生憎の曇り空だったその日、寒さが身に沁みる僕は、暖炉を焚いた自室にこもっていた。少しでも見聞を広めようと始めた勉強がそれなりに好調で、これなら一ヶ月あれば簡単な本くらい読めるようになるな、とほっとする。取り組んだかいがあったな。よかった。これで少しは彼の隣に立っても様になるように。
 そう思った自分にはっとしてペンで綴っていた文字が止まった。
 まただ。また無意識のうちに僕は彼といる未来を想定している。そんな未来、来るはずないのに。
 でも、もしかしたら。たとえ色子のままでも、妻を持った彼のそばに、それでも、いられるのなら。その優しさと笑顔の一片でももらえるのなら。そんなことを思って彼に縋っている自分が我ながら女々しくて仕方がない。
 弱い身体を持った自分が嫌いだ。弱い心を持ってしまった、こんな自分も、嫌いだ。
 僕はいつ捨てられたっておかしくない身なんだ。女として振舞ってはいるけど、男だとバレたとき、どんなことになるか。彼はどうなるのか。そう考えるだけでぶるりと身体が震えた。ペンを手放して暖炉の前に行く。それでもまだ寒い。
 パチンと爆ぜる炎を見つめて腕をさする。それでもまだ寒い。
 彼の腕に抱かれて、目を閉じて、キスをしたい。それだけであたたかくなれるのに。
 …でも、あの人は、いずれ僕から離れていくだろう。それがあるべき姿だから。
 僕に背を向けて歩いて行くスーツの背中が見えてぎゅっと目を瞑った。カチカチと歯の根が鳴る。寒い。さむい。
「嫌だ…離れたくない……」
 ガチガチ震えながら寒い腕をさすり、愚かな願いを口にした。それで現実が遠ざかってくれるわけでもないのに、花と蔦の描かれた絨毯に膝をついてしきりに腕をさする。寒い。どうしてこんなに寒いんだ。火を焚いているし、部屋はあたたかいはずなのに。
 彼は、今日、良家のお嬢様とお見合いをしている。女遊びばかりの彼の父親がいい加減相手を決めなさいと勝手にその場をセッティングしたのだ。断りようがなかった。
 彼は面倒くさそうにしながらも父親の望むとおりにした。きちっとした格好は好きじゃないといつもスーツを着崩している彼が正装をして、来客の間で、今頃。
 ぺたんと絨毯の上に座り込んで寒い身体を自分の腕で抱き込む。
(お見合いの場なんて飛び出して今すぐここに来てほしい。会ったこともない女よりも僕を選んでほしい。男だけど、女にだってなれる。その腕に抱かれるためならいくらだって女になる。だから)
 寒い、寒い、とガチガチ震えながら暖炉の前でどのくらい蹲っていたのか。「アラウディっ!?」と彼の声が聞こえたことで意識が醒めた。だけど動けなかった。長いことこの姿勢でいたのか、身体が固まっていた。
 慌てた足音が僕の隣で膝をつく。「アラウディしっかりしろ、アラウディっ」ゆっくりと抱き起こされて、正装のままの彼の腕に頭を預ける。「アラウディ? 俺が分かるか? アラウディ」と頬を叩く泣きそうな彼を眺めて「」と掠れた声で呼べば、ほっと息を吐いた彼がくしゃりと表情を歪めた。安堵と、何かで。
「何してんだよもう。心臓止まるかと」
「…、」
 ふ、と笑う。「ぼくが、きみのしんぞう、とめられるの?」引きつる唇で笑うと、彼はぎゅっと僕を抱き締めた。遠慮がなかった。苦しいくらいの抱擁。「止まるよ。お前がいなくなったら止まる。止める」止める、と言った彼に、ほろりと目尻から涙がこぼれた。
 ああ、僕、のことがすごく好きなんだな。自分でもどうしようもないくらいに。
 ……たとえこの場だけの嘘でもいい。それでもいい。いいから。
 ぎこちない腕を伸ばして彼のことを抱き締めて、キスをした。
 苦しくてもいい。痛くてもいい。それでもいいから、そうしてくれていいから、今この場で抱いてほしかった。
