アラウディへ

 俺に何かあったときのために、ここにこうして言葉を残しておきます。
 もし俺に何かあったのなら、ごめんなさい。また迷惑をかけました。
 俺がパリに来てから、アラウディは俺のことで振り回されてばかりで、大変だったと思います。
 絵ばっかり描いててごめんなさい。絵の具で部屋とバルコニーを汚してごめんなさい。
 それでも絵を描き続けることを許してくれて、ありがとうございました。
 振り返ってみて、楽しかった、と思います。嬉しかった、と思います。
 アラウディと時間を過ごせて、俺はとても満ち足りていました。
 Dと俺のことで喧嘩ばかりさせてしまって、ごめんなさい。でも、Dは本当はいい人だと思うので、もう少し歩み寄って仲良くしてあげてください。そうしたらジョットも安心するだろうから。
 Gには少しタバコを控えるよう伝えてください。身体を悪くするよ、って。それから、刺青はもう増やさない方がいいよって言ってください。あんまり増やすと警察じゃなくてマフィアみたいに見えちゃうよって。
 コザァートには、もうちょっと自信を持って仕事をしていいと思うよってアドバイスしてあげてください。なんだかイマイチ自分の行動に自信が持ててないようだから。
 ジョットには、ありがとう、と伝えてください。ジョットのおかげで俺はパリにいることができました。アラウディのそばにいることができました。感謝しています、とても。アラウディの上司がジョットでよかったって心から思います。
 一度だけみんなで飲みに行きましたね。俺はオレンジジュースだったけど、みんなでわいわいがやがやと食事ができて、とても楽しかったです。…ずっとその空気に触れていたいくらいに。俺は、あの時間を忘れないでいようと思います。

 アラウディ。
 アラウディと一緒に本場のオペラ座でオペラ座の怪人を観ました。初めてのオペラだったのでとても感激しました。とてもインスピレーションをもらいました。おかげで帰ってきてからずっと筆を握ってて、最後はいい加減にしろってアラウディに取り上げられてしまったけど。
 買ってもらったキーホルダー、ちょっと大きいけど、気に入ってます。
 エッフェル塔の展望台から見た360度のパノラマの風景は、アラウディの部屋から見下ろしたパリの街とはまた違う顔を見せていて、これも感動しました。俺も360度カンバスに囲まれて全部を塗りたくってやりたいくらいだったけど、さすがに無謀だったのでやめました。でも、それくらい感動したんですよ。
 ノートルダム大聖堂のステンドグラスがとても素敵でした。俺が描いたらなんだか地獄の鎌みたいにしかならなかったけど、あの煌きは、きっとずっと脳裏に残っていると思います。
 俺は、みんなと過ごした全てのことを、きっとずっと憶えていると思います。

 アラウディ。
 アラウディの手を引っぱってあっちこっちへ連れ回したこと。一緒に笑ったこと。一緒に見たもの。一緒に食べたもの。忘れないよ、俺。どんなことがあっても憶えているよ。アラウディのこと。
 こんな俺に優しくしてくれてありがとう。手を握ってくれてありがとう。指を絡めてくれてありがとう。キスしてくれてありがとう。心配してくれてありがとう。俺のためにみんなと喧嘩してくれてありがとう。
 ありがとう。ありがとう。ありがとう。
 そして、
 さようなら。

 ずっと、好きでした。
 
 カシャン、と手から携帯が滑り落ちた。「あ…」ぼろ、と溢れた涙であっという間に視界がぼやけて携帯が滲んで見えなくなる。嗚咽がこぼれそうになって掌で口を押さえて、それでも肩が震えた。
 床に転がったままの携帯はしばらく点灯していたけど、やがて画面はオフに切り替わり、真っ暗になる。
(なんだこれ。なんだ、これ。まるで、遺書じゃないか)
 病院で、目が覚めて、握って離さなかったというの携帯には、彼からのメッセージが残されていた。まるで遺書みたいなメモ書き。始めからこうなることを知っていたかのようなメモ書きは、僕が事務所にこもって仕事をやっつけていた間に書かれたものだ。僕の代わりにGがのことを護っていた、あの時間に、これを書いたのだ。
 左足が動かない。モルヒネのせいで痛みも感じない。頭に包帯を巻かれているけどそっちの痛みも感じない。身体はどこも痛くない。それなのに涙が溢れて止まらない。
 さようなら、の文字が心臓をずっと抉っている。
 好きでした、という過去形の告白が心臓をキリキリと締めつけている。
 どうしてこんなに苦しいんだ。どうしてこんなに哀しいんだ。どうしてこんなに、僕は。
「ふ…っ、う、うぅ」
 どれだけ口を押さえてもこもった嗚咽が響く。唇を噛み締めても涙が滲む。

