バン、と机を叩く音に片目を瞑る。「だから何度も言わせないでください。事務所内は関係者以外原則立入禁止です。彼を入れられるわけがない」彼、で指されているのは俺だ。Dの訴えは最もである。機密事項の多い大事な仕事なんだから、俺みたいなのをほいほい連れていっちゃいけない。
 アラウディも頭のどこかで分かっているとは思うんだけど、Dにそう言われるのが気に食わないのか、さっきから引き下がらない。「僕は仕事が溜まってるって呼び出されたんだけど? 僕が中にいる間誰がを護るのさ。代役がいないんじゃ連れて入るしかないだろう」アラウディの訴えもまぁそう聞けば納得できるような、そうでないような。
 さて、困った。二人は俺のことで喧嘩してるようなものだ。これでもう十分堂々巡りしてる。…そろそろ奥から誰か来てくれてもいいんじゃ。
 困ったなぁと思うだけ思って何もせずにいると、この騒がしさにようやく中から人が出てきた。鉄の扉を押し開けてやってきたのは寝起きだこの野郎って顔をしたGだ。顔まである刺青のせいかすごくガラが悪く見えるけど、中身はそうでもなくて、ヘビースモーカーな仕事のできる人。
「お前ら…人が仮眠中なの知ってるだろ……うるせぇよ」
「Dのせいだ」
「あなたのせいでしょう」
「…俺のせいだと思いますけど」
 ぽそっとツッコむとアラウディに睨まれた。首を竦めて明後日の方を向く。事実を言っただけなのに怖い顔だ。
 それでだいたい事情を察したらしいGが長い溜息を吐いてタバコを取り出した。「禁煙ですよ」「わぁってる。アラウディ」「何」「ガキならオレが見ててやるからお前はさっさと仕事してこい」おお、助け舟だ。Gは大人だな。感心している俺を顎でしゃくって「タバコ吸うからちょっと付き合え」と言われてソファを立つ。
 アラウディとDがまだ睨み合っていた。「おいお前らほんと仕事しろよー」とやる気なく声を投げながら外に出るGを追いかける。
 今日は天気が悪い。空気が湿っていてカンバスの状態もよくない。だから絵を描かない。だから、アラウディの通常の仕事を優先してやってもらおうと仕事場までついてきた。
 マイライターでくわえタバコに火をつけたGが空に向かって煙を吐き出す。
 空に昇っていく紫煙をぼやっと見上げる。タバコは健康によくないのに、吸ってると格好がつくから不思議だ。
「お前がいるとアラウディがうるさくなってかなわん」
「すみません」
「…別に謝ることじゃねぇ」
 ふー、と煙を吐き出したGが俺を一瞥する。観察するような瞳にももう慣れた。仕事柄ここにいる人達は無意識に相手のことを観察している。「で、あれからは何もなし、か?」「はい。色んな場所へ連れて行ってもらいましたが、スーツとサングラスの人達は見かけていません」そうか、とぼやいたGがそれきり黙ったので俺も黙った。とくに居心地が悪いとかは思わない。俺はもともと一人でずっと絵を描いているだけだったんだ。パリに来てからの方がむしろ異常なくらいで。
 エッフェル塔のキーホルダー、オペラ座の小さな仮面、ノートルダム大聖堂のステンドグラスを象ったキーホルダーエトセトラ。じゃらじゃら飾りのついた携帯をポケットから引っぱり出した俺にGが目を見張った。「買ったのか?」「あ、俺じゃなくてアラウディが」「あの野郎どういうつもりだ…」軽く頭を抱えるGにふふと笑う。ここにいる人達は個性的で本当に面白い。題材には事欠かない。
「もともと二台目を持つつもりで、今は俺に貸してるだけだ、って」
「あいつはそれで通ると思ってるのか…? ろくにメールもしない野郎がよ」
 それは俺も思った。苦しい言い訳かなって。でも、アラウディがそれでいくって言ったんだから、与えられる側の俺は頷くことしかできなかった。
 別に、携帯なんていらないと思ったけど。離れてしまったときはあった方がいいし、何かあったとき、僕以外でもいいからかけるんだ、と持たされた。
 好意はありがたい。厚意もありがたい。アラウディは俺によくしてくれている。…分かってる。
(好意。厚意。…好意、だろうなぁ)
 Gが吐き出したタバコの煙が曇り空へと同化していくのを見上げながら、今頃机の前で片付けなければならない仕事に不機嫌そうな顔をしているんだろうアラウディを思う。
「今日は、ジョットは?」
「休みだよ。オレ達にだって休みの日くらいある」
 それはそうか、と思って壁を背にして座り込んで膝を抱える。
 なんか眠い。受付横のソファはDの視線で落ち着かないし…だからって外で寝られるわけもないし。

 絵を、描かなくてはいけない。誰かに贈る絵を。
 何がいいだろう。どんな絵がいいだろう。
 できることならきれいな風景を描いてみたいものだけど、きっと俺には一生描けない。パリの色んなところへ連れていってもらったけど、俺は結局一つもきれいに描けなかった。地獄の鎌みたいなステンドグラス、今にも崩れそうなエッフェル塔、亡者の巣と化した教会、貴族が踊り狂うだけのオペラ座。まるで上手く描けない。全然描けない。それでも描かないといけない。この腕が壊れるまで。
 ぶる、とおかしなぐあいに震えた右腕を左手で握り締める。
 誰かに絵を贈らなくては。絵を描かなくては。今俺がいる状況で、絵を贈ってもおかしくない人は誰だ?

