プラチナブロンドの髪とアイスブルーの瞳を持つ相手が幽霊だと思ったのは、地に足がついておらず常にふわふわと浮遊していたのと、その背中に翼がなかったから。もしその背に白い翼を背負っていたなら俺はそれを幽霊ではなく天使と呼んでいただろう。
 首に腕を回したままひっついている幽霊は俺が移動してもそのままくっついてきたので、くっつかれたまま荒れ果てた敷地内を見回し、蔦と草で覆われた城目指して歩き始めた。
「あれがソーンベリー・カッスル?」
『そう』
「敷地内も、随分荒れてる。っていうか大自然になりつつある…人住んでないの?」
『誰もいない。僕が許さなかったから、最後にはみんな出て行った』
「…僕?」
 その主語に首を捻った。ふわりと宙を舞って離れた相手は上から下までどう見ても女の子だ。首に纏わりついた動作も、ふわふわしてる髪を押さえる仕種も、キスするときのやわらかな微笑みさえ女の子のものだった。なのになんで僕?
 疑問に首を捻った俺に相手は薄く笑った。『僕が女に見えてるの?』「…違うの?」『違うよ』くすくすと笑った声は剣を抜いたときに聞こえたあの笑い声だ。耳の奥の方をくすぐる声。『触れたら早いのにね』と言いながら背中側に手を回す姿を眺めて、何してんだろ、と思ったときに音も立てずにワンピースがずり落ちた。えっと慌てる俺の前でワンピースが放り投げられ、空気に溶けて消える。
『ちゃんと見てよ。女じゃない』
「え…えー」
 いや、たとえそうだとしてもどうなんだいきなり脱ぐとか? いや、男ならそれでも問題ないのか? いやしかし、と胸の内で意味のない攻防をしながらそろりと視線をやって、裸足の足元からそろそろと視線を上げていく。
 細い二本の脚がある。足の付け根には、俺と同じものがある。ああうん男だ。それはよく分かった、とつつつと視線を上げていく。細い肢体。薄くて平たい胸。男だとしても、少し、筋肉とか足りないものが多いような。華奢すぎる。
 ぱち、とアイスブルーの瞳と目が合った。ふわりと笑う表情は女の子にしか見えない。『男だったろう』「そう、だな。それは分かったから着てくれ。目に悪い」顔を逸らす俺に笑った声が言う。『どうして? 服なんて意味ない。僕はもう寒くも暑くもないんだ』剥き出しの細い腕が俺の首筋に絡まってくる。その細い指が服の中に滑り込んだとしても感覚はない。それが、寂しい。
「暑くも寒くもないってのは、嘘だろ。俺にさんざん寒い冷たいって言ってたじゃないか」
『それは…温度じゃなくて。ただ、心が』
 こころ、と阿呆みたいに返して足を止める。ふわりと浮かび上がった相手が裸のままだったから「とりあえず着て、頼むから着て」と手を合わせて懇願。が、ぷいと顔を背けられて裸のまんま幽霊は音もなく移動して屋敷の方に消えていった。
 置いていかれて立ち尽くし、チン、と剣を鞘から抜く。「なぁ、服着ろってば」『うるさい』さっきまで耳を撫でていた声がした。さっきの幽霊と剣の声は同一人物なのだということを確認し、緑に覆われつつある石の城を見上げる。
 …探せばいいのか? なんで。かくれんぼか? っていうか真面目に服を着てほしい。他の人間に見られたらどうするんだ。いや、幽霊だし触れないわけだからどうにもできないんだけど、なんていうの、俺が嫌…みたいな?