 俺のことは、忘れて

 最後に笑った彼の顔が瞼の裏に焼きついている。最後に、彼の頬を一筋流れた涙を、憶えている。
 卑怯だ。ずるい。こんなのずるい。最後に好きでしたなんて文面で別れを結ぶなんて卑怯だ。俺のことは忘れてなんて言ったくせに、これじゃあ忘れられない。…忘れることなんてできないよ。無理だよ、
 今頃。今頃、好きだなんて言われたって。僕も好きだ、なんて、もう遅い。もう届かない。彼は遠いところへ行ってしまった。どこへ連れ去られたのか検討もつかない。助けたくても足が動かない。僕は君を助けられない。
 床に転がったままの携帯に手を伸ばす。…届かない。身体がうまく動かない。
 エッフェル塔のキーホルダー、オペラ座の小さな仮面、ノートルダム大聖堂のステンドグラスを象ったキーホルダーその他、賑やかな携帯は、持ち主を失ってただ沈黙している。
 君を助けに行かなくちゃいけないのに、身体が言うことをきかないよ、
…っ)
 限界まで腕を伸ばして、姿勢が崩れて、ベッドから落ちた。変な格好で肩から落ちたけどモルヒネで痛みはない。震える手を伸ばして携帯を掴む。チャラ、とキーホルダー同士がぶつかって音を立てる。震える指で画面を点灯させればの遺書みたいなメモ書きがあって、好きでした、と結ばれている。
「ぼくも、すきだった」
 震える声で言葉を吐き出した。
 …今更だ。僕は彼の好意を自分から断ったんだろう。抱いてもいいですかって僕を求めた声に無理かもって返したんじゃないか。気持ちを誤魔化した。覚悟がなかったから。曖昧に、都合よく、ふわふわした気持ちのままはっきりさせなかったから。答えが出せなかったから。
 恋なんてしたことなかったんだ。しなくたって女は鬱陶しいほど寄ってきたから。自分からそれを遠ざけていたから。初めてだったんだ。人に惹かれたのは。君が初めてだったんだよ。
 好きだったよ。好きだった。
 今も、好きだ。
 忘れろなんてひどいことを言う。人に初恋させておいて、笑って、忘れて、なんて、ひどい。ひどい。
「アラウディ!? 何してるんだ、絶対安静だぞっ」
 聞き慣れた声に視線を上げる。ぼやけた視界にジョットの姿があった。後ろから赤髪のGが舌打ちして入ってきて僕の右肩を、ジョットが左肩を持ち上げて、慌てて入ってきたコザァートが足を持って僕をベッドに戻す。泣き顔を隠すような余裕はなかった。が、とジョットのコートを掴んで「ジョット、が、ぼく、まもれなか、」「分かってる落ち着け。Dが今手を尽くして調べている。いいか、お前は今左足が折れてて動けないんだ。何よりも傷の完治が優先だ」ベッドに押し戻そうとする手を振り払う。
 そんな悠長なこと言ってる場合じゃない。このままじゃがあいつらに何を強要されるか分かったものじゃない。自由に絵を描く子なんだ。縛ったらいけないんだ。縛ったら、あの子の才能は死んでしまう。
 ベッドを抜け出そうともがく僕に、ひゅ、と平手が飛んだ。パン、と頬を叩かれて、手から転がりそうになったの携帯を胸に抱え込む。
 僕の頬を張ったのはコザァートだった。だいたいやんわりしてることが多いコザァートが眉尻をつり上げて怒りを滲ませている。
 コザァートの突然の行動にGもジョットも目を見張っていた。彼がここまで強く出ることは珍しいからだ。
「悪いけど、君が握ってる状態で携帯を調べたんだ。のメモ書きを読んだよ。…状況から見て、彼は君を生かすために行ってしまったんだ。君は、彼の行動を無駄にするつもり?」
 ぱく、と口が空振る。
 そんなつもりじゃない。僕。僕は。
「足を怪我してるんだ。君はオレ達の中で一番身体能力が高いけど、足が駄目になっていたら話にならない。君の戦力はないに等しい。それでを攫った敵地に乗り込んだとして、奪還できるとでも? 頭を冷やせ。大事な人を攫われて気持ちが動転するのは仕方ないさ。でも、彼のためにも、君は冷静になるべきだ」

 魔法みたいな力って、あると思いますか?
 は? 何急に
 そういうものが世界を救ったら、素敵だって思いませんか
 …あるとしたら、確かに、素敵だけどね。僕には『愛の力が世界を救う』って言ってるのと大差ないよ。霊感だろうと超能力だろうと、魔法だろうと

 ……最後に君と交わした何気ない会話。
 以前の僕だったら切って捨てていた非現実的なこと。この科学の時代に何を世迷い事を、と嘲っていたこと。でも、君が素敵だと笑ったから、そうだね、と肯定したこと。
 愛の力が世界を救うことができるのなら。僕の愛で、君を救うことができるだろうか。
「……、」
 病院着の袖で目元をこする。「悪かったよ。僕は、冷静じゃなかった」ぼやいた僕にコザァートがほっと息を吐く。どうやら僕より先にのメモを読んでその通り強く出てみたらしい。…なかなか効いた。
 話についてきてないジョットとGに、彼が残した携帯を突き出して渡し、ふかふかの枕に背中を埋める。
 少し、疲れたな。眠い。モルヒネのせいかもしれない。
 Dが彼の足取りを追っている。ジョット達も協力してくれる。大丈夫だ。焦るな。僕は万全の状態に戻らなくてはならない。動かない身体に気持ちばかりが募るけど、のためにも、僕は今は休まなくてはならない。
 目を閉じて、大きく呼吸する。
 浮かぶのは、最後に笑って泣いたあの顔。
(待ってて。必ず助けに行く。必ず)