「とりあえずデパートに行ってこい。オレはDの小言を聞きながら申請の手続きをしないとならないから。いいか、領収書を切ってもらえよ。絶対だぞ」
 びしっと指を突きつけてくるジョットに顔を顰めながら事務所を出た。パタン、とガラス扉が閉じると中の喧騒は何も聞こえなくなる。当然だけど、防音対策も施してあるためだ。
 あふ、と欠伸をこぼしたが僕を見上げる。急な話の展開に慌てるわけでも構えるわけでもないいつも通りの顔。
「地理が分からないので、連れていってください」
 当然そのつもりだったので「こっちだよ」と狭い路地を行く。
 車の停めてあるパーキングまではどうしても歩かなければならない。そこから先は車で大通りの適当なデパートへ行けばいいだろう。荷物も問題なく積めるはずだ。カードも携帯しているし…。
 財布を確認していると、ぐう、と音がした。視線をずらす。明らかに隣からだったんだけど彼は知らん顔で高い壁の家を見上げている。
「…お腹減ってるの?」
「そういう音がしましたね。じゃあ、減ってるんでしょう。エネルギーが足りないって」
 あくまで他人事みたいに言う彼に息を吐いて一番近い個人経営のレストランに入った。食事にこだわらない僕やGは近いからという理由でよくここを利用している。
 カウンターの席を取ってメニューを広げた。「何が食べたい?」「何でもいいです」「…肉とか魚とか野菜とか、指定して」「じゃあ…」今日のおすすめランチのラム肉を指した彼は、「ところでラムってなんですか?」なんて言う始末だ。食べたことがないらしい。今日のおすすめに勧められるままに選んだということか。…まぁ食べられなかったら僕が食べればいいだろう。お腹が減ってるわけじゃないけどそれくらいなら入る。
 珈琲だけ注文して頬杖をついて隣の彼を見やる。
「で、さっきのはどういうこと」
 一口水を飲んだ彼が「はい?」と首を傾げた。「ああ、セッ」「そっちじゃない、もう一つの方」たとえ店中だろうが憚らず普通に言おうとするので言葉で遮った。ああ、とぼやいた彼がまた一口水を飲む。…その姿になぜか安堵する。あまりに絵ばかり描いててその姿しか知らなかったせいか、ちゃんと飲み食いするんだな、なんてことで彼の人間味を確認して勝手に安心している。馬鹿みたいだ。
「話したままですけど」
「君さ、そんな輩が来てもあんな場所にいたわけ。危ないって普通思うよ」
「うーん……でも俺、ああいう場所じゃないと絵が描けないんですよ。雨が降ってるときは部屋の中で筆を取りますけど、上手くいかないんです。完成しないというか。だからいつも外で描くんです」
 ちびちび水を飲む彼が僕を見上げる。「パリは、広い場所はありますか?」僕より背の低い彼に見上げられると自然と上目遣いになるので何となく視線を逸らした。別にドキッとしてない。
「公園くらいたくさんある。凱旋門あるでしょ。あの周辺は広い通りになってるからイーゼルを置くスペースくらいある。エッフェル塔の周辺もそうだし」
 いくら世捨て人の彼でもフランスの凱旋門とエッフェル塔を知らないってことはないはず、と名前を出す。彼は浅く頷いてコップを置いた。気ままに店の中を眺め出す、いつもの自由人ぶり。
 珈琲が先に運ばれてきたので、適当にカップを傾ける。いつもと変わらない味だ。
「セーヌ川も行きたいなぁ」
「…連れてくよ」
「ノートルダム大聖堂も」
「はいはい」
「あと墓地も」
「……なんで墓地」
「インスピレーションが欲しくて」
 ふふ、と笑みをこぼした彼があっと声を上げて手を合わせる。「美術館。俺、美術館へ行きたいです」連れてってください、と腕を掴む手に「分かったよもう」とぼやいて僕より小さい手に掌を被せる。
 絵描きっていうのはこういう生き物なのだろうか。美術館に連れて行くと行ったら今まで見た中で一番人間らしい顔をしている。