 いや、なんで。自分にツッコミつつ諦めて歩き出し、チン、と剣を収めた。
 俺の祖先がかつて住んでいたという城。今はそのほとんどが蔦と緑の葉に覆われて自然の中に埋もれつつある。窓も壁も、扉があったとしても、これじゃあ見つけられるはずもない。
「おーい。…どっから入るんだよこれ」
 途方に暮れてぼやいた俺の耳に、ガチン、と金属音が響いた。そっちに顔を向ける。緑の壁の中からギギギと音を立てて開いた長方形の扉が見えて、あっちが入り口ってことか、と疑いもせずにブーツの先を向ける。
 蔦と葉に覆われた扉からひょこりと中を覗けば、まだ名前も知らないきれいな幽霊が黒ずんだ絨毯の上に立っていた。だから、服を着ろ。
 古く錆びて埃を被った甲冑に出迎えられつつ、そっと絨毯を踏みつける。埃っぽくてカビっぽい色をしていた。さすが、人の手が入ってないだけあって、どこもかしこも埃っぽくて、湿っぽいな。
 ガコン、と背中側で閉まった扉に目を向けてから視線を戻す。「なぁ、服着てよ。お前の裸誰かに見せたくない」何とか全裸をやめてくれと言う俺に、幽霊がちらりと視線を投げてきた。それからどこからともなくさっき着ていたワンピースを取り出して『仕方ないなぁ』とぼやいてもそもそ被って着始める。
 ほっと胸を撫で下ろしつつ、左右に通路に目を向けて、目の前の扉を見やる。こんな広い家に入ったのは初めてだから何がなんだか。
 ワンピースのチャックを閉めた幽霊がくるりとこっちを振り返る。そうしてると、やっぱ女の子にしか見えない。後ろ手を組んでこっちを覗き込む仕種とか完全女の子。っていうか、俺の知ってる村の女子よりずっとかわいい。
『懐かしい?』
「え? いや、俺は……」
 だって来たの初めてだし、と思ったけど、じっとこっちを見つめるアイスブルーの瞳に言葉を呑み込んだ。「よく、分からない」『ふぅん…』若干残念そうにそうこぼしたので何となく慌てて「あ、そういや名前は? 俺は」『だろ』「あれ? なんで知って」『…知ってるよ。当たり前だろ。ずっと待ってたんだから』切なそうに揺れた瞳にうっと一歩引く。ついさっき男だって確認したばっかりなのになんでこうグッときてんだろ。
 ぷいっと顔を逸らした幽霊がワンピースの裾をふわふわさせながら歩いて行く。「あ、ちょっと待って」慌てて追いかけるとバキリと音がして反射で飛び退った。パラパラという音は絨毯の下の床板からきてるらしく、気をつけて踏まないと足を取られる。相当傷んでるなこれは。
 くるりとこっちを振り返ってふわふわ後ろ向きに進みながら『アラウディ』とこぼした声に視線を上げる。「え、何?」『アラウディ。僕の名前』「アラウディ?」『そう』もう一回呼んで、と囁いた声に振り返るとアラウディのきれいな顔があってビビった。ばっと前方に顔を向ければ誰もいない。さっきまであそこにいたのに。『何驚いてるの?』くすくすと耳元で笑う声に「いや」と言葉を濁しつつ肩に触れている手にそっと指を重ねた。当然、アラウディの手をすり抜けて自分の肩に触れるだけで、ぬくもりも感触もない。
「アラウディ」
『もう一回』
「アラウディ」
『もう一回』
「アラウディ」
『…うん』
 、と耳をくすぐる声を聞きながら、廃墟となりつつある居城の中で、アラウディという幽霊を背中にしながら立ち尽くしていた。
 朽ちていく城。そこに住む幽霊。この城に住もうとする人間を追い出し続けた幽霊は今、俺を抱き締めて離さない。
 ずっと待ってた。アラウディはそう言った。
 ずっと。その言葉にひどく重みがある気がして、、と呼ばれる度にアラウディと幽霊の名をこぼす。
(アラウディ……アラウディ。アラウディ。アラウディ、アラウディ、アラウディ)
 アラウディ、と唇がその名を紡ぐ度に何かが喉元まで出かかる。引っかかって上手く出てこない。
 なんだ。なんなんだ。俺はここへ来たのも初めてならアラウディに会ったのも初めてだ。剣を通して声を聞いてたとはいえそれだけだ。とりあえずの旅の目的地をここに定めて声に導かれるままここへ。ソーンベリー・カッスルへ。
 なのになんで。俺は泣いてるんだろう。
 格好悪い、と腕で顔を覆う。
 なんで泣いてんだよ俺。涙止まれ。意味分からん。こんなのアラウディに引かれる。
 涙止まれ、と願うのに、熱い目元は一向に落ち着く気配を見せず、呆れて離れていったろうかと薄目を開けて窺うと、ふわふわしてるワンピースの袖が見えた。アラウディはそばにいる。いてくれるんだ。…なら、気がすむまで泣いても、いいかな。
『ここ。上がったところが僕の部屋』
 すっと細い手で石の螺旋階段を指すアラウディを追いかけて陥没した床をひょいと跨ぐ。城の住人がメインで使うだろうラウンジや食堂、客間を通り過ぎ、使用人などが使うんだろう狭くて細い通路を床や天井に気を配りながら歩く。
