私立探偵の安室透としてと初めて接触したのは、もう何年も前の話だ。
もちろん、偶然だった。何も期待していないし、何も仕組んだわけでもない出会い。
彼女と関わることになったきっかけの事件はそう珍しいものでもない、ただの殺人事件だ。仕方がないから僕がそれを解決した、それだけのきっかけ。
そのときの依頼者は彼女の母親。旦那の浮気を疑っていたらしく、その調査を依頼されていた。
僕は客の一人としてレストランに入り、食事に毒を混入されて人が死ぬ、という場面に遭遇することになる。
そのさい、体調を崩して席を外していたに『アリバイがない』という至極単純な理由で動機もないのに疑いがかけられ、依頼者の母親に『娘の潔白を証明してほしい』と頼まれたということもあり、僕が登場、推理、事件を解決した、というわけだ。
彼女との出会いは、時間は、そこで終わるはずだった。
それなりに長い期間調査を重ねて『浮気の事実はない』というデータは揃っていたし、彼女の母親が調査内容に納得すれば、僕の仕事はそれで終わり。表の顔としての私立探偵の安室透はまた一つ現実味を帯びたものになる。僕からすればそれだけで充分だった、そのためだけに受けた依頼だった。
(…それがまさかこんなことになるとはね……)
手を伸ばす。外で活動していることが多いせいか、こんがりと日に焼けた僕の肌は、そうしていると日本人離れしていた。この肌に合う髪色となると自然と派手なものになって、そのせいもあるかもしれないけど、外人にはよく道を訊きたいと話しかけられる。
伸ばした僕の手に触れた手は、対照的に白い。髪も、派手な色の僕とは対照的な落ち着いた黒。
白いバスローブ一枚のが僕の指に指を絡めてくる。
「透さん」
囁くような声音が僕を呼ぶ。
安室透。それが偽名であると、彼女はまだ知らない。その声に透さん、と呼ばれることにも慣れてしまった。
公安であるという仕事上、今まで名乗っていた安室透が偽名であると明かしても、許してくれるだろうけど。きっと残念そうな顔をして笑うのだろうな、とも思う。
いつか僕の本当の名前を呼んでほしいけど、今はまだそのときじゃない。
僕とダブルベッドに転がっているは、ずば抜けて美人というわけでもなく、スタイルがいいというわけでもない。ほどほどにきれいな顔立ちで、胸もほどほどに大きい。つまり、今のところ、これが足りない、というところはない。強いていうなら、もう少し人を警戒するとか疑うだとかってことを覚えてほしいところかもしれない。
「なんですか」
まだ濡れている髪を指に絡めてみる。彼女は眩しいものでも見るように目を細くしていた。「痛いものなんですね。知りませんでした」「まだ痛いですか」「…よく分からない、です」自分の初めてを僕に捧げることにした。僕が頬を撫でるとどこか嬉しそうに目を閉じる彼女は、有名企業の一人娘だ。本来なら僕がこんなふうに抱くべき相手じゃなかった。それなのに僕は何をやってるのか、と自分に呆れながら、片手で彼女と手を繋ぎ、片手で彼女の頬を撫でている。
黒ずくめの組織に潜入調査をしている身で、本当に、何をやってるんだろうか。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。それでも微妙にはだけたバスローブの胸元に視線がいってしまう。直す気がないのか起き上がった彼女は寝転がったままの僕の上に乗ってきた。胸が見えていることなんて気にしてもいない。ご令嬢がそれでどうするんだと思う反面、それだけ僕は彼女に心を許されているのだろうな、とも思う。
「煽ってるんですか?」
「さて、どうでしょう」
ついさっき放出したはずの熱がまた自分の中で生まれていることに気付いて、僕は自嘲気味に笑った。
いつから計算が狂っていたんだろうか。君に会ったときからだろうか。安室透として動くときは、利害関係が一致するものにしか心を割かないと割り切っていたはずなんだけどな。
利害。君は、そんな言葉で説明できる存在ではなくなってしまった。
