お付き合いしてください、と告白したその日はいい夜だった。東京の空の下でも星の輝きが薄く見て取れた。儚いけれど、その儚さがちょうどいいと感じる、控えめな夜の星。
 そんな星にほど近い高層階のホテルのバーは、平日の夜だけあって人の姿は少ない。落ち着いた雰囲気のクラシックの曲が流れる静かな空間。こんな場所で、こんな雰囲気の中で告白するというのは、たぶん私のこれからの人生を通してみても、そうあることではないだろうと思う。
 いい返事が来る未来を願っていたけど、私が予想していたとおり、彼は黙り込んでしまった。
 予想はしていたから、私は彼の沈黙に傷つくという身勝手なことはせずにすんだ。
 公安の刑事さんは忙しい職業だと聞く。それに、とても秘密が多いとも。だから一般の人がついていくのは難しいんじゃないかと告白を相談した友達にも言われた。覚悟はしていた。だから、私は傷つかない。
「ごめんなさい急に、こんなこと言って」
 それでも自分から話を繋げたのは、彼の沈黙が胸に痛かったからだ。
 笑った私に彼は笑わなかった。いつもみたいな笑顔は浮かべなかった。ただ少し困ったような顔をして私のことを見ていた。「謝る必要はないですけど」けど、なんだろう。そこで言葉が止まってしまうのは、私の気持ちに戸惑っているからだろうか。
 カラン、とグラスの中の氷が揺れる音が響く。
 彼が私にどういう気持ちを抱いているのか、確信も持てないまま告白という行動に出たのには訳がある。
 私には、もう時間がない。
 これは完全に両親の都合だけれど、私には後日、『イエス』と返事をしなければならないお見合いが待っている。企業と企業が仲良く手を繋ぐためにそれぞれの娘と息子を結婚させるという、昔からよくあるお見合い話だ。そして、そこに私の意見は通じない。私は先行き安定な会社の息子さん、将来は社長さんになる人の慎ましい妻として生涯を過ごすのだ。
 それは、たぶん、幸せな生活に分類されるのだと思う。
 写真を見たから、相手の顔は知っている。適当に整った顔の人だと思う。直接お話ししたことはないけど、きっと、時間をかければ愛することができると思う。愛せなくても、好きなところを探して、想うことはできると思う。そう、目の前のこの人のことさえ忘れられれば。
 私は心を決めなくてはいけない。だから、それもあって、彼に告白したのだ。
 安室透さん。肌は日焼けしていて、髪も派手な色。ぱっと見たら外人さんに見えるかもしれない、そんな彼は公安の人。警察官だ。
 彼の詳しい立場やお仕事の内容は知らない。きっと訊いてもごまかすだけで話してはくれないだろう。
 私は彼とある事件をきっかけにして出会い、こうして個人的に会う関係になった。
 カラン、とまたグラスの中で氷が揺れた。彼がグラスを持ち上げ、中身を勢いよく呷る。グラスの中は、バーボン、だったろうか。私はお酒はあまり強くないからよく分からないけれど。
 中身をいっきに呷った透さんがグラスを置く。そして、口を開く。
さん」
「はい」
「僕は、安全とは言いがたい職に就いている。知ってますよね」
「知っています」
 頷く私に、透さんは表情も姿勢も崩した。「…困った人だなぁ」とぼやいたかと思うとガタンと席を立つ。びっくりしている私に透さんは手を差し出した。「場所をかえましょう」と言われて差し出された手に、私は期待と不安で半々の手を伸ばし、彼の手に握られることを選ぶ。
 彼の車に乗るのはこれで何度目だろうか。スポーツカータイプの車は、スポーツが得意な彼によく似合っている。
 そういえば、これって飲酒運転にならないのだろうか。たった一杯とはいえ、彼はお酒を飲んでしまった。飲酒運転の定義ってなんだろうか…? 血中のアルコール濃度とやらが一定の数値を出すと駄目なもの、だったっけ? よく分からないや。
 行き先を告げずに発車した車。私は夜のネオンの光を眺めて、どこへ行くのだろう、とぼんやり考える。別にどこだって、透さんとの時間が終わらなければ、それでいいんだけど。
 信号が赤になり、車が停まる。透さんはそのタイミングでこう言った。「正直に言うと、ちょっと困ってます」と。
 すぐに返事が来ないってことは、そうだろうと思っていた。だから私は驚かないし、傷つかない。そう決めてる。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃ…ああ、僕の言い方が悪いのか。
 言い直すと、さんの気持ちは嬉しいです。とても。ただ、職業柄、僕は独身でいた方がいいということがあって。恋人がいたら、仕事に集中できない気がするんですよ」
 私は彼の言葉をよく噛みしめながら、とりあえず無難な相槌を打つ。「お仕事、忙しいですもんね」「忙しいというか…今はちょっと危険、かな。だから、イエスと言いたくても、僕は言えない。今はとくに」その言葉は、私にとっての希望でも、絶望でもあった。イエスと言いたい。でも言えない。今は、とくに。
 私は、迷った。自分の事情を打ち明けるべきか。
 でも、それはずるい気がした。私の都合を押しつけて彼の都合を押しのけるのは、何か違う気がした。
 イエスと言いたい。でも言えない。彼の答えは、イエスでも、ノーでもない。
 私は笑えばいいのかな。泣けばいいのかな。
(透さんのことを諦めないといけなかった。だから覚悟を決めてきたのに)

