「旅人さんどっから来たさね? えらい汚れとるなぁ」
「あははーすんません。まぁそれなりに遠くから。ってことで一番にお風呂いいですかね」
「そんだなぁ、ちっと待ってろよー」
 田舎の訛った言葉で話す人のいい主人が奥に引っ込んだので、俺は一息吐いて荷物を下ろした。ばたばたと外套を払う。ああ、確かにえらく汚れてる。泥と埃がこびりついてるな。いい加減全身洗いたいや。
 主人は三分で戻ってきた。「ほんなら一番湯入りな。特別だぁ」「ありがとーございます」へらっと笑って荷物を抱えて、風呂場に案内され、そこでようやく一ヶ月ぶりの入浴にありつけた。いいところに町があってラッキーだった。
「ぷはー。生き返る…」
 湯船に浸かれる幸せを実感しながら、全身くまなくきれいにした。髪も洗う。すっかり無精髭の顔に苦笑いして髭を剃り、さっぱりきれいになって主人にお礼を重ねて、宿屋の一室に落ち着いた。
 どさっとベッドに腰かけてはーと深く息を吐く。木の上で寝起きすることに慣れた身体にベッドのやわらかさは至福としか言いようがない。寝転がってしまえばすぐに寝てしまう自信があるため、身体を横たえるのを我慢して壁に立てかけた剣の鞘に触れた。柄に指を滑らせて少しだけ抜く。途端に耳元で誰かが笑った。

 ソーンベリー・カッスル

「分かってるよ。だいぶ人のいる場所に出てこれた。明日は聞き込みをしてみるつもりなんだ。三百年前から現存する建物なら、何かしら知ってる人がいるかもだし」
 ふぅん、と耳元で笑う声の主は相変わらず見えない。この刀を抜き身にしたときだけその声が聞こえる。刀身に、何かが宿っているとでもいうように。

 寒い

「え? そうかなぁ…」
 その声に首を捻った。かれこれ半年近く旅をして、分厚い外套を羽織って移動するのがそろそろ気怠いと思う季節になってきたのに、寒いとか。もっと剣に手をかけろってことだろうか…。これでもない金叩いて一冊本を買って手入れをしてるのに。
 鞘から抜いた剣を掲げる。仄暗く光っている、ような気がする。
 俺はきちんと正気だろうか。喋る剣なんて聞いたこともないぞ。父に村を出て一人でやっていけと言われたことで頭のどこかが壊れたんじゃないだろうか。実質的な別れを突然告げられて、受け止めきれずに。…いや、自分がそんな軟だったら、こんな遠くまでは来れてない、か。

 冷たい

 震えている声がそうこぼす。耳元で。自然と耳を押さえてから手を離した。やっぱり誰の温度にも触れないし誰の気配もない。それなのに声だけが聞こえる。
 そりゃあ剣は鉄だし冷たいけど…。そう思いながらそっと手を伸ばして、指を傷つけないように注意しながら刀身に触れた。「まだ寒い?」と首を捻って剣に話しかける俺は傍から見たら完全に変な人だろうなぁ。