(アラウディ)
 すぐに思い浮かんだ月の色の髪と氷の色の瞳の持ち主。
 アラウディのために描いたんだよと言えばどんな絵でも顔を顰めながら受け取ってくれるだろう。俺の絵が事件現場に転がっていたことを知っていながら、それでも大事にしてくれるだろう。
(駄目だ)
 右手の先でかろうじて持っている携帯を握る。
 アラウディは警察の人だ。俺のことはもう割れている。アラウディが死んだりしたらジョット達の意識はまず俺にいくだろう。警察の精鋭の人達なんだ。俺のことなんてすぐ捕まえる。
 …いや。そうじゃなくて。本当はそんなことどうでもよくて。
 俺は。俺に優しくする、笑いかけるアラウディを。壊したくない。
(頭、痛い……)
 腕だけでなくズキズキと痛む頭に目を閉じる。
 楽しかった。パリに来てからの日々は本当に楽しかった。こんな俺でも笑ったり驚いたり喜んだりした。矛盾した心ではなく、今の現実に直面し生きる自分を見つけた。嬉しかった。そんな自分がまだいたことが、すごく、嬉しかったんだ。
 もっと素敵な物語を描けたらよかった。もっと夢のある絵を描けたらよかった。もっと希望の溢れる春の光みたいにやわらかいものになりたかった。
 でも、俺は所詮は闇に浸かった者でしかない。
 パリに来てからも、一枚も、きれいな絵は描けなかったな。
 それが少し、だいぶ寂しくて、笑うしかなくなる。
 せっかく抱いたこの好意も、僅かな愛も、夢見た希望も、全部殺そう。それでアラウディが生きていけるように。
「魔法みたいな力って、あると思いますか?」
「は? 何急に」
「そういうものが世界を救ったら、素敵だって思いませんか」
 俺の唐突な問いかけに車を運転しながらアラウディが顔を顰める。22世紀の科学時代に何を言ってるんだって顔だ。「霊感とか、超能力とか、そういう類のこと?」「まぁそうなるのかも」シートに背中を埋めて目を閉じる。現実主義者のアラウディが言うことなんて予想していた。そんなものあるはずない、って切って捨てるんだ。それでいい。それが確かめたかっただけだから。
「…あるとしたら、確かに、素敵だけどね」
「、」
 ぱち、と目を開けてアラウディを見上げる。車を運転する横顔はいつもと変わらない。ほぼ無表情だ。「僕には『愛の力が世界を救う』って言ってるのと大差ないよ。霊感だろうと超能力だろうと、魔法だろうと」付け足したアラウディが俺の視線に気付いてあからさまに顔を背けた。それで運転してるんだから器用なものだ。
 ……否定してほしかったな。
 嫌だな。嫌なこと聞いちゃった。最後の最後に断ち切るはずの鎖が俺の心の足を引っかけて転ばせる。足首に絡まった鎖は案外と頑丈で、蹴飛ばしただけじゃちぎれそうにない。
 これで、最後なのに。
(でも。おしまいだ)
 青信号。進めの印。ルールに従って当然車は進む。
 交差点に差し掛かる。左折しようとする。そこで、赤信号で停まっている車が突っ込んできて、ハンドルを切っても回避が間に合わず、衝突した。大型車に衝突された乗用車は衝撃の勢いに負けて回転しながら電柱に車体を突き立てるようにして止まる。
 ごほ、と咳き込んでプシューと小さくなっていくエアバックから顔を上げる。「あらうでぃ、」隣の運転席に顔を向けて目を凝らす。軽い脳震盪でも起こしてるらしく視界が安定しない。「アラウディ」「つ…」よかった、生きてる。死んでたらどうしようかと思った。
 衝突事故に巻き込まれないよう避けた車が他の車と激突したりして、辺りは軽いパニック状態だ。パー、とクラクションの音が鳴り響いている。
 ドン、と歪んだドアを蹴り開け、外に出て、運転席に回ってドアをこじ開ける。
 アラウディはブレーキを踏んでる方の足を歪んだ車体に傷つけられていた。折れてるかもしれない。歩けないだろう。救急車は、誰かが呼んでくれたろうから、俺は呼ばないね。
 コツコツと規則的な音が近付いてくる。…お別れの音だ。
