ぎし、ぎし、ぎし。
 静かに響く、人の動きで軋むベッドの音。
 その日も音と重みで目を覚ました俺は、決して瞼を押し上げることはせず、跨る重みに気付かない、起きない、寝たフリで通す。そのことにとても苦労する。
 その夜もなんとか寝たフリを通して、朝、何気ない顔で起き出して、当たり前のように台所に立っている母の姿に笑いかける。「おはよう母さん」と。それでその人はこっちを振り返ってとても満足そうな顔で笑う。「おはよう」と。
 そこに父親が入ってきて「おはよう」と食卓につき、「おはようあなた」と返した母がコーヒーを用意する。
 この朝の場面だけ見れば、ウチは教科書に載るくらいにうまくいっている家族のようだ。そう、この場面だけ見れば。
 ウチは両家の事情もろもろがあって成約結婚をした家庭で、義務的に作られた子供が俺。二人の間に愛はなく、あるのは『家のためだから』という義務感だけ。
 上っ面だけ見れば絵に描いたような朗らかな家庭は、薄皮一枚めくれば、父は外に複数人の女を作っていて、母も同じように外に複数人の男を作っている、そういうどうしようもない家だった。
 そのどうしようもなさに拍車をかけているのが、母のあの夜這いだ。

「いってきます」

 逃げるために家を後にするけど、決してそうとは悟られないように母に笑顔を向ける、その顔が、引きつるようになったな、と思う。
 水没している地面を腿まであるブーツタイプの長靴で蹴飛ばしながら歩き、地球温暖化のせいで水に沈んでいく街を見るともなく眺める。
 こんな世の中だ。自分勝手に生きることも、狂ってしまうことも、同じくらいにありふれている。ウチの家庭が特別おかしいってわけじゃない。
 毎年上がっていく水位と同じだ。容赦なく突きつけられる現実に、春と秋が消えて冬と夏しかなくなった季節に、地球の変化に、現実を受け入れられずにおかしくなる人は年々増えている。
 昔はこうじゃなかっただとか、今の季節、雨の頻度がおかしいなんて、言い出したって仕方がないことだ。それで騒いでなんになる。
 最初の頃は雨の日の濡れた路面と変わらないくらいだったのに、今では長靴がないと足が濡れるような水深になったな、と思いながら足元の水を蹴飛ばして、校舎となってるビルに入り、階段で二階に上がれば、ようやく水の重苦しい足元から解放された。
 冬が終わったと思ったらもう暑くなってきていると感じる温度の中、シャツで額に滲んだ汗を拭って廊下を歩く。
 足元に常に水があるせいか、湿度はいつも高い。そのせいで余計暑く感じるのかもしれない。
 教室だとされている部屋の引き戸を開けて中に入ると、まばらに生徒の姿がある。今日は俺を入れて五人か。少ないな。

「おはよー」
「はよー。今日もあっついねぇ」
「この間まで寒かったのにな」
「ほんとにね」

 適当に挨拶をしながら、自由席の一番後ろで無表情で席についているプラチナブロンドヘアのもとへ行って「はよ」と声をかけると、薄く開いたアイスブルーの瞳が俺を見据えた。どう見ても外人。そんな外見だけど「おはよう」と言う声は流暢な日本語を話す。
 この地区は『近く生活に支障をきたすレベルまで水没する』として退避を推奨されている区域で、だから学校は臨時的にビルだし、生徒は少ないし、授業は適当だ。
 多くの人間は退避勧告のままにこの街を離れた。
 ここに留まっているのは、留まる理由がある人か、単純に引っ越す金がないか、特別な事情があるか、そんな感じ。
 いつ見てもきれいだなと思うアラウディの隣の席に防水の鞄を置いて腰を下ろして、はぁ、と脱力する。
 こんな世界になって、これまでと変わらない勉学に励んだところで、意味なんてないと。みんな気付いてる。それよりもっと大事なことがあるだろう、って思ってる。
 それでも歴史を変えるだけの度胸がなくてズルズルと続いている学校という教育の場は、ただ逃げているだけ。現実から目を背けているだけ。
 俺も、意味なんてないと思ってる派だけど。家から逃げるためにはここに逃げ込むしかなくて、今日も、退屈な授業を受けている。
 カチカチと無意味にシャーペンをノックしていると、ざあ、と窓を打つ雨の音が響いた。急な雨も最近ではよくあることだ。予報じゃ今日は雨は降らないはずだったけど。「うわ、水位上がるね。帰りどうしよ……」「俺はいつでも胴まであるし、抜かりない」ひそひそ交わされる声に胡乱げに窓の外を眺め、ガラスを叩きつけている雨粒から視線を外す。
 形ばかりの授業が終わっても雨はざあざあと音を立てて降り続いていて、二階から一階に下りて行く階段の水没具合いは朝より酷かった。「あー……」腿まである長靴ならワンチャン、なんて思ったけど、これは無理そうだ。
 銅付の長靴でもない限り、濡れるのを回避して帰るのは難しい。そう判断した生徒が残っている教室に戻ると、一番後ろの席の窓側で机に頬杖をついて雨を眺めているアラウディを見つけた。