手を伸ばす。ほどほどに大きい胸に掌を押し当てる。やわらかくて弾力がある。掴むと掌におさまりきらない程度には大きい。
「もう一回戦、ですか?」
「そうですね。そうしますか?」
白い手が日焼けした肌の上をなぞっていく。
僕の上で微笑む彼女は魅惑的だった。どこがどう、というのは説明しづらい。私立探偵を名乗っているのに情けない話だ。君の肌を前にすると理性で思考を制御できない。
僕は石鹸の香りのする彼女の身体を抱きしめて、再びベッドに押し倒した。今日で何度目になるのか分からないキスでやわらかい唇を貪って、舌をねじ込む。
東京の夜明けは、まだ遠い。
そういうわけで、僕は彼女とお付き合いすることになったわけだけど。
(11時15分…)
携帯を取り出してラインで連絡を取る。時間的に、昼食までは日課である習い事の最中だろうからの返信はないだろうと思いつつも、スタンプを押した。うさぎとアライグマがくっついているやつだ。彼女とお揃いで同じものをダウンロードして使っている。今送ったのはアライグマがうさぎにくっついているものだ。
一分ほど画面を眺めていたけど、返信はこなかった。分かっていたことなのに溜息が漏れる。
なかなか携帯をしまえずに未練がましく画面を眺めていると、カランカラン、とベルの鳴る音がした。店の扉が開くと鳴るベルの音だ。来客。僕は店の入り口に営業スマイルで「いらっしゃいませ」と言いながら携帯をポケットに滑り込ませた。
今の僕は、毛利探偵事務所の下にある喫茶店ポアロの従業員。今日は僕一人だからあまり気を抜かないようにしないと。
注文のサンドイッチを作りながら、頭半分で、僕はまた彼女のことを考えている。
今日はどんな服を着ているだろうか。今誰と話しているだろうか。その思考に僕は存在しているだろうか。
これで君と僕が手を繋ぎ身体を重ねる間柄になって二週間になる。
これがなかなか困ったことに、僕はが恋人なってからというもの、彼女のことが始終気になって仕方がない。
そんな自分を自覚して気付いたことがある。もしかしたら僕は重たいんだろうか、ということだ。
それじゃあなぜ気持ちが重たくなってしまうのか、という理由にも心当たりがある。
僕は身近な人間を失いながら生きてきた。その経験が、より強く、彼女への執着を生むのだ。目を離したら、思考を離したら、そのまま二度と掴めないんじゃないか。そんな不安が僕の胸の奥底で常にくすぶっている。
(大切なものなんて、作るべきじゃない。そう分かっていたはずじゃないか)
それでも、お昼が過ぎ、ポケットの中で震えた携帯に真っ先に反応してしまう。作りかけのサンドイッチをそのままに画面に指を滑らせて新着メッセージを確認。うさぎとアライグマがぎゅっとくっついているスタンプに自然と口元が緩む。スタンプの下には今このタイミングで吹き出しが追加された。『今日もいいお天気ですね』と。
改めて窓の外に目をやる。雲の少ない青い空がビルの向こうにある。確かに、いい天気、か。
もし僕がただの公安警察官で、潜入捜査が終わった身だったなら。きっとこんなふうに続けたはずだ。『週末も天気がいいみたいですよ。デートに行きませんか』と。
けど、そう言えるようになるのはまだ先のことだろう。
僕は返事を返す。とても無難に『そうですね』と、それだけを。その言葉をカバーするようにまたスタンプを押す。アライグマがうさぎにくっついているものだ。すぐに既読の文字がついて、彼女からはうさぎがアライグマにくっついているスタンプが返ってきた。
…これは、充分、僕の弱みとなる。
君は僕の天使で、同時に僕を穿つ弾丸にもなる存在だということ。
……とりえあず。お見合いを断らせることになってしまった手前、彼女のご両親のもとへどんな形でも挨拶へ行かないといけないだろう。いつかに浮気調査で雇った私立探偵が娘の心を奪っていったなんて、ご両親にしたら笑える話じゃないだろうけど。
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