 やっぱり、あんな田舎の誰もいない場所より、街の方がいいんだ。彼の言うインスピレーションのきっかけだってたくさんある。今回のジョットの急な提案には驚いたけど、結果的に正解なんだろう。僕にとっても、彼にとっても。
 やっとラム肉と野菜のボイルが運ばれてきた。ナイフとフォークを手にさっそく切り始めた彼を横目にしつつ珈琲をすする。
「…何?」
 カウンターの向こうからこっちを観察している中年超えのマスターを睨むと、いやいや、と笑われる。「よく喋るじゃないかアラウディ。誰と来てもお前さんはだいたい黙ってたろう。珍しいなぁとね」ふん、とそっぽを向く僕をが見上げてくる。「ほぅらんれすふぁ」「…食べてから喋ってよ。こぼすよ」言ってるうちからこぼしてるし。
 もくもくラム肉を頬張っている彼が一切れ僕に差し出した。「おいしいですよ」と。…間接キスになるな。まぁ、もうキスしたんだけど。
 ぱく、とラム肉を食べてみる。やわらかいけど、僕は普通に鳥あたりでいい。脂身はあまり得意じゃないし、さっぱりしてるくらいが好きだ。
 反応のない僕に首を傾げていた彼だけど、ああ、と気付いてぺろりとフォークを舐めた。わざとだ。そんなことくらいで動じてやるつもりもなかったので黙って珈琲をすする。彼もそれ以上はからかう気はないらしく、黙ってラム肉と野菜を平らげた。
 デパートでが気に入ったイーゼルその他を買い、最低限必要だろう着替えや日用品を調達する。「他に何かほしいものはある?」とりあえずこれだけ買えば最低限は揃ってるはず、と領収書を確認している僕に、彼は首を傾げた。
「ところでアラウディ」
「何?」
「走った方がいいかもしれません」
「は?」
 意味が分からなくて顔を上げると、彼は僕じゃなくてその向こうを見ていた。何を見てるんだと振り返って、領収書を紙袋の中に突っ込む。
 黒いスーツ。サングラス。男の三人組。この辺りじゃそんな姿ありふれてるけど、一般人とはちょっと空気が違う。どちらかというと職業が僕らに似てる、手馴れてる連中だ。僕らと同じ臭いがする。サングラスに隠れてどこをどう見てるのか視線では判断できないけど、三人一様にこっちを見てるような気はする。警戒するには充分だろう。
 とりあえず、離れても不自然ではない動きで、会話で、無難に距離を取ることを試みる。「地下行くよ。カップ麺の一つや二つあった方がいい」僕の意図に気付いた彼は「はい」と大人しくベンチを立った。騒ぐでも怯えるでもない。ある意味肝が座っている。
 残念ながら、スーツの三人組は一定の距離を保つようにしながら僕らについてきた。
(面倒だな。荷物があるし手が塞がってる)
 別に、暴れようと思えばできるけど。ここには一般人が多く存在する。下手に巻き込んだらDにうるさく言われるだけではすまないし始末書とかも面倒くさい。
 …仕方ない。頼るのは癪だけど、これも仕事だ。
 スーツのポケットから携帯を取り出す。それを彼に渡した。「かけて。ジョットに」「……えっと」どうやら携帯を触ったことがないらしい。こうか、こうかな、と画面上のボタンに触れて、ようやくリダイヤルのボタンを見つけ、『ジョット』の表示に電話をかけ始める。僕はその間油断なくスーツの集団を睨んでいた。
「あ、ジョット、俺です」
 どうやら繋がったようだ。「すぐに人を寄越せって伝えて」「人をください。ちょっとピンチです。ってアラウディが。えっと、場所が…」最悪すぐ動けるようイーゼルその他が入った袋を置く。向こうも一人が携帯を取り出して何か吹き込んでいる。声までは聞こえない。デパート内のBGMが流れるスピーカーがすぐ上にあるせいかもしれない。