「帰らないのか」
「君こそ」
「長靴、俺のじゃダメかな。水入る」

 ブーツタイプの長靴を指して肩を竦めると、アラウディも同じように肩を竦めた。「僕も同じ」「そっか」アラウディの隣の席に鞄を置いて窓のそばに立つ。……ちっとも止む気配はないなぁ。
 排水溝、下水道、海水その他、多くの水という水がなだれ込んで混ざり合って、とてもじゃないけど、街を沈めている水はきれいだなんて言えない。濡れるのはできれば避けたい。
 ぼやっと雨を眺めていると、ガタ、と椅子が動く音がして、俺の隣にアラウディが立った。「止まないね」「うん。困った」ざあざあと泣き続ける空を前に二人で立ち尽くす。
 アラウディとは、特別仲がいいわけでもないし、悪いわけでもない。クラスメイト。顔見知り。そんな感じ。
 アラウディはきれいな指をきれいな髪に絡ませて引っぱると、アイスブルーの切れ長の瞳でこっちを見てきた。最初こそその目と顔の良さに慣れなかったけど、今ではだいぶ見慣れたつもりだ。

はどうして退避しないんだ」
「え」
「ココ。近く水没するって言われているだろう」
「それはまぁ、家庭の事情的な……。アラウディこそ、なんで」

 首を捻った俺に、アラウディがちょっと俺を睨んだ。気がする。気のせいかもしれないけど。「約束をしてる」「約束」「叶うのを待ってる」へぇ、と返す自分の声が平たい。この街で再会を約束してる誰かがいる、とかだろうか。それを律義に守っている、と。意外だな。アラウディはそういうことは淡白そうなのに。
 授業中にひそひそと言葉を交わしていたクラスメイトの男女が「よーしじゃあ俺がお姫様抱っこで帰ってやるよ!」「はあぁ!? 絶対途中で落とすじゃんっ」「大丈夫大丈夫、任せろ!」なんて青春全開な声を交わしながら賑やかに教室を出て行った。
 もう一人は親に迎えを頼んだらしく、さっきから廊下で道路の方ばかり見ている。
 二人になった教室で、今日はもうこのままここに泊まりたいなぁ、なんて考えている俺は我ながら馬鹿だと思う。

「帰りたくないなぁ」

 独り言として口の中だけでぼやいたつもりだったけど、隣のアラウディは耳聡い。

「どうして」

 耳を撫でるのはひんやりと冷たい声で、父とも母とも違う。暑くなってきた気温だと氷を連想させる瞳も冷たい声も心地よく響く。「オトシゴロってやつ」うまく笑って誤魔化したつもりだけど、アラウディの冷たい色の瞳は俺のことをじっと見つめていて、まるで見透かされているようだ、なんて思う。
 職員室から家へと電話をかけた俺は、止まない雨を理由に『今日は学校に泊まっていく』ということにした。
 母は激しく抵抗してきたけど、他にもそういう子はいるし、先生も残ってるからと根気強く説明して、なんとか説き伏せることができた。
 ま、嘘なんだけど。
 それにしたって必死だな。笑っちゃうくらい。

