「おや?」
 冷たいのがいいから氷を入れてほしいとお願いして飲んでいる日本酒は、なんて名前だったか。おいしいのに忘れてしまったなぁ、なんて思いながら何杯目かもわからない酒を飲んでいると、どこか聞き覚えのある声がした。
「おやおや。こんなところで一人で飲んでるなんて珍しいね、
 聞き覚えのある声に視線を投げると、砂色のコートと、なぜか腕や首に包帯を巻いている、憶えのある顔が一人。
 本当なら久しぶりの再会を喜ぶべき…。でも今は会いたくなかったな、と思う人物がいた。
 にこにことした笑顔を浮かべて、呼んでもないのにこっちにやってくると、ぼくの隣の席を陣取って「マスター、いつもの頼むよ」と常連ぶりを発揮する。
 ぼくは諦めてため息を吐いてグラスを置いた。…やけ酒ぐらいは一人で気の済むまでやりたかったのに。
 と、いうか。表面上だけかもしれないとはいえ、そんなふうに笑うようになったんだな。
 彼の名は太宰治。ぼくが所属するポートマフィアの元幹部で、性格には難ありだけど頭はキレるし実力も高い人だ。
 元、とつくのは、彼がポートマフィアを抜けたから。もう随分のことだ。そうして今日この酒場で再会するまで、ぼくは太宰の行方を知らないままだった。この再会は数年ぶりってことになる。
「それで? やけ酒かい。らしくない」
 マスターから透明な液体の入ったグラスを受け取った彼は、ためらうことなく一気飲みした。「そっちこそ。やけ酒? らしくない」空になったグラスを置いた太宰はふふふと意味深な笑い方をする。
「いやぁ、これで何度目だろう。また失敗したよ」
 そう言って自分の首を指すから、酒でにじむ視界を凝らしてその首を凝視してみる。…なんか、跡、がある気がする。
「なに、それ」
「首を吊ってみたんだ」
「うへ」
 自殺が趣味とかいう変わった嗜好のことは聞いてたけど。首を吊ってみたんだ、って。それ普通に死ぬから。
 首を吊ったのになぜか生きている太宰は大げさに肩を竦めて「それがね〜、準備万端に首を吊ったんだよ? きちんとロープも用意したし、よさそうな場所も見つけておいたんだ」「へぇ…」「それなのに! 肝心な日が雨でね? 時間も道具も準備してきたのに、雨なんだよ!?」「ああ、うん。それで?」「雨で、あろうことか、滑ったんだよ…。ロープが。私の体重を支えきれずスルリと解けてしまった」「はぁ」それで、首を吊ったのに太宰は生きてる、と。
 それを悔しそうに語ってテーブルを拳で叩く太宰。「これならいけると思ったのに!」「そう、だなぁ」確かに普通はそれで死んでるところだ。むしろよく生きてるよ、太宰は。ポートマフィアは裏切りを赦さないのに。
 で、生きてる方がむしろ奇跡的な太宰が、自殺がうまくいかなかったからやけ酒しにきた、と。
 そっちは? と言いたげに一瞬視線を感じたけど、気付かないフリをする。高い日本酒はおいしいなぁ、とだけ思う。悪酔いしないからいくらでも飲めそうだ。
「中也は?」
 正確に、的を得ている指摘の声。
 溜め息を吐いてグラスを置いて、ピスタチオをかじる。「いないよ」「なんで? いつもだいたい一緒じゃないか」「そんなことない」「嘘だろう? あの中也と衣食住ほぼ一緒なのは君くらいだよ?」興味の視線を隠さない太宰に少し苛立つ。
 それは、お前が出てく前の話だ。あれから色々あったんだよ。今はもう………今はもう違うんだ。衣食住全部一緒だった頃なんて遠い昔だ。
「もう一杯」
 グラスを突き出すと、マスターは黙っておかわりをくれた。ぐらり、と目の前が揺れたけど気にしない。良い酒は悪酔いしないんだ。