 画面をオフにしたが僕を見上げる。「すぐに行かせるって」「そう」その手から携帯をさらってポケットに突っ込む。どんなに飛ばしても事務所からここまで十五分はかかるだろう。その間上手くかわせるのか分からないな。かといって動かないでいることがいいとも思えないし…。
 逡巡して、やはり動かないでいるのはよくないと思い「カゴ持って」と積まれているカゴを顎でしゃくる。はカゴを一つ提げて声を小さくして「買い物続けるんですか?」と僕を見上げる。「じっとしてるのも変だろ」イーゼルその他が入った荷物を抱え直し、常にスーツにサングラスの男達に注意を配りながら適当に見て歩いた。
 何か仕掛けてくるかと思ったけど、結局何もなく、Gとコザァートが合流した辺りで三人バラバラに散って引き上げていった。
「追うか?」
「いいよ。罠って可能性もある」
「他に人数がいるってこと?」
「携帯で何かしら指示はしてた。外で張り込んでるって可能性はある。こっちは人数に制限があるし、下手にバラバラになるよりこのまま帰って振り切った方がいい」
 それもそうだな、と肩の力を抜いたGがさっそくモードを切り替えて「じゃあちょっとタバコ吸ってくるわ。すぐ戻る」と喫煙室のある方に消えた。そんなGにコザァートが苦笑いしながら「怖くなかったかい?」とに声をかける。浅く頷いた彼は僅かに表情を曇らせた。
「あの人達…俺に警告しに現れたんでしょうか。警察にチクったな、って分かったとか……」
 余計な心配をする彼の頭に手を置く。「そんなこと気にしなくていい。そうだとしても、君をパリへ連れてきた僕の責任だ。君のせいじゃない」そうかなぁ、と視線を下げるの頭をぐりぐり撫でる。らしくない。今までそんな顔しなかったくせに。人間らしくて、僕はそっちの方が好きだけど。
 じっとこっちを見ているコザァートを睨んで「何?」と刺を出すといやと曖昧に笑って誤魔化そうとする。言いたいことがあるなら言え。そういうのが小言を言うDよりも鬱陶しい。
 苛立ちを隠さない僕に、コザァートは諦めたように息を吐く。
「アラウディ、なんか変わったっていうか、には甘いんだなと思って」
「馬鹿じゃないの」
「いや、事実だよ。いつもより口数も多いし」
 へぇ、と僕を見上げてくるから手を離す。「別にいつも通りだよ」と早口に言って荷物を持ち直す。ちょうどよくGが戻ってきた。
「待たせた」
「おかえり。じゃあ、とりあえず戻ろうか。買い忘れはないかな」
「ないよ」
 さっさと歩き出す僕にGとコザァートに挟まれる形でがついてくる。まだ不安なのか、デパートの人混みの中を見回している。そしてふいに顔を顰めて頭に手をやった。「?」足を止めて頭を抱える彼の前で膝をつく。「何、痛いの?」「…平気です。ちょっと……人混みが、だめで」「そういうのは早く言ってくれないと困るんだけど」コザァートに荷物を押しつけて頭を抱えるにおぶさると背中を見せると、あは、と困った顔で笑って僕の背中に抱きついた。
 別にドキッとしてないよ。そういう顔もできるんだなと思っただけで。
「やっぱり変だ…普段接してるオレ達からしたらものすごい違和感が……」
「普段からこれくらい協調的だといいんだがな…」
「そこうるさい。黙れ」
 後ろでヒソヒソ言う声に噛みつくと、背中のに小さく笑われた。くそ。
 事務所に戻るとジョットに出迎えられた。Dはまだ申請手続きとやらをしてるらしくパソコンにかじりついて何か入力中だ。
「無事か。よかった」
 の姿を認めてほっと息を吐いたジョットがガラス扉の向こうを確認し、事務所のシャッター開閉ボタンを押した。ガー、と耳障りな音を立てて防弾性と気密性の高い特製シャッターがここと外とを遮断していく。念のための措置だろう。
