フランスから車で30分。ムランという町の北岸からやってきた少年は、名をと言う。黒い髪を持つ東洋系の顔立ちで、控えめに表して、中性的な美人。アラウディと並んでいると精巧な人形が二つ並んでいると錯覚を覚えるくらいだ。
 しかし、整った見た目とは裏腹に、二人ともとても癖がある。
「…。絵の具」
「え? あ」
 指摘されて、がテーブルに落ちた絵の具をシャツの袖でこすった。当然テーブルは絵の具の黄色を残して汚れているし、シャツの袖口だって汚れてしまった。が、はそれ以上テーブルを気にすることもなく、視線は制作中のカンバスに戻っている。
 絵の具が落ちたテーブルではアラウディが無言で鬼神の如き速さで進めている仕事が積まれている。そのままにはしておけないと思ったのだろう、アラウディが溜息を吐いて仕方なさそうに立ち上がって出ていき、戻ってきた手には濡らしたタオルが一枚。仕方ない、を表情で表しながらも絵の具で汚れたテーブルを拭き始める。
 アラウディが仕事をしている隣でイーゼルにカンバスを立てかけ絵を描くには、筆から絵の具が垂れ落ちることなど日常茶飯事らしい。気にするでもなくカンバスに筆を押しつけている。
 幻想的、とはいかず、特徴的、を通り越して、独創的、に入る部類の絵を描く彼は、今日もまたカンバスに向かっている。
 けれど、閉鎖的な場所ではいつも手が止まる。
 今日は雨なのだ。そう、彼の望む開放的な外という空間は絵にとって点滴であろう水と湿気で溢れている。だから今日はそこで描いているのだが、やはり駄目だったようだ。はぁー、と腹の底からの深い溜息を吐くとパレットと筆を膝に置き、ぼやっとした顔でカンバスを眺め、パタン、と裏返して制作をやめてしまう。
 隣で仕事に戻っていたアラウディがちらりと彼を気にする視線をやるが、すぐに仕事に意識を戻した。
 防音性に優れているこの場所には雨の音は聞こえない。ガラス扉の向こうでしとしと煉瓦の地面を濡らす雨の雫が見えるだけ。
「今日は、ずっと雨ですか?」
「うん」
「晴れませんか?」
「明日も雨だよ」
「明日も……」
 明日も雨、という予報に絶望した声。
 絵の具で汚れた手で顔を覆う姿は、まるでこの世の終わりに直面し絶望している様のようで、悲壮感さえ滲ませている。彼にとってはそれほど絵が大事なのだろう。室内では満足いく作品に仕上がらない。それが明日もとなれば、彼にとっては一大事なのだ。
 アラウディが無言でちらちら彼を気にし、気にしつつ鬼神の早さで片付けるべき仕事をズバズバと片付け、半分ほどになったところで睨むようにして受付で仕事しているオレを一瞥する。そう、今日はDが休みなので、オレが代わりに受付にいるのだ。あいつは他人が自分の仕事に触れるのを嫌がるタイプなので、あいつの領分の仕事はそのまま積んである。
「ジョット」
「なんだ?」
 あくまで関心がないふうを装う。そうでないとアラウディが機嫌を損ねるからだ。アラウディは雨に絶望しているの頭をぽんぽん叩くと「美術館に連れて行く」と言う、その言葉でぴょこんと彼が顔を上げた。目がキラキラしている。普段のぼやっとした顔が嘘みたいな喜びようだ。…却下するのはあまりに忍びない。
「充分気をつけろよ。何か気付いたら連絡しろ。すぐに出る」
 了承したオレに「あとはまた明日やるから」と仕事の山を顎でしゃくったアラウディがさっさと立ち上がってコートを羽織る。基本ゆっくり行動なだが、コートを羽織ると足早に傘を掴んで事務所を飛び出していく。慌てた顔のアラウディが「ちょ、!」と声を上げて雨の中へ飛び出す。コートの後ろ姿はすぐ彼に追いついた。立ち上がりかけたオレは一つ吐息して席に座り直す。
 雨に煙る煉瓦道に遅れて咲いた傘。しかし、それは一つだけ。それを遠目に眺めて、「なんで一つの傘を共有してるんだ…」と密かにツッコミを入れるオレであった。一人一本でいいだろう。が着ているコート、領収書の中になかったし、アラウディが個人的に買い与えたものなんだろ。だったら傘くらい買ってやれよ。
 あと、アラウディ。オレ達は一応部外秘の仕事を生業にしているんであってな。今日はDがいないし受付前の空間でやることを許可したが、せめて、片付けていきなさい。
 アラウディはもともと喧嘩屋だった。簡単に言えば警察を敵とするような生業の何かしらに手を出している組織の一員。しかし奴は利益を求めるでもなく信念を持つでもなく、殺りあえる環境をただ楽しんでいる、オレ達から言えば厄介な相手だった。
 その場の仲間を気にするでもなく何を庇いもしない。金か、仕事の条件か、気に入ったものにのみ手を出す神出鬼没性。野放しにしておくには危険な実力。
 繊細で壊れそうな見かけによらずやたらめったら強く、隙のないアラウディは、とにかく破壊衝動を秘めていて、それを活かせる場所を探しながら点々と生きているような存在だった。
 奴に正義感などはない。あるのはただの破壊衝動。壊したい、という思いのみ。
 それでも正義をかざすこの仕事に来いと言ったのは、ここでなら、お前の暴力を正当化できると思ったからだ。
 意味のない暴力は犯罪にしかならない。だが、ここで、この場所で振るう暴力なら罪ではない。こじつけかもしれないが、人員不足なことも手伝って、人を捜していた。アラウディはちょうどいい戦力だったのだ。
