カチン、と時計台の長針が動いて七時を告げる鐘が鳴った。
 ぼんやりしていたところから我に返り、七時、と口の中で呟く。透さんが買ってくれた腕時計で時刻を確認する。七時。携帯の画面でも時刻を確認する。19:00…うん、七時だ。間違いない。
 私はもう一時間以上、駅前の時計台の下でこうして立ち尽くしている。
 今日は、ここで六時に合う約束をした。透さんと。でも、彼は来ない。もう一時間、人混みの中に彼の姿を探しながら、私は透さんを待っている。
 立ちっぱなしでヒールの足が痛くなり始めていた。
 今日は七時半からオーケストラのコンサートがある。チケットをもらったのは両親だけど、都合が悪くてコンサートに行けなくなってしまった。もらいものでもチケットを無駄にするのは気が引ける。だから『私が透さんと行ってくる』と渋い顔をしている両親からもらったチケット。もう開場して受付を開始しているだろう。タクシーを拾って向かわないと間に合わない。
 今日は透さんと会って、軽く何かつまんでからもらいもののチケットでオーケストラのコンサートを聞いて、久しぶりにデートらしいデートをするつもりでいたのにな。
 ぐ、と唇を噛む。
 この時間、駅前を行き交うのはカップルが多い。手を繋いだり、腕を組んだりして、笑い合って、幸せそうだ。
 いいな、と思う。そうなりたいな、と人混みの中に視線をさまよわせる。いくら探しても小麦色の肌と金色の髪の彼はいない。
 …お仕事。だろう。私に言えない大事なお仕事。分かってる。だから、大丈夫。
 七時になったから最後の連絡でラインにメッセージを入れてみたけど既読の文字はつかない。そうだよね、と息を吐いて携帯を鞄にしまった。
 私だけでも向かうべきだろう。チケットを無駄にするわけにはいかないし。
 大通りに出てタクシーを拾おうと歩き出して、ぽん、と肩を叩かれた。このタイミングのよさ。透さんかなと振り返ったら、全く知らない茶髪にスーツのお兄さんがいた。透さん、じゃない。
「お姉さん一人なんだろ。俺とどこか遊びに行かない?」
「え、っと」
 コツン、とヒールで一歩下がる。「あの、私、人を待ってるので」「またまたぁ、ずっとここで待ちぼうけしてるじゃん。ナンパ待ち、でしょ?」軽い感じで肩を抱かれた。透さんとは違う手。知らない香水のにおい。
 さりげなくお尻に触れてきた手をばしんと振り払って、私は走った。ヒールで立ち続けて足はもう疲れ切っていたけど、逃げた。転ぶことを覚悟しながらとにかく走って駅の中に飛び込む。ひと目が多ければ変なことをしてくる人は少なくなるはずだ。
 ああ、背伸びしていつもより高いヒールなんて履くんじゃなかった。足が痛くってしょうがない。
 人通りの多い改札まで走って、肩で息をしながらポスターが並んで賑やかな壁に背中を預けた。せっかく自分で頑張った髪も走ったせいで崩れてきてしまってる。
 もういいや、と髪飾りの簪を抜くとぱらぱらと黒い髪が胸元に落ちてきた。束ねていたゴムも取り払って、くしゃくしゃになってしまった髪を背中に払う。
「…透さん」
 腕時計は現時刻をしっかりと示している。彼からのメールも、電話も、ラインも、連絡は何もない。
 今から一人でオーケストラを聴きに…そんな気分でもなくなってしまった。
 私は鞄を胸に抱えて、痛いハイヒールを脱いで脇に転がした。私の前を歩いていく人達がちらりと私に視線を落とすのが分かったけど気にならない。透さんがいない。あの人がいない。あの人に会えると思っていただけに会えない現実が私に重くのしかかっていて、他のことなんて気にならない。
 このまま帰ったら、今日はもう透さんに会えない。ここで待っていたって会える可能性なんて分からない。でも、絶対に会えないより、会える可能性を信じたい。
 こんな私を、馬鹿な人ですねって、透さんは困ったように笑うのかもしれないけど。
これはわがままですか
「急に呼び出して悪かったわね、バーボン」
「いえ。貸し一つですよベルモット」
「そうね、憶えておくわ」
 それじゃ、と残してハイヒールを鳴らして歩いていく金髪の女を見送る時間が惜しかった。それでも怪しまれないために僕は辛抱強くベルモットの姿がホテルのロビーに消えるまでを見送った。何度も震えていた携帯をスーツのポケットから取り出してすぐに確認する。電話が三回、ラインの新着メッセージは四回。全てからのものだった。