 進めば進むほど、建物の腐食や壁のヒビ割れ、床の軋みが酷くなっていく。
「こっち? こっちって、今通ってきた感じからすると、使用人の部屋とか倉庫とか、そういう位置にならないか? 端すぎるっていうか…」
『そうだよ。特別に用意してもらったんだ。僕は色子だったから』
 ギギとまずい音のした床から足を離して別の場所を踏んだ。見えた石の階段。ひどく欠けたりヒビが入ったりしている階段の感触を確かめつつちらりと視線だけで窺う。色子。男なのに女の子の格好がよく似合う理由って、それか。なるほど、納得した。うん、これだけきれいなら俺だって気が迷うことも…いやいや。ないない。それはない。
 さっき裸体を見てしまっただけに艶かしく想像できたことを頭から振り払う。そんな俺を知ってか知らずか、ふわふわとスカートを揺らして前を行くアラウディの表情は見えない。
『君は、誰か抱いた?』
「はっ?」
 素っ頓狂な声を上げた俺を振り返ったアラウディが笑った。『その様子じゃ聞くまでもないね』と上機嫌な相手に唇を尖らせる。
 そりゃあ。あれだけ狭い村だったし、隠れてお付き合いとか無謀もいいところだし、付き合うなら付き合うで村公認とならなきゃやることもやれないというか。そういう感じだったから。残念なことに経験とか皆無ですけどね。なんでお前がそのことでそんなに機嫌よくなるのか分からん。
 かつ、こつ、と順番に階段を上がりながら、ボロリと欠けている部分を避けて通り、螺旋階段をゆっくりと上がってアラウディの言う部屋に辿り着いた。カチ、と鍵の外れる音がしてギィと勝手に扉が開く。ふわふわ中に入っていったアラウディを追って大した心構えもせずにそっと扉を押して一歩踏み込み、息が詰まった。
 腐臭がする。何かの腐ったにおいが部屋中にこびりついて甘ったるい香りを漂わせている。
 果物や野菜が腐ったにおいじゃない。これは。生き物が死んだにおいだ。
『これが、僕だ』
 ゆるりとした動作でベッドの脇に佇んで寝台の上を指したアラウディ。
 鼻の奥を突いてくる甘ったるい腐臭に耐えながら一歩二歩と踏み出す。
 部屋に鎮座している天蓋付きの花柄のベッド。その上に横たわっているのは、ボロ布を纏った骨だ。肉はすでにない。白骨化している。肉が溶けベッドの布と同化してかなりの日がたっている。一年二年、十年ものでもない。多分、もっと。
 それに、この絨毯。部分的に黒ずんでいて柄が見えなくなっている。踏めばパリと乾いた音がするところを見るに、これ、多分血だ。
『今から三百年ほど前の話だ。僕は、その剣に貫かれて死んだ』
「、」
 ひやりと背中を撫でた声にぎこちなく腰に帯びている剣に視線をやる。また瞬間移動したアラウディの手が青い鞘を撫でている。
『あの頃は、同性愛なんて許されない時代だった。罪だったんだ。だから僕は女の格好をして女のように振舞っていた。それでようやく色子としてそばにいられた。それが、僕が男だとバレて、逆上した彼の父親に殺されたんだ』
「殺された…」
『そう。殺された』
 淡々と繰り返したアラウディがふわりと俺の前に舞い降りる。天使のように。背中に翼はないけれど、絵に描いた天使のように微笑んでいた。『きっとまだ生きられたけど。仕方がないね。城主の嫡男を奪った男だ。親にとっては許しがたかったんだろう』仕方がないと笑うアラウディの肩を掴もうとしてするりとすり抜けた。勢いのままベッドに手をついて、ぎぎぃ、と軋んだ悲鳴とカタカタと鳴る骨の音にぐっと奥歯を噛み締める。
「俺は、お前を殺した奴を許せない」
 白骨化して久しい骨は触れたら崩れてしまいそうで、とても手を伸ばせなかった。それがかつてアラウディの体温と形を持ってこの世に存在していた。そう思うだけで胸が熱くなるのに、触ったら、消えてしまいそうで。
 すでに鼻を麻痺させつつある腐った甘い香りと、十字架の形をした窓しかない暗い部屋で、アラウディの霊の姿だけが淡くほんのりと浮かび上がっている。
『…僕は、殺されても仕方のない生き方をしていたのに?』
 寂しそうな声だった。ぐっと拳を握って熱い目頭を拭って顔を向ける。アラウディはぼんやりしたと俺を見つめていた。
「それでも。俺は、お前が殺されることなんて認めない。望まない」
『…………』
 ふわ、と浮かび上がったアラウディが俺に抱きついてきた。泣きそうなくらいくしゃくしゃに歪めた顔。抱き締めたくて腕を回したけど抱き締められなくて、息が苦しくなる。
『僕だって、死にたくなかった。死にたくなかった…。だけど、刺されたんだ。背中側からね、剣が、お腹を突き破ってね。熱くて、痛くて。血が。止まらなくて。もう、無理だって』
「アラウディ」
『君が、最後まで抱き締めててくれたから。怖くはなかったけど』
(…俺……?)
