう。
 あくまで僕らのリーダーはジョットだ。Dも僕もそのことは弁えていたので、最終的な判断は彼に委ねる。
「…その、言いにくいことなのだが。彼らは少し特殊な死に方をしていてね。そこに君の絵があったんだ。だから、何か関係があるのかなと思ったわけなんだが」
 首を傾げてジョットの言葉を聞いていた彼がああとこぼす。大して驚いたふうでもなく、怒っているふうでもない。「つまり、疑われている、ってことですか」「そうは言ってない」口を挟む僕をDが睨んで「ですが、君の絵を買った人物が二人続いて死んでいます。何か知っていませんか?」配慮のない物言いにDを睨み返す。の絵を買った人間がそのせいで死んだみたいな言い方をするな。
 ぼやっとした顔に少し思案の色を混ぜて悩む彼はおよそいつも通りだ。「そう言われても…」とぼやく声も抑揚がない。
「たとえば、君の絵を憎んでいる人間が、君の絵を買った人物を殺して回っている、なんて異説でもいいんです」
「うーん……」
「失礼だろ。に謝れ」
「まぁ落ち着けアラウディ。Dも悪気があるわけじゃ…」
「あ」
 ぽん、と手を打ったが「その異説、ある意味当たっているのかも」と言うから三人で揃って顔を向けた。
「何か心当たりがあるのか?」
 浅く頷いた彼の話はこうだ。
 少し前、団体でやってきた黒いスーツとサングラスの男の集団に、専属の絵描きになれと脅されたことがあるらしい。
 はそれを断った。開放的な空間で絵を描きたい自分には、どこかの部屋に閉じ込められて絵を描く生活は性に合わない、と。こうでないと絵は描けない、と。その団体はあっさり引いたが、去り際、後悔することになるぞと物騒な言葉を置いていったらしい。
 勧誘を断ったへの嫌がらせ。嫌がらせというには彼の絵を買っただけの人間にやりすぎだろうという気はするけど、その線が皆無というわけじゃない。可能性はある。
 話は全てDがタブレットに記録しているので、僕は何もせず、話し終えたを見つめた。「…変なことはされなかった?」ぼそっと訊ねた僕に彼は笑う。「そのときは何も」と。
 何か考え込んでいたジョットが顔を上げる。何かを決めたらしい。
だったな」
「はい」
「しばらくパリにいてくれないか。滞在費などは全てこちらで負担する」
 ジョットの急な提案に僕もDも面食らった。「ちょ、ジョット、何を言ってるんです! 私は上にそんな申請なんてしてませんよっ」うるさいDに黙れと灰皿をぶん投げて「ジョット、それは急すぎるだろ」と言う僕をが見上げる。こちらも何かを考えるように少し間を置いて、どうだろうか、と笑顔のジョットを見返し、
「いいですよ」
 彼はあっさりジョットの提案を呑んだ。ふあ、と欠伸をこぼすと「でも、絵を描きたいので、画材セットとか一式…それも費用に含んでくれるなら」「善処しよう」「ジョットー!」灰皿をぶん投げ返してきたDに舌打ちして銃で灰皿を壁へと叩きつける。ガラス製だったのか砕けて割れたけど僕のせいじゃない。投げ返してきたDが悪い。
 一体どういうつもりなのか、ジョットはにこにこ笑顔でもう一度手を差し出して「じゃあ、改めてよろしく頼むよ。捜査に協力してくれ」一拍置いてからジョットの手を握り返したが「できることでしたら」と手を離す。
 ぎゃーぎゃーうるさいDには構わずにこやかな笑顔を浮かべたジョットがびしっと僕を指さして「その間はアラウディが君の世話をするから、何も心配しなくていいぞ。こき使ってやってくれ」とか勝手なことを言う。さすがに頬が引きつった。何を勝手言ってるんだこの上司は。
「僕はいいよなんて言ってないんだけど?」
「じゃあ、Gかコザァートにやらせるが」
 お前はそれでいいのか? と言葉なく訊かれてとっさに何も言えなかった。ひょっとしたらジョットは知っているのかもしれない。ムランまでに会いに行っていた僕に。
 わざわざあの田舎まで行っていたことを思えば、仕事にカッコつけて彼と一緒にいられる時間は、断る理由が、ない。
 僕らの賑やかさにふふと笑みをこぼした彼が「よろしくアラウディ」と笑う。何もかも見透かしているような、何を考えているのか読めない、透明な笑顔で。