 正当に暴力を振るえる。そりゃあそれだけがこの仕事の全てじゃないし、そうでない場合だって多々あるが、ウチは特殊課だ。特殊なケースの事件が回ってくる。面倒事も多い。君にはそれを片付けてもらいたい。そう言ったオレにアラウディは考える素振りを見せたあと、いいよ、とあっさり承諾し、警察に身を置いた。
 あいつは人形のように整っていたが、人形のように他人に無関心だ。満たしたいのは自分だけ。都合がいいからオレの下にいる。よほどこの場所が気に入らないとならない限り、あいつがオレを裏切るようなことはないだろう。
 お互いの利害の一致。
 アラウディと人間関係を築こうと思ったのだが、あいつは最初から他人を拒絶していた。ここには仕事に来ているだけ。それ以上では決してない。アイスブルーの瞳は常にそうやって人を拒絶していた。
 あいつにとって世界とは、自分を満たすためだけにある、道具のようなものだ。
 基本的に自分以外が鬱陶しい。都合の悪いものは壊したいと思う。うるさい話し声、鬱陶しい人の視線、目障りな物。正当な暴力を振るうことを知ったアラウディは正当じゃない暴力を我慢することを覚えたが、苛立ちは、いつも感じているはずだ。
 奴は他人を受け入れない。自分以外を受け入れない。アラウディにとっては自分以外は全て邪魔でしかない。守る価値も、慈しむ価値もない。興味さえ抱かない。ただ壊してしまいたい。衝動の赴くまま。
 …そんな奴が、変わった。
 一人の少年を気にかけ、彼のために自分から行動するようになった。意識に置くようになった。表情を動かすようになった。気持ちを傾けるようになった。
 こう言ってはあいつに殺されるだろうが、子供が巣立ちしていくのを見守る親のような気分だ。
 飛ぶことに興味のなかった鳥はずっと翼をたたんでいたが、ある日そばを通った自分とは違う種類の鳥に惹かれ、追いかけるために翼を広げて、一度も掴んだことのない風に乗り、閉じこもっていた巣から外へと飛び出していった。
 という少年がパリに来てこれで一週間が経過したが、彼を狙う一味の存在は明らかになったものの、その後の動向などは一切不明だ。
 その一味がかつて彼を勧誘、しかし断られ、その報復に彼の絵を購入した人物を殺害しているのではないかという線は浮かびはしたが、現実味としては薄い。一人は恐竜にでも踏み潰されたのかというくらい見事に身体がミンチになっていて、一人は心臓が内側から破裂しての失血死、だ。オレ達の手にも余る奇怪すぎる事件が二つ。とうてい人間技ではない。しかし事件として扱う。そうでなければ弱い人の心は保てないから。
 自分達にはとうてい及ばないような力が世の中に存在し、それが自分達を傷つけ奪うものだと知ったとき、平静でいられる人間は少ない。
「……………」
 二つの死亡現場の写真を持って席を立つ。裏にされて制作を破棄されたカンバスをくるりと引っくり返せば、禍々しい、と表現してもいい一面紫の何かがある。
 これは、オレの勘なのだが。には何かがある気がする。絵を描くことを生業とするには彼はまだ幼すぎるし、いくら絵のためとはいえ、子供が一人人気のない土地の奥に住んでいるのも信じがたい。絵にこだわるが故以外に何か理由がある、そんな気がする。…オレの考えすぎならいいんだが。
 さて、仕事仕事と受付に戻り、仕事用の伊達眼鏡をかけ気分を切り替え、仕事の鬼になる。
 夕方前になって、小雨の中を二人が歩いてくるの見つけた。アラウディが差した傘の中に入るの手には大型の本がある。アラウディがせがまれて買ってやったのだろう。
 一心にページを見つめている彼を眺めるアラウディは、自分がどんな顔をしているかなんて、きっと気付いていないんだろう。
 知っているよ。お前が珍しく、というか初めて有休の話をしてきたから、気になってな。
 他事に興味を抱かないお前が有休を取ってまで向かった場所がムランの奥地。そう、仕事で出会っただけで、仕事で別れるはずだった、のところ。
(なんだその顔。満足そうだな。といるときのお前は雰囲気さえやわらかいし、まるで別人のようだ)
 初めて会ったとき、警察として対峙したオレと肉弾戦を繰り広げたお前は、君まぁまぁ強いねと物騒な瞳の色で昏く笑ったものだ。
 それがどうだ。なんだその優しい顔。獣みたいに地を這って、人間の限界を超えた生き物みたいにただただ壊すことを繰り返していたくせにな。
 守りたいわけか。のことは。彼のことだけは慈しむわけか。
(全く、面白い)
 ガラス扉が開き、人形みたいに整った人間二人が帰ってくる。
「おかえり」
 声をかけたオレに、は本を一心に見つめて顔を上げないし、アラウディはそもそもそんな言葉はスルーだ。が、にこにこしているオレに気付いて睨んでくる、その目はやはり変わらない。やわらかさの欠片もない鋭く冷たい眼光。
 だが、ソファに座ろうとして失敗、どてっと床に座って「あれ」と不思議そうな顔をするを引き上げる手は壊す手ではなく守る手。慈しむ手。「気をつけてよ」とかける声は相手のことを思っているし、彼のことを映す瞳は、オレ達には決して向けられることのない優しさを持っている。

 飛び立つことに興味などない、翼なんて邪魔だと思っていた鳥は、もういないのだ。