直感として、この子供は嘘がうまい、と感じた。
 アラウディに連れられてやってきた少年はぼんやりした顔だったが頭の回転は早かったし、不相応に大人びていた。そういうところもまた気に入らず、私は一人、未だ彼ときちんと口を利いたことはない。それで困るわけでもないので今日も今日とて受付に座ってパソコン業務と書類仕事を同時進行。ソファに座ってぼんやりしている彼のことなど視界に入らない、という感じでひたすら仕事を片付けていく。
 こほ、と咳き込むような音が聞こえても気にしなかった。咳くらい誰だってする。
 こほ、こほ、と掌で口を押さえたこもった咳は、鉄の扉を挟んだ向こうの事務所でタブレット相手に報告書を仕上げているアラウディには聞こえていないことだろう。
 はー、と深い溜息をこれ見よがしに吐いて「なんです、水でもいりますか?」と大人として譲歩して声をかけても返答がない。はぁ全く。なぜ私がこんなことを、と思いつつ席を立ってソファを確認すると、ソファに転がってまだ咳をしていた。
 …全く。なぜ私がこんなことを。
 カツカツ歩み寄って「どうしました」と声をかけて、念のためにと額に触れて、その熱さに思わず手を離した。「ちょっとなんですか高熱じゃないですか」「…、」「待ってなさい、君の保護者を呼びますから」早足で受付を横切って鉄の扉を押し開け「アラウディ、の様子が変です。高熱があります」と報告すると彼はガッチャンと椅子を蹴倒して私を押しのけ彼のもとへと駆け寄った。こら、備品は大切に扱いなさい。
 あのアラウディが本気で焦った顔をしていた。子供相手に。
?」
 呼ばれてぼやっと目を開けた彼の視線はぎこちない。焦点があちこちに不安定に移動している。様子が変だ。そのくせ「ぁ、俺、大丈夫です」とか言うのだあの子供は。
「何が大丈夫なものですか」
 腕組みする私に彼の額に手を当てたアラウディが驚愕した顔で「なんでこんな、朝は普通に」「おれ、」「黙って。帰るよ。薬飲んで寝るんだ」「病院に行った方がいいのでは? 風邪かもしれない」提案した私にがぐっとアラウディのスーツを掴んで起き上がった。ぜぇ、と荒い息を吐きながら「病院、嫌い」と子供のわがままを言う。病人は大人しくしてなさいと言いかけたが、アラウディは黙ってにコートを被せて問答無用で抱き上げた。そして無言で事務所を出て行く。
 なんの騒ぎだと遅れてやってきたジョット達には一応説明はしておいた。
 全く、なぜ私がこんなことを。
 後日、彼はいつものぼやっとした顔で事務所にやってきた。何を訊いたわけでもないが「偏熱でした」と報告してきたので、「風邪でなくてよかったですね」と応じておく。気はすんだかと思ったが、受付カウンターの向こうからじっとこっちを見ているので、居心地が悪くなって書類を伏せた。あの位置からはこちらの手元は見えていないはずだが。
「…なんです」
「Dは、アラウディのこと嫌いですか?」
 は? と眉根を寄せた私は、考えるまでもない唐突なその質問にイエスを返した。「そうですね、嫌いですよ」と。仕事仲間に面と向かって言えることでもなし、エレナに言えるわけでもなし。しかし、仕事仲間でもなければ一時的に面倒を見ているだけの彼になら言えることだ。
「なんでですか?」
「彼は考えなしに行動する人なのでね。私やジョットはいつもカバーに回っている。迷惑しているんですよ」
 普段の彼の仕事ぶりをここぞとばかりに非難すると多少はスッキリした。愚痴を言うのは大切、というのは本当らしい。
 そう、彼がもっと考えて行動し、こちらのことを少しでも気遣えば減った仕事がいくらでもあるのだ。始末書もそうだし今回のことだってそうだ。勝手にムランに行ったかと思えば勝手に参考人を連れ帰ってくるし、その費用はこちらが見るとかジョットも大概にしろと思うことを決定事項とするし。全てアラウディの軽率な行動が引き起こした悪循環なのだ。
 首を傾げたが言う。「でも、助かってますよね? アラウディは怪我をしないし、危ないところにも行ってくれる。D、あなたはここで、危険のない仕事をしていればそれでいい。楽ですよね?」「…何が言いたいんです?」「適材適所、ですよ。Dはこういうことが向いている。アラウディはああいうことが向いている。それぞれ長所を活かしている。ねぇ、短所は補い合うものじゃないでしょうか」カウンターに手をついて身を乗り出してくるに椅子を蹴って身を引いた。「ある程度、なら私だってそう思いますけどね」事実ではあるので答えは渋った。確かにそう思っていた。最初は。
「君は、どれだけ注意しても反省しない友人を前にして、同じことをずっと続けられますか? 掃除を任せたのに窓が汚い、料理を任せたのに全部焦げている、そんなことを続けられれば、我慢の限界がきませんか」
 彼には届かないのだ。どんな言葉も。ただの雑音。彼は周囲を意に介さない。分かってはいたが、私の言葉だって彼にとっては戯言だ。
 しかし、目の前の少年は否定する。「きっと届きます。いつか届きます。諦めないであげてください」と。何を根拠に、と眉根を寄せる私に消えそうな笑顔で微笑んだ。胸がムカつくくらいにきれいな笑顔。
「アラウディと喧嘩してくれるの、Dくらいだから。アラウディのことまともな人にしようって当たり前のことで怒るの、Dくらいだから。いつもアラウディと喧嘩してくれてありがとう。これからも、喧嘩、してあげてください」
 頭を垂れる彼に何を言えばいいのかと迷っていると、鉄の扉が開いた。ぱっとカウンターを離れたが「アラウディ」と呼ぶと彼は「何」と応じる。相変わらず淡白だが、に手を引かれて外に向かいながら、その手を握り返したところを見逃さない。「俺、絵が描きたいです」「はいはい」呆れたように息を吐きながらも、その要望に応えるため、付き合うためにガラス扉を開けて外へと出て行く。
 立ち上がって二人を見送りつつ、カウンターに頬杖をつく。「…何なんですかねぇあの二人は」思わずそんな独り言が漏れていた。
 妙な関係性だ。
 二人の間にあるのは信頼か?
 この短い期間で、他人を寄せつけず跳ね除けていたあのアラウディが、他人と信頼関係を築いた? それこそ信じられない。あんな子供と関係を築けるなら大人で仕事仲間の我々とも築けるはずだろう。破綻している。
 しかし、繋いだ手がぶらぶら前後に揺れているのが遠くに見えると、何とも言えない気持ちになる。恋人繋ぎこそないが、あの二人の関係はまるで。
 そこでピシャっと思考を閉じた。
 どのみち私には関係のないことだ。アラウディがどこの誰と何をしようがどうでもいい。仕事に支障さえ出なければ。こちらに迷惑さえかからなければ。
(今夜はエレナに会えるのだったな)
 勤務中ではあるが、ポケットに忍ばせている携帯の待ち受けで微笑む恋人を眺め、今夜のディナーを思う。少し久しぶりだ。一週間ぶりくらいだろうか。彼女を驚かせるためにプレゼントまで用意してしまった。喜んでくれるといいのだが。
 …まぁ、私には関係ない。アラウディが個人的にすることになど干渉はしない。
 だが、まぁ、あんなオチビさんが頭を下げて頼んできたのだ。まだしばらくは小言をぶつけてやろう。諦めるなど、この私が彼の理屈に合わせるようで不愉快だ。絶対に諦めてやるものか。あなたのその人を顧みない様、必ず正してみせますよ。