 震える手を伸ばしてネクタイを解く。ぷち、とジャケットのボタンを外した僕にようやく顔を上げた彼に言う。「だいて」と、震える声で。当然彼はいい顔をしない。「だけどお前、体調が」「おねがい、だいて。おねがい」おねがい、と掠れた声で懇願しながらシャツに手をかけたけど、腕から力が抜けた。ぱし、と僕の手を取った彼がぐっと唇を噛んでから僕を抱き上げ、ベッドへと運ぶ。今日も今日で女の格好をしている僕の首筋にキスをしながらジャケットを落としてシャツのボタンを乱暴に外していく。
「断ったからな」
「え?」
「今日の話。俺が大変に間抜けな人間だってことを披露して相手方に呆れてもらった。俺もあちらもお断り。この話は折れたよ」
 背中に伸びた手がドレスのホックを外してチャックを下げていく。
 ジー、という音を聞きながらほっと息を吐いた自分はひどくずるい人間だった。彼が僕の体調の悪化に振り回されることにほっとしながら、今日のお見合い話を棒に振ってくれたことにほっとしながら、彼の手の温度に安堵している。労るように背中を撫でる手と、スカートをたくし上げた手の両方を感じながら、目尻を伝った涙を思う。

 数年前のことだ。汚いものにまみれて道端に転がっていた僕を拾ったその手は今と変わらずあたたかかった。
 汚れた僕を拾ったきれいな手の持ち主は、汚れた僕をきれいに着飾らせ、いくつかの決め事をして、それさえ守れば僕に衣食住を約束すると言った。
 諦めていた生を拾い上げられた。女装はしなきゃならないけど、個室はもらえるし、おいしいものも甘いものも食べられれば、お風呂だって入れる、この待遇を蹴る理由がなかった。ツイてない人生だと思っていた。だけど最後の最後に神様は僕にチャンスをくれたのだ。チャンスは活かすものだ。僕は、まだ死にたくない。
 何でもやった。女装は当たり前で、女の仕種や動作も憶えて、自分は女だと思うようにした。人前で喋る回数をなるべく減らし、口を開くにしても不自然でない裏声での対応を心がけた。メイドの中に僕が男だと看破した者はいない。それくらい、僕は様になる女を見せていた。
 彼はよく僕の世話をしにきた。これが似合うと思ったんだとドレスを買ってくることもあれば、僕のためにコスメセットを揃えたりして、これで肌の心配はいらないねと笑ったり、アフタヌーンティーに誘っては甘いものを食べさせてくれたり、これが足りないと言えば何でも用意してくれた。…優しかった。僕が道端に転がっていた、その程度の身分の人間であると理解していながら、決して疎かに扱ったりしなかった。
 最初は生きるために彼に取り入るつもりでいた。媚びて諂って阿て何でもしようと思っていた。
 だけどいつからか、いや、僕はすぐに、人生の中で一番優しくしてくれた彼という人を好きになっていた。
 最初にキスされたとき。そのあと胸のリボンを解いた手も、首筋に埋まった唇も、肌を舐める舌も、嫌いになれなかった。
 生きるために手段は選ばないと決めていた。男に抱かれることくらいと思っていた。
 それが今はこんなにも。

「ん…ッ、ん、ン」
 ぎ、ぎ、とベッドが軋む音がする。
 どこにも力が入らない身体で枕に顔を押しつけ続けた。そうしないと声が溢れそうだった。
 震える呼吸を繰り返しながら僕を揺さぶる彼を感じた。その熱を。荒々しくも優しい行為を。
 夢じゃない、現実だ、とこの今を自分の中に刻む。
 伝えなければ。僕は、ずっと黙っていたことを、彼に。に。
 僕は後悔したくない。彼を誰にも渡したくない。本当はずっとそう思っていたんだ。好きになってしまったそのときから、その笑顔が、その優しさが、僕だけのものになればいいのにって、そう思っていた。