『約束の六時に、時計台の下で待ってます』 17:30

『透さん、着いてますか? お返事ください』 18:05

『もしかして、お仕事でしょうか。私は大丈夫ですから、お仕事の方頑張ってください』 18:45

『チケットがもったいないので、私一人でも行ってきます』 19:01

 現在時刻は十時を過ぎた。コンサートはとっくに終わっているし、は家に帰っているだろう。久しぶりのデートになるはずだったのにベルモットめ。
 とにかく返信しなくては、と画面に指を滑らせる。『すまない、仕事だった。この埋め合わせは必ずする』送信するとすぐに既読の文字がついた。言葉遣いが乱暴だったか、と打ち込んでから気付く。
『お仕事大丈夫でしたか?』
 そのあとに心配そうにこちらを見ているうさぎのスタンプがつく。『大丈夫ですよ』と丁寧に返して、『もう家ですか?』と続けて送信すると、既読のあとに空白があった。『?』しまった、急いで入力したせいでさんをつけるのを忘れてしまった。
 返事を促す僕に、『まだ駅です』という短い言葉が続く。
 まだ駅。その文字に血の気が引いた。大げさかもしれないけど、そのくらい驚いた。
 すぐにアクセルを踏み込んで車を急発車させる。
 六時に待ち合わせで、のことだから五時半には待ち合わせ場所に着ていたに違いない。一体何時間、僕を待ち続けていたんだ。一人で。
 赤信号を無視しそうになること三回。なるべく最短ルートで飛ばしに飛ばして駅前のパーキングに車を突っ込んだ。『駅のどこにいますか?』とラインを飛ばすと、すぐに既読がついて、『改札の前』と返事がくる。
 スーツで全力疾走するというのはなかなかに走りづらい。途中でネクタイを外して上着のボタンも開け放った。
 革靴の底でブレーキをかけながら走り込んだ改札前で素早く視線を走らせ、壁際で座り込んでいるを発見する。「…!」駆け寄って肩を掴んで揺らす。携帯を片手に顔を上げた彼女は僕を見ると笑おうとして失敗した。くしゃり、と表情を歪ませる。「お、お仕事、おつかれさまで、」「そんなことはいい」人目。そんなものは投げ出して、僕は思い切り彼女のことを抱きしめた。薄着で長いことじっとしていた身体は冷たくなり始めている。
「どうして帰らなかったんだ」
「だ、だって、かえったら、きょうはもうとおるさんに、あえないと、おも」
「…馬鹿だな」
 本当に、馬鹿な人だな。
 そんなに僕に会いたかったのか。会いたいと思ってくれていたのか。僕もそうだけど。

 いとしい、と。そう思った。
 身体の奥から湧き上がってくるその感情を止めるのに思考は役に立たなかった。
 いとしい。愛しい。体温を、温度を、声を、肌を、その存在を。ただ感じていたい。それだけで満足できる。幸福だと思える。そんな、感情を。僕は知らなかった。

 泣きそうに歪んでいる顔と、いい加減気にすべきざわざわとした人混みの出す音に一つ息を吐く。
 よし、落ち着け。急に乱暴な口調になったら彼女が驚くだろう。さん、は仕方ないとして。
「足、痛みますか」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、とりあえず持ってください」
 彼女の手にハイヒールを押しつける。「じっとしててくださいよ」「え?」首を傾げた彼女をすくい上げるようにして両腕で抱き上げた。彼女が座っていた場所に忘れ物がないことを確認して、パーキングに向かって歩き出す。
「あ、え、透さん、」
「はい」
「お、下ろしてください…」
「足が痛いんでしょう? 車まで連れていきます」
「いえ、でも、あの、」
 今度はすっかり身体を熱くしている彼女に唇の端をつり上げて笑った。
 人目? 僕は気にならない。どちらかというと見せつけてやりたい気持ちの方が大きいので、これでいい。
「どうですか、お姫様抱っこは。僕が王子では物足りないかもしれませんが」
「そ、そんなことは…私の王子様がいるとして、それは、透さんだけで…」
 はっとした顔で口を噤んだ彼女がバッグで顔を隠した。口にしかけたことが恥ずかしいと思ったようだ。
 僕には、とても、光栄なことだけど。
 君の王子が僕で、僕のお姫様が君なら、こんなに嬉しいことはない。
 僕のお姫様を車まで連れて行き、助手席に乗せた。ようやく人目が少なくなったので、まだ恥ずかしそうに俯いてる顔に手を添えてキスをする。が身動ぎしてキスから逃げようとするので両肩を捕まえて顔を押しつけるようにして、逃がさない、という意思表示をすると、彼女は諦めたのか身体の力を抜いた。
 ただのパーキングだ。人が通ることもある場所なので、触れるだけのキスで今日のところは我慢しよう。
「誰かに何かされませんでしたか? ナンパとか痴漢とか」
 念の為に訊ねたことに、が目を泳がせた。「えっと、ないです」こんな反応をされたら誰だって嘘だと分かる。「誰ですか?」「え、」「僕のに触れたのは誰ですか?」笑顔を浮かべる僕にはそろそろと時計台の方に顔を向けた。「茶髪で、スーツの、お兄さんでした」「なるほど。あとでよーく言っておきます」「は、はい」笑顔の僕からただならぬものを感じたのか、はおずおずと頷いただけでそれ以上は何も言わなかった。
 僕は表の職業として探偵を名乗っている。彼女に手を出した男を調べ上げるくらい朝飯前だ。
 パーキングの支払いをすませ、彼女を家まで送り届けるべく、今度は安全運転で交差点を右へ。
 道中、彼女がぼんやりと僕のことを見ていたので、信号待ちのときに訊ねた。「僕の顔に何かついてますか?」「何も…ただ」「ただ?」「会えたなぁ、って」そうこぼして微笑む彼女に心臓が騒いだ。今すぐ抱きたい。喉元までせり上がったその熱をごくりと飲み下す。
 今日はこれ以上困らせるわけにはいかない。ご両親のもとへ返さないと。ただでさえ僕はいい顔をされていないのだから。
「今日の穴埋めは必ずします。本当にすみませんでした」
 謝った僕に、いいえ、と首を横に振った彼女が、迷った素振りのあと、そっと手を伸ばした。僕は迷わず片手運転で彼女の手を握ることを選ぶ。
 次の朝。彼女をナンパした挙句痴漢を働いたというスーツの男は、僕なりの流儀で挨拶しておいた。
「二度目があったら殺す」
 冗談じゃなく、本心から、笑顔でそう告げると、ボロ雑巾になった男は馬鹿みたいに頷いて逃げていった。