 …あたたかい

 そう、とこぼして指を滑らせる。切らないように注意しながら。
 この剣には妖精でも宿ってるんだろうか。そんなことを思いながら剣から指を離した。カリカリと鞘に戻しながら「もう寝るよ。おやすみ」とこぼしてカチンと剣を収める。
 ベッドに転がれば眠気はすぐにやってきた。
 やわらかくてあたたかいベッド。それがあるだけでなんて至福の一時なのか。
 次の日。ぐっすり眠った俺は朝食を食べながらまずは宿屋の主人にソーンベリー・カッスルの話を聞いてみた。仕事柄旅人を出迎える主人なら知っていることも多いんじゃないかと思って。
 すると、簡単に回答が得られた。主人は考えるでもなく「あー、あのお城さね」と頷く。俺はそのあっさりとした答えにぼとっと手からパンを落とした。
「え? 知ってるんですか? 教えてください、ソーンベリー・カッスルの話っ」
 思わずテーブルに手をついて身を乗り出す。勢い込んだ俺に主人が目を丸くしながら「話ってもなぁ。特別なことは知らねぇだ。オラが知ってんのは有名なウワサ話さ」「ウワサ話…?」首を捻った俺に主人はうんうんと頷いて「そーさぁ。あすこは出るって有名だかんなぁ」と言う。
 出る? って何が? と首を捻った俺に主人は少し声を潜めて周りを気にするふうな仕種をしたあとにこう言った。
「ユーレイってやつだべ」
「ユーレイ…?」
「そうだぁ。ソーンベリー・カッスルにはそれは美しい幽霊が取り憑いてるって話だぁ。おかげさんで城にはいつく人間がおらんくてなぁ、今は荒れ放題なんだぁ」
「…いつく人がいないって、なんで。その幽霊って悪いことでもするんですか…?」
「んだなぁ。たとえばー、城に住んだ城主さんが子に恵まれなかったりー、不運な事故に巻き込まれたりぃ、色々だぁ。姿を見た人間もいりゃ、声だけを聞いたって人もいてなぁ。んで、幽霊が取り憑いてるから不幸になるんじゃ、となぁ。今じゃ観光客がたまーに行くくらいじゃけ」
 テーブルに落としたパンを掴んでむぐと口に押し込んだ。「そこ、こっから遠いです?」「まだかかるべな。兄ちゃん、地図さ持ってくか?」「え、いいんですか?」「観光地図だかんなぁ、持ってけ持ってけ」人のいい主人が地図を取りに戻ってる間、がつがつと朝食を平らげた。「これだぁ」と観光地図をくれた主人に何度もお礼を言って、一晩を過ごした宿を出る。
 ソーンベリー・カッスル。美しい幽霊が取り憑いた城。そこへ行くことを促している剣の声の持ち主は、もしかしたら、その幽霊自身かもしれない。
 いや。だからなんだって話でもない。俺は旅の目的をソーンベリー・カッスルととりあえず定めただけで、うん、それだけなんだ。そこからどうしようかはまだ考えていない。だから…その城に行ってから考える、っていうのでも遅くはないだろう。
 俺の祖先がかつて住んでいたというブリストルに入り、近郊に建てられたのだというソーンベリー・カッスル目指してひたすら歩く。
 キン、と少しだけ鞘から剣を抜いた。途端にあの声が耳を撫でた。

 もうすぐ

「そうだな…もうすぐ」
 もうすぐ、とこぼした声にそんなことを返しながら大股で歩みを進める。
 馬車が余裕で通れるだろう道幅に、敷かれて久しいのだろう色合せとヒビ割れが目立つ煉瓦の歩道。左右には手入れの届いていない木々が鬱蒼としていて、この辺りは人の手が入ってないのだろうと予想させる。
 行って、何があるわけでもない。遠い昔自分の祖先達がこの辺りを我が物顔で歩いていたのだろうって想像したって何も得にはならない。今向かっている城に幽霊が待っていたとして、それで、自分の何かになるとも思わない。
 ただ、胸が騒ぐような予感がある。
 俺をここまで突き動かした情熱のような。胸の奥に灯っている炎。それが、ソーンベリー・カッスルへ行けと言っている。剣の声に促されたことがきっかけではあったけど、俺は今自分からそれを望んでいる。
 そこへ行け。とにかく行くんだ。そうしたらきっと何かが。
 緩い坂道をざくざくと歩く。歩いて歩いて、最後には走って坂道の頂上を目指した。気持ちが急いていた。緩やかに穏やかに暮らせればそれでいい、そう思っていた俺はどこへ行ったのか。
 ざっ、と土を踏んで坂道の頂上に立つ。はー、はー、と肩で息をしながら、まっすぐ伸びる道の向こうにひっそりと佇んでいる石造りの建物を見つけた。
 あれが。ソーンベリー・カッスル。俺が、目指してきたもの。
 坂道を駆け下りた。途中で何度か転びそうになったけど耐えた。早く、と胸が騒いでいた。
 しっかりと閉まっていた頑丈そうな門がギギギと独りでに開く、その間に滑り込んだ。敷地に一歩踏み込んだ俺。その俺にするりと絡まった女物のワンピースの袖がふわりと視界を踊る。
 え、と驚いて視線を上げると、きれいな顔があった。薄く透けている笑顔が儚く綻んでいる。
 その顔を見て唐突に愛しさがこみ上げた。
 きっとこれが店主が言ってた幽霊だ。確かにとてもきれいだ。美しいって表現が似合ってるほどには目を奪われる。けれどそれを圧倒するほどのこの切なさはなんだろう。
『やっと、来てくれたね』
 そうこぼして、天使は泣きそうになりながら俺にキスをした。