 泣きそうなのに泣かないアラウディを抱き締められないまま、腐臭の中、ぼんやりとした意識で部屋を眺める。
 花柄の天蓋付きのベッド。大きなクローゼットと暖炉。朽ちて崩れている鏡台と机の残骸。虫食いだらけになっているソファ。
 俺は、
 ここを、
 知っている。
 そうだ。俺はアラウディを知っている。
 緑の芝のある場所で。よく午後のお茶を楽しんだ。特に甘いものを好むアラウディのためにメイドに甘味を充実させるよう指示した。アラウディのふわふわしたワンピース姿と甘いものはよく似合っていたから、見ていてとても心が和んだ。
 初めてキスをした。街の外れでアラウディを拾ってから一週間後のことだ。
 栄養が足りてないことを証明するようなカサついた唇はアフタヌーンティーの味がした。
 アラウディは拒まなかった。俺の色子として生きる覚悟を決めていたのだろう。キスしても触っても動じなかったし、嫌だと言うことは最後までなかった。
 俺は女を抱けない。父が女を転がす姿を見過ぎたせいだ。
 母親は小さい頃に死んでそれきりで、主にメイド長に育てられてきた俺は、新しい女が来て父の息子である俺に挨拶する度に逃げ出した。何度も新しい女がやってきて我が物顔で俺に挨拶をする。その女はすぐにいなくなる。また新しい女がやってくる。またいなくなる。そしてまたやってくる。その繰り返し。女なんてそんなものだ。地位と権力のある父に媚びを売る生き物。
 それが嫌いで、アラウディに手を出した。
 アラウディはきれいな顔だった。中性的、とでも言おうか。欠点としては痩せすぎていることと病弱なことだけど、痩せているのは程よく栄養のある食事を与えれば改善されるだろう。病弱は、程度にもよる。とりあえずは気遣いつつ様子を見よう。
 そう決めた最初の頃は、アラウディのきれいな顔が切なそうに喘いで鳴く姿が好きだった。
 初めての性行為だ。男子としては気がすむまでヤりたいところだったけど、アラウディは体力はないし、身体も弱いし、それなりにしかできない。無理をすれば咳き込んで止まらなくなる。今にも折れそうな細い身体が本当に折れてしまいそうで、怖くなって、アラウディに無理はさせないと自分の中で誓って性欲を押し込めた。
 貴族が遊ぶことなんてどこにでもある話だ。ただ、男色は色々とマズい。世間体的にも。
 それを知っていた俺は、アラウディが男だとバレないようにワンピースやドレスばかりを着せた。薄い胸も胸元を大きなリボンやふわふわのレース、カーディガンやボレロで覆ってしまえばパッと見には分からなくなる。アラウディはきれいな顔立ちをしているから余計だ。
 これで問題ない、と胸元で大きなリボンを作って手を離すと、アラウディの視線が俯いていて、頬が少しだけ赤いことに気がついた。
 その姿が様になるようにと女らしい仕種や動作を教えて、それを会得したアラウディに、伏し目がちに俺を窺うあいつに、視線と意識を奪われるようになっていた。
 栄養が足りずにパサついている白い肌のために貴族の女の子の間で話題のコスメセットを買ってきた。
 照れくさそうに鏡台にそれを置いて使い始めたアラウディがまた一歩女の子に近づいた。それでもスカートの中に手を入れれば俺と同じものがついている肢体があって、ん、と鼻にかかった甘い声をこぼすアラウディがいた。
 街で見かけた最新トレンドのハットとドレスがかわいくて、これアラウディが着たら似合うだろうなぁと悶々としながら店の前で小一時間ほど悩み、これで今月はパアだな、と覚悟してガードマンの立つ有名ブランドの店でドレスとハットを購入。屋敷に飛んで帰ってアラウディの部屋に押しかけてさっそく着替えさせた。戸惑うアラウディに紫がメインで色んな色の糸が使われている生地のドレスを着せ、たっぷりとフリルが使われている胸元で赤いリボンを結ぶ。プラチナブロンドの髪に小さな小洒落たハットをピンで固定する。