 彼が私を好いてくれているなら、迷惑を承知で家を飛び出して、彼のもとに行く気でいた。その逆なら、私は彼のことを諦めて、決められた相手のもとへ嫁ぐ気でいた。
 これじゃあ気持ちが定まらない。
 透さんと手を取り合える未来があるかもしれないのに、好きでもない相手のもとへ嫁ぐなんて、できない。
 これは私のわがまま? それとも当然の気持ち?

「ご両親ですか」
「、」
 唇を噛んでいた私は彼の声にはっとして顔を上げた。信号は青になっていて、車はもう走り出している。「どうして…」思わずそうこぼした私に彼は笑う。いつもみたいに優しく。「推理というほどのことでもないですけど…お見合いの話でも持ち出されましたか?」「………」私が頷くと、彼は困ったように眉尻を下げた。「それで、僕の答えがほしくなったんですね」「…はい」すっかり小さくなっている私を見て彼はさらに困った顔になっている。
 結局、私の事情を持ち出すことになってしまった。そもそも、話さなければ伝わらないなんて、透さんには甘い見通しだった。公安の人なんだ。頭も良い。私が隠していることくらい、すぐに気がついてしまうって、どうして分からなかったんだろう。
 透さんはハンドルを指で叩いた。何か考えているのか、トントンと叩く音のリズムは一定だ。
「………さっきも言いましたが」
「はい」
「僕の仕事は危険と隣り合わせなことも多い。最悪、恋人となったあなたを巻き込んでしまうということも考えられる」
「はい」
「もしかしたら、僕はあなたを助けられないかもしれない」
「はい」
「あなたは僕のせいで死ぬことになるかもしれない。…それでもいいんですか」
 すっと息を吸い込んで、はい、と返すのに、迷いはなかった。
 答えた私に彼は唇の端をつり上げて笑った。少し野性的な微笑み。そんな顔もするんだな、とぼんやりしていると彼が交差点で急にハンドルを切った。車が180度回転して反対車線に行く、という荒業を味わって座席のシートに埋もれて目をパチパチさせている私に、彼は上機嫌にアクセルを踏み込んだ。「じゃあ、行き先変更します」「え? えっと、どこへ」「ヒントをあげましょう。僕は何歳ですか?」「えっと、29歳です」「あなたの年齢は?」「28歳、です」「いい年齢した男女が二人、苦難の未来も共にしようと誓った。そんな夜ですよ?」「そう、ですね」ここまでくるとさすがの私でも理解できた。シートに埋もれていた身体をもそもそと正す。
 お気に入りの、大人しめのデザインのワンピース。スカートに隠れた私の腿を日焼けした掌が撫でる。
「正直けっこー飢えてるんで、遠慮しませんけど。覚悟はいいですか」
 飢えてる。そうはっきり口にした彼に、ごくり、と唾を飲み下す。
 飢えてる。そんなの、私だってきっと一緒だ。
 でも、一つだけ確認しなくちゃ。
「透さん」
「なんでしょう」
「私のこと、好きですか?」
 それさえ確認できたなら。彼の口からその言葉を聞くことができたなら。私はどうなったっていい。
 彼はいつもの微笑みに野性的な色を織り交ぜて言うのだ。「困った人ですね。言わなきゃ伝わりませんか?」「そうですよ。私はちゃんと言いましたから」腿を撫でる手をぺちんと叩くと彼は肩を竦めた。それから私に向かって身を乗り出す。
 危ない、前、と思っている間に交わしていた彼とのキスはお酒の味がした。なんだか大人のキスだった。
 何事もなかったみたいに座席に座り直した彼と、熱の上がってきた顔を俯いて隠す私。
「続きはベッドの上で」
 余裕のある彼に、余裕のない私は「はい」と小さく返事することしかできなかった。

しあわせないろをみた、