「はぁ」

 ガチャン、と受話器を置いた俺の隣には腕組みしたアラウディがいる。手持ち無沙汰そうに自分の髪に指を絡めて引っぱっている。なんでか知らないけどついてきて、横で会話を聞いてた。
 もしや順番待ちで家に電話をかけたいのかな、それなら時間取っちゃったなと置いたばかりの受話器を「はい」と差し出すと緩く頭を振られる。
 電話したくていたんじゃないのか。じゃあなんでそこにいたんだ、お前。
 ざあざあという音に窓の外に視線を投げれば、外は相変わらずの大雨。窓を打つ雫が音を立てていて、泣き止みそうにない。今日は何をそんなに悲しいことがあるのかってくらいに泣き続けている。
 もしかしたらこれは、今まで人間に搾取され続けてきた地球が、もう嫌だ、と悲しんで流している涙なのかもしれない。そんなことを考えながら電話のある職員室を出て三階に上がる。
 ビルの二階が教室と職員室。三階は備品とか授業に必要なアレコレが詰め込まれた雑多な部屋が二つあって、その一つに寝泊まりすることになったときのためにと折り畳みのベッドと布団一式が壁際に寄せられていた。今夜はこれで寝るしかない。
 俺はここに泊まると決めたけど、さっきから無言のアラウディは、一体何を考えてるのか。今も無表情に教室の物を寄せてスペースを作っている。
 廊下で気持ちばかりに布団を払って埃を払い落し、戻ると、ベッドは出来上がっていた。
 ………今更だけど。ベッドは一つしかないし、布団も一つしかない。
 ということはつまり、俺はアラウディと狭いベッドで一夜を過ごすということに。なるよなぁ。

「えっと、俺床で寝よっか」

 狭いベッドに男二人とか、落ち着かないだろうし。そう思って言い出してみたんだけど、アラウディはじろりとこっちを睨むと「床でなんて眠れるわけがないだろう」と俺の申し出を一蹴した。
 いや、まぁ、俺もそうだとは思ってるんだけど。だからって二人でくっついて眠るってこともなかなかに難しいのでは。
 そんな予感を覚えつつも、帰宅が困難になった場合も想定されて廊下に設置されている自販機でスナック菓子や栄養ドリンク、ジュースを買って夕飯代わりにして、風呂なんてものはないし、することもないしと、早々にベッドに入った。
 ぎいぎいと軋んだ音を立てるベッドは頼りない。俺ら二人分の体重に無理だと叫んでいるような気がする。
 窓の外では相変わらず空が泣いていて、こもった雨の音がここまで響いている。

「……はさ」
「ん」
「小さい頃のこと、憶えてないの」

 背中合わせになっているアラウディからのぼそっとした声に首を捻る。小さい頃。「水没する前の話?」「そう」そんなこと、急に言われてもなぁ。もう十年以上前のことじゃないか……。
 手繰れるだけの記憶を手繰ってみたけど、街が水に沈んでいく光景が鮮明で、仲が良いと思っていた父と母が実はそうではないと知ったときのショックの方が鮮明で、他には何も思い出せなかった。「よくわかんないや」しばらくしてからそうぼやいた俺に、そう、とこぼしたアラウディは静かになった。もう寝ようってことなのかもしれない。
 今の会話の意味はなんだろう、なんて考えながら、窓を打つ雨の音を子守歌代わりに眠ったその夜。夢を見た。
 母が鍵をかけた俺の部屋にマスターキーを使って忍び込んで、誰かを誘惑するときに使うんだろう、布面積の少ない下着で布団を剥ぎ取り、俺の上に跨る。その手が伸びて俺のズボンを下着ごと引き下ろす。俺は、寝たフリで、頭の中にその光景を思い描いている。
 母が俺に奉仕する。口で、体で。
 否応なく反応してしまった俺のを自らの中に埋めて、熱い吐息と一緒に、ぎし、とベッドを軋ませる。
 その音が嫌いで、だから、ぎし、と耳に届いた音と伸びた手を、振り払ってしまった。
 ばし、という乾いた音にはっとして目を開けると、見慣れない高い天井と、隣で起き上がって中途半端に手を彷徨わせたアラウディがいた。
 その手を俺が振り払ったのだ、と理解するのに数秒。さっきのは夢だ、と理解するのにさらに数秒。「ごめん」布団の中でうなだれた俺は深く息を吐き出してから体を起こした。とてもじゃないけどもう一度寝ようなんて気にはなれなかった。