 一歩二歩と離れてドレスとアラウディの全体像を眺め、よく似合ってると言った俺に、アラウディはそっぽを向いて顔を隠した。
 せっかく着替えたんだからとメイド達に自慢するようにアラウディを連れて歩いて、あいつ、すごく困ってたよな。色子でしかない自分を自慢気に連れ歩くなんてどうかしてるってあとで怒られたっけ。
 でも、お前は知らないかもしれないけど、使用人達はお前を歓迎してたよ。ようやく俺が異性に興味を持ったって。まぁ、ほんとは同性なわけだけどさ。
 …ああ、そうだ。よく憶えてる。出会ったときから最後のあのときまで、よく、憶えてる。どうして今まで忘れていたんだろう。あんなに愛して愛されたのに。
?』
 意識を今に戻す。アラウディがそこにいた。ふわふわと浮いている。着ているのはあのときと同じ簡単なワンピースだ。親父に呼び出されて、めんどくせって思いながら気怠くベッドから抜け出した、あのときは夏だったっけ。アラウディが着てるの、夏の寝間着だよな。
 記憶の糸を手繰り寄せる。三百年前の赤い糸。血の色をした赤い糸が俺とアラウディの小指を繋いでいる。
 …ああ、そうだ。夏だった。喉が焼けるような、むせ返るような血のにおいを、憶えている。
「嘘、吐いたな。三百年も待たせるなんて最低だ…男失格だよ」
 はぁ、と自分に落胆した溜息をこぼして、ベッドの上にある白い骨を眺める。
 あのあとここに運んで寝かせたんだ。そのときの形のままだ、と頭蓋骨の頭に口付けると、アラウディが目を丸くした。『?』「何?」『…なの?』「そうだよ。貴族の嫡男で、女嫌いの男色家で、どうしようもない親父に最愛の恋人を奪われて、親父を殺して、お前も家も全部なくした、どうしようもない奴だよ」は、と自嘲気味に笑う。あれが三百年前の出来事だとは、信じられないな。今だってこんなに愛してるのに。
 骨を見つめる俺の視界の真ん中にふわりと漂ってきたアラウディが泣いている。『本当に?』「本当に」『証明は?』「え? 今のじゃ駄目? じゃー…」耳元でぼそりとアラウディの弱いところを挙げると幽霊の青白い顔がほんのり赤くなった。「本物だろ」と笑う俺にアラウディは不承不承に頷く。
 あれから幾星霜。その年月、三百年と少し。
 この剣とこの城に縛られてしまったお前の魂を解放するときがきた。
 剣は折ればいいだろう。それで終わる。城は、一人間でしかない俺の力だけで取り壊すなんて何年もかかるだろうし、素人が城を解体しようなんて無謀もいいところだ。これだけ古くなっているならそのうち自然と崩れ落ちるだろう。そのときを一人で待てと言うつもりもない。うん、これでいける。
 唯一の光源である十字架の形をした細い窓から射す光に目を細める。まだ、昼間か。
「待たせて、ごめんな」
 謝った俺に、アラウディは緩く頭を振った。『信じてた』なんて一途なことを告げる声に小さく笑う。ああ、そうだろうな。そうだろうって思ってたよ。
 頼りない腕が首に絡まるけれど、感触はない。唇が重なっても同じだ。何も感じられない。
 出会った頃は栄養不足を示すようにカサついていた唇。キスしたくても食むこともできない唇に、アラウディに合うリップクリームを探してあれこれ買ったことを憶えてる。寝る前にリップクリームを多めに塗るようにした、とぼそぼそと言ってきたアラウディの唇がプルプルの艶々になって目に悪くなったのはそれから少しあとのこと。
 あのキスの感触を思い出したい。
 夜になったら。アラウディの髪の色と同じ月が昇ったら。俺は、お前と同じところへ行こう。