 隣に座っているのは中也じゃなくて太宰だ。呆れたような顔で「やめておきなよ。何杯目か知らないけど、顔に出てる。そろそろ倒れるよ?」「うるさい」ぐい、とグラスの中身を呷る。
 中也のことを、忘れたくて、酒を飲みに来たのに。酒に呑まれに来たのに。これじゃ意味ないじゃないか。
「もう一杯」
 グラスを突き出した手にまたおかわりが注がれた。金さえ出せばこのマスターは何も言わないのだ。
 ぐらぐらする頭で、片手が頼りなくて、両手でグラスを持ち上げると、上から伸びた手がぼくの手からグラスを取り上げた。「やめなさい」二重になっている太宰の顔がこっちを見下ろしている。
「君は一般人なんだ。私のような力もない。こんなところで酔い潰れちゃダメだろう」
「うるさぃ…」

「うるさい。わかってる。わかってるよ…」
 酒を取り上げるどころか代わりに飲み干した太宰は、勝手に会計を始めた。「彼の分もこれで」「畏まりました」キラリと光るブラックカードが恨めしい。さすが元幹部。金はあるのだ。
 借りを作るのはよくない、とスーツのポケットから財布を取り出そうとしたら落としてしまった。最近買い替えたばかりなのに。
 ぼくの財布を拾い上げた太宰が片眉を上げる。「買い替えたの? 確か、前は」「うるさい」それ以上言わないでくれ。買い替えた、意味がないだろう。
 太宰はまだ何か言いたそうだったけど、財布をもぎ取ったぼくに肩を竦めただけだ。
 バーの扉を押し開けると、日本独特のムワッとした湿度の高い空気が顔を撫でた。…いつまでたっても慣れない不快感。日本の空気は、好きじゃない。
 ふらつくぼくに肩を貸している太宰は、手慣れた様子でタクシーを呼んだ。
「今はどこに住んでるんだっけ?」
「…それを、ウチを抜けたお前に言うと思う?」
「それもそうか。まぁ、どこでもいいんだけど。君の顔なじみとして、中也の昔なじみとして、世話をしておかないとと思ってね」
 随分殊勝なことを言う太宰だ。彼にしては珍しい。ぼくなんかを気遣うなんて。
 あるいは……ウチを抜けるきっかけになったという、友人を喪ったことが関係してるのだろうか。
(自殺趣味なんかあるくせに、友達が死ぬのは嫌なのか。矛盾してるなぁ、太宰は)
 吐き気はないものの、すでに頭がズキズキと痛み始めていた。目頭を押さえて痛みと闘っていると…する、と腕を離された。不覚にも太宰に体重を預けて頼っていたぼくはガクンと姿勢を崩してアスファルトに膝をついてしまう。
 何するんだよ、と言おうと思って、ようやく気付く。
 太宰は手慣れた様子で指を突きつけている。ぼくではなく、さっきまで誰もいなかった空間に。でも今は確かにそこにいる、黒尽くめの誰かに。
「残念だが、ここまでだ。今手を引くなら、私は君を見なかったことにして、何もせず見送ろう」
「…、太宰?」
 酒で潤した喉がもう乾いている。こんなに湿度が高いのに、乾いている。
 男なのか女なのかもわからない黒尽くめの誰かは、太宰の警告に黙ってその場を離れた。太宰の指から離れたことで異能力が回復したんだろう、真っ黒な姿がすぅっと暗闇に溶けてわからなくなる。
 これは、つまり。ぼくは気付かないうちに異能力者に狙われていて。太宰に危ないところを助けられた、のか。
(こんなの、中也がいれば……)
 中也が隣にいれば。反則技みたいな重力を操る力で、今の相手も、吹っ飛ばしていただろう。ぼくがそうと気付かないうちにあの誰かは落命していたに違いない。
 ぼくは太宰に感謝すると同時に、落胆もしていた。
 ぼくが危なくなっても。中也は現れなかった。それが自分で思っているよりもずっとショックだったのだ。