「……うなされていたから。起こそうと思っただけ」
「うん。ほんと、ごめん」

 所在なさげに手を引っ込めたアラウディの瞳がじっとこっちを見ている。何か言いたそうにも見えるし、何もかも知ってて黙っているような、そんなふうにも見える。
 気分を変えたくて自販機に行くと言い出した俺に、アラウディは黙ってついてきた。
 目覚ましのコーヒーのブラックを買って中身を一気に飲み干すと、少しは気持ちが楽になった。さっきのは夢。さっきのは夢。
 まだ降り続いている雨と、明かりの少ない夜の街に視線を逃がしていると、「家で何かあったんだろう」と静かな声。
 ………別に、答える義理はないけど。アラウディは口が堅そうだし。というか、俺以外と話してるの、見たことないし。アラウディになら言っても大丈夫かな。ふとそんなことを思う。
 いい加減、自分の中だけで抱えているのが辛い。
 空になった缶に視線を落として無意味に揺らしながら、「母親がさ」「うん」「三日に一回くらいの頻度かな。夜中、俺が寝てるときに、部屋にきて」「うん」「俺が寝てるのをいいことに、俺のこと」そこで言葉が途切れた。「……俺のこと、奪ってくんだ」言葉を選んで、なんとか吐き出す。
 奪う、と呟いたアラウディの声は平坦で、感情がこもっていない。その方が今はよかった。下手に同情されるより、騒がれるより。「うまくいってるように見えてたんだよ、ウチの家。だけど違った。全然、ちがった」外にパートナー以外の愛人を作り続ける父と母。必要だからと形ばかりに成した結婚、作った子供。降り続けるこの大雨みたいに、引くことのない街の水みたいに、俺の心はいつも淀んでいる。
 、と呼ぶ声にコーヒーの缶から少し視線を上げると、プラチナブロンドの髪とアイスブルーの瞳をした、いかにも外人って風貌をしたアラウディがいて、小首を傾げてこっちを見ている。

「君は、今いるその場所が苦しい。抜け出したい。そうだね」
「……うん」
「助けてほしい?」
「………できる、なら」

 伸びた手が俺の頬を撫でて、ひんやりと冷たいその温度が夏の夜には心地よく沁みて、轟いた雷鳴に、その光に照らされた顔に、きれいだなぁ、なんて思っていると、あっという間にキスされた。
 そのまま流れるように抱き締められて、缶を握り締めたまま、俺は動けなかった。
 少し顔を離したアラウディは相変わらず近い。睫毛が数えられそうなくらい。「助けてあげる。君が僕を助けたように」「……?」なんのことかわからない。今の状況も、お前の言葉も、結構、意味がわからない。
 ぬるりとした生ぬるい温度が唇を撫でる。人の舌が俺の唇を舐めている。この場合アラウディが。
 アイスブルーの瞳は逸らされることも閉ざされることもなく、ただじっと至近距離でこっちを見つめている。

(母さん以外で、上書きが、したい)

 繋がってはいけない人と繋がった。その事実を消したいと、ずっと思ってた。
 これでなくなるわけじゃない。なくなるわけじゃあないけれど。
 缶を手離してアラウディの腰に腕を回す。
 自分からキスを仕掛けてきたアラウディが俺を拒絶することはなかった。母のことを忘れたい、その一心で服を脱がせる身勝手な俺の手を払いのけることはしなかった。最後まで。
 その夜、ベッドの軋む音を嫌った俺は殺風景なビルの廊下でアラウディのことを抱いた。