 お見合いなんてしてほしくない。誰とも結婚してほしくない。叶わないわがままだと分かっている。貴族の嫡男になんて馬鹿みたいなことを望んでいるのかって分かってる。
 それでも、この願いは止まらない。

「ん」
「ぼ、くは」
 ぎし、とベッドの軋む音が止まる。代わりに痛いくらい反応している前を弄られた。ふ、と息をこぼして涙で霞む視界を凝らして彼を見つめた。
「ぼく、は、きみが、すきだ」
 細く途切れた言葉で伝えると、彼は目を丸くして手を止めた。遅れて先端を指で擦られて「アっ」と声を上げてしまう。
(我慢できなくなる。そんなにしないで)
 どうにか首を振る。「や、だめ」と伝えたのに、先を擦る指は止まらない。規則的に、確実に、僕の快感を抉って追い詰める。「ら、め…ッ、イっちゃ、」じゅ、と指の腹で擦られて腰が跳ねた。「イケば」と耳元で囁かれて胸の突起を舌ともう片手で弄ばれ、耐え切れず、ベッドを汚した。休む暇もなく突き込まれてヒクンと腰が跳ねる。そこだけ別の生き物みたいに、ぐったりしている僕の身体を無視して快楽に反応する。
「あぁ、ア…っ、ゃ、、ぁッ」
「俺もさ、アラウディのこと好きだ」
「、」
 瞬間、ぐいと根本で押し込まれた。塞ぐことを忘れた口から嬌声が上がる。そのままどんどん深くまで抉ってくる彼にくらくらと頭が快楽で揺れていた。もう身体はどこも動かない。快感で刺激される神経が意思とは別に腰をヒクつかせるだけで、あとはどこも動かない。
(好き…? も、僕が、好き?)
 そんな、都合のいい現実、あるはずが。
 腰の前、身体の中の奥の方を彼の熱い先端が擦った。目の前が白むほどの強い快感にビクンと身体が跳ねて背中が弓なりに反る。
「あッ、アあ…っ! は、ぁ」
 弾けた身体がベッドに沈んで、快楽以外で涙をこぼしている僕に、彼が笑った。幸せそうな顔だった。
「好きだアラウディ。ずっと好きだった。一目惚れだったよ。だから連れ帰ってきたんだ」
 は、と胸を上下させながら必死に息を繰り返す。
 あんなに汚れていた僕に一目惚れ? 全く、なんて目が悪いんだろう、君は。見る目がないよ。おかげで僕はこんなに生き延びたけれど。おかげでこんなに、胸が苦しくなるくらいに、身体がおかしくなるくらいに君を求めて、恋をして、こんなに。こんなに。切ないくらいに、君を求める生き物に成り果ててしまった。
 ぐす、と鼻を鳴らす僕に口付けた彼の睫毛を眺めているうちに、体力の限界が訪れ、意識が曖昧になる。
 恋をしていた。本気だった。僕には君しかいない、そうやって全部を投げ出せるほど本気の愛だった。
 だけど時代は僕らの愛を許さないし、赦すこともない。そんなことは分かっていたはずだった。
 甘かったのだろう。僕はこんなにが好きで、も僕が好きだと言ってくれた。何度も身体を重ねた。キスをした。手を繋いだ。愛を紡いだ。だからきっと大丈夫と、確かな愛に甘えて、きちんと現実を見なかった。
 彼はこのソーンベリー・カッスルを継ぐ次期公爵で、次期当主で、妻となる身分相応の女と世継ぎの男児が必要になる。
 分かっていた現実。分かっている現実。それを遠ざけたくてに甘えた。彼は優しかった。だから甘えた。いつまでも僕だけの人でいてほしかった。そんなこと無理だと分かっていた。だけど彼は優しいから、俺はお前しか選ばないよと、お見合い話を持ってくる父親と対立しても僕の手を握り続けた。
 たとえそれでどんな仕打ちを受けても、どんな小言を言われても、彼は僕だけを抱き締め続けた。
 決して結ばれることのない愛。決して祝福されることのない愛。
 それでもいいと僕は言った。
 ならそれでいいじゃんか、と君も笑った。

 そして、
 悲劇は巡ってくる。