 応接用のソファに荷物を置いて「少し寝かせてあげたいんだけど」と顔色の優れないを示すと、Dがきっと顔を上げて「仮眠室は事務所内を通るんですよ。駄目です」「君には訊いてない」小うるさいDを睨んで無言で罵り合いをしていると、が小さく手を挙げた。いつもより色が白い。「俺、ここでいいので…横になっていいですか」ソファを示す彼に荷物を床に移動させて場所を譲る。気を利かせたコザァートが持ってきた毛布を被せる。
「痛み止めはいらない?」
「いいです。少し休憩すれば、治ると思うので」
 そう、とぼやいて黒い髪を撫でた。最初に人混みが苦手だと言ってくれればもう少し配慮したのに…。
 ぱっと手を離してこっちを見てる面子を睨む。「…何?」ジョットがあからさまににこにこしてるのが気に食わない。なんだその顔。
「あっちで状況を聞かせてくれ。D、ここは頼んでいいな?」
 はぁ、と溜息を吐いたDが「仰せのままに」とぼやいて入力作業に戻る。
 僕らは事務所の奥に移動した。を休ませるためにも場所は移して話をした方がいい。
 鉄の扉を閉め、ジョットが真面目な顔を作る。
「で、どうだった。そのスーツにサングラスの男組というのは」
「…同類、かな。少なくとも一般人じゃないと思う。尾行の距離も引き際も手馴れていた」
 ふむ、と腕組みしたジョットが何か考え始めると、はい、とコザァートが手を挙げた。「なんだコザァート」「尾行にはいつの時点で気付いたのかなって」だそうだ、と振られて、言い淀む。「…気付いたのは僕じゃないんだ」「え。アラウディが気付かないうちにもう張られてたってこと?」不承不承認めるとコザァートが難しい顔で眉根を寄せる。「気が緩んでたんじゃないのか」Gのぼやく声に「どういう意味」と睨みつけると、肩を竦めて返された。
 の買い物のために普段とは違うふうに頭を回転させてたかもしれないけど、身体は別だ。嫌でも覚えている。敵意も殺意も、殺した気配にさえ身体が跳ねるのだ。問題は、僕が全くそれらを感じない間に尾行を許し、距離を詰めさせていたこと。
 どこからどう情報がいったのかは知らないけど、以前を脅したという連中だとしたら、首根っこを掴んで引きずり出さなければならない。それが回ってきた事件二つを解決する糸口となる可能性もある。
「よし。アラウディ」
 考え事が終わったらしいジョットに呼ばれて視線だけ投げる。「お前がしばらく面倒を見るんだ」「…は?」「だよ。本来ならホテルの宿泊を予定していたんだが、一人にするのは危険だと判断した。お前のマンションで一緒に寝泊まりしてくれ。ぶっちゃけその方が宿泊費もかからないし都合がいいんだ」な、と笑うジョットに頬が引きつる。何を、勝手に、決めてるんだ、この上司は。
「それともオレのところにするか? オレはそれでも構わないぞ。兄弟がをおもちゃにしないといいんだが…」
 ジョットは実家暮らしで上と下に兄弟が何人かいる。そんなところに絵描きのを放り込んだら遊び道具にされること間違いなしだ。
 科学の発展した22世紀、芸術を生き甲斐にする人間は減少の一途を辿っている。感性だけで食べていける時代ではなくなったのだ。絶滅危惧種とも言える絵描きという生き物である彼は物珍しさに玩具にされるに違いない。
 Gは無言で腕をクロスさせ×を作って拒否し、コザァートも困った顔で「オレはワンルームだからちょっと厳しいかな」とやんわり拒否。未だが事務所に出入りするのを認めていないDなど論外だ。
 はぁー、と深く息を吐いて眉間をもむ。
 最初から僕に拒否権なんてないじゃないか。は人混みが苦手なんだから、人数の多いジョットの家に行かせるわけにはいかない。
 それに、色んなところへ連れて行くと言ってしまった。せめて美術館だけは連れて行ってあげないと、がっかりするだろう。
「…分かったよ」
 了承した僕に、頼んだぞ、と笑うジョットが恨めしい。