 視線だけ投げると、黒いスーツにサングラスの男が俺達を取り囲んでいた。みんながみんなオールバックの黒髪に黒いスーツに同じサングラス。気味が悪いくらいにそっくりのスーツ姿に囲まれている。
 ぐ、とエアバックに手をついたアラウディが「、戻って。早く車内に」と言う、その顔につっと血が伝った。どうやら頭も打ってしまったらしい。そのせいかこの状況もしっかり認識できてないようだ。もう車は動かないし、囲まれているし、アラウディは足を怪我してていつもみたいに動けない。
 カシャン、と乾いた音と共に銃を取り出したスーツの人達に「アラウディを傷つけないでください」と声を投げて、振り返る。怖いくらいに生気も反応も薄い人達だ。まるで幽霊を前にしてるみたいに薄ら寒い。
「行きます。俺が行きます。だから、このまま、アラウディには何もしないでください」
 一言も声を発さないスーツの人達は黙ってサングラスの顔を見合わせた。銃が下ろされる。…俺のお願いは通ったみたいだ。よかった。
 何とか車内から外へ抜け出そうとしているアラウディの手を取る。細長くてきれいな指だった。
 駄目だよ、あんまり動いちゃ。無理に動いたら余計に足が傷ついて怪我が酷くなる。
、馬鹿なことは、」
「馬鹿はアラウディでしょ。よく見て。囲まれてる。アラウディは怪我をしてる。俺は戦えない。…こうしなきゃ、アラウディが死んじゃう」
 笑って、アラウディが買ってくれた携帯をその手に握らせる。俺にはもう必要のないものだから、アラウディに返すね。
 、と声を震わせるアラウディに、きれいな顔に伝う赤い色を拭って、笑う。
 楽しかった。あなたと過ごせて。嬉しかった。きれいな絵は描けないままだったけど、ジョット率いる特殊課の面々はみんな面白くて、できることなら、そこに加わりたいくらいに、何もかもが新鮮だった。
 楽しかった。嬉しかった。
 美術館巡りをして、有名な異才の画家の絵を飽きるまで眺めたね。アラウディはよく分からない顔をしてたけど、俺は本当に嬉しかったよ。色んな人の絵を見ることができて。やっぱり俺の絵なんてちっぽけなんだなぁって実感できて嬉しかった。人を殺す、俺の絵でも、なんてちっぽけなんだって思えたから。安心した。
 パリの有名所全部を回れたわけじゃないけど、いくつかをこの目で見て知ることはできた。きっと一生忘れない。アラウディの手を引っぱってあっちへこっちへ連れ回したこと。きっと一生忘れない。
 忘れないよ。俺。どんなことがあっても憶えてるよ。アラウディのこと。
 こんな俺に優しくしてくれてありがとう。手を握ってくれてありがとう。指を絡めてくれてありがとう。キスしてくれてありがとう。心配してくれてありがとう。俺のためにみんなと喧嘩してくれてありがとう。
 ありがとう。ありがとう。ありがとう。
 そして。
「さようなら」
 少し血がついてしまった月の色の髪を撫でて、見開かれた氷の色の瞳を見つめながらお別れのキスをして、笑う。じゃり、と後退るように距離を取ってアラウディが伸ばした手を避けた。本当ならその手を取りたかった。でも、それじゃ約束を破る。俺は行かなくちゃ。
「まって、っ」
 革靴の冷たい音が俺の両脇を挟んだ。「っ!」と叫ぶ声を聞きながら笑顔を作る。最後まで笑うんだと決めていたから。
「俺のことは、忘れて」
 もう二度と会うこともない。だから、俺のことは忘れて生きて。人間らしく生きて。アラウディならできるよ。せっかくきれいな顔をしてるんだから、活かさなくちゃ駄目だ。笑うんだよ。出し惜しみしちゃ駄目だ。それじゃ幸せになれないよ。幸せが逃げちゃうよ。アラウディは幸せになるべきだ。だって、生きているんだから。
 乗用車にぶつかってもビクともしなかった大型車に乗せられ、最後まで俺のことを呼んで叫ぶ声を聞きながら、目を閉じる。
 ジョット。G。コザァート。D。そして、アラウディ。
 短い間だったけど、俺を生かしてくれて、ありがとう。
 何一つ恩返しできないまま、俺は消えるけど。きっとそれが正しい選択なんだって信じてる。
(……さようなら)