どういう事情かわからないが、何者かに狙われていたらしい顔なじみを助け、タクシーに押し込んで走ること五分。酔い潰れたのか、きれいな寝顔をして彼は眠っていた。
 私が憶えている限りでは、最後に見た彼は普通にショートヘアだったが、今の彼はなぜだか髪を伸ばしているようだ。こうして見るとパッと見女性に見えなくもない。まぁ、スーツ姿で見間違えることはないんだが。
(さてさて。中也と何かあったんだろうね。彼からもらった財布を新品に買い換えて、彼を連れないでバーで飲んだくれて…。珍しいこともあるものだ)
 男にしてはきれいな寝顔を眺めて、うーんと考える。
 このまま中也のとこに素直に返しても、何も解決しないんだろうしなぁ。だったらいっそ今晩くらいは彼を借りようか。たぶんどっちも頭の中限界まで煮詰まってるだろうし、息抜きってことで。
 まったく、世話が焼けるなぁ。私がいなくても仲良くやってくれてれば気が楽だったのに。
 これじゃあまるで、私がいなくなったから二人が不仲になったみたいじゃないか。
「あ、次の信号を左で」
「はい。…はい?」
 次の信号を左に曲がると何があるのか知っている運転手には訝しげな顔をされた。思いきりいい笑顔を返すと、さっと顔を逸らされる。
 全体的にピンクな通り…。一言で言えば風俗街。その路地裏にひっそりとあるラブホテルに、寝たままのを連れ込んだ。
 廃れたラブホの受付は無人。
 空いている部屋が表示されているパネルを適当に押す。そこの部屋のロックが外れるので、中に入って扉が閉まれば精算するまでは出られないよくある仕組みだ。部屋の機械で精算すればロックが解除される。
 ありきたりなラブホのありきたりな部屋で、まだ寝たままのをベッドに寝かせた。あー重かった。いくら顔がきれいでも彼もれっきとした男だからそれなりに重い。
(私は結局一杯と、彼の一杯を飲んだだけか。つまみもないしー、うーん)
 コートを脱いで部屋の冷房をオンにし、暑かろうと、のスーツの上着とベルトを外しておく。
 お腹が空いたり、喉が渇いたりしたら、どうですか。そう言いたげに傷の目立つテーブルに置いてあるメニューが目に付き、小癪な、と思いつつも手に取る。
 まだ飲み足りないんだよね。飲みに行ったっていうのに大して飲まずに出てきちゃったしさ。何か頼もうかな。
「ふむ…なかなかのぼったくり値段だ」
 顎に手をやりつつそうぼやく。
 缶ビールが四百円。冷凍パスタをチンしただけじゃないか、と思えるパスタが八百円に、これも冷凍ピザをチンしただけじゃないか、と思えるピザが千円。なかなかに高い。が、背に腹は変えられない。
 卓上に設置されているタブレットを操作してとりあえずビールとパスタを注文した。
 古い建物だから、イマドキのラブホのように注文したものを受け取る昇降機の小さな扉は見当たらなかった。じゃあどこから受け取るんだか、とくたびれたソファでネクタイを外してシャツのボタンも外していると、コンコン、と控えめなノックの音。どうやら普通に対面で受け取るらしい。その間だけはロックを外せるよう操作しているんだろう。
「はいはーい」
 扉の外に立っているのが美しい女性ならそのまま誘惑するつもりで、シャツをはだけさせた格好で扉を開ける。
 残念ながら外に立っていたのはフツーのオジサンだった。残念だ。うん、ひじょーに残念だ。
「ご注文のビールとパスタです」
「どうもー」
「会計は部屋の機械に加算しておいたので…」
「はーい」
 では、とぼそぼそ言ってオジサンは扉を閉めた。カチ、とまた扉にロックがかかる。
 ソファに戻って一人ビールを呷ってパスタをすするようにして食べる。うん、缶ビールと冷凍チンのパスタだ。「ふっつー。めっちゃフツー」ぼやいてもは起きない。よっぽど飲んだらしい。マフィアの一員としてその無防備さはどうかと思うよ、私は。
 まずいビールとまずいパスタで腹を満たしたら、シャワーを浴びた。せっかくあるんだし使っておこう。
 シャワーを浴びて、置いてあるバスローブを羽織って歯磨きしながら部屋に戻る。…まだ寝てるよ。よく寝れるなー。私、けっこーうるさくしてるんだけどな。
 さて。それはそれとして。
 この部屋には当然ベッドは一つしかないので、私も彼と同じベッドで寝ることになるわけだが。 
 歯磨きをすませた私は、ぎしぎしとうるさい古いベッドに膝立ちになり、寝かせた態勢から動いていない彼の上に跨って覆いかぶってみた。「おーい」ペチペチと頬を叩くが、起きる気配がない。
 彼を尾行していたのが何者であれ、バーのマスターは関与していないと思ったけど…酒に変な薬が入っていた可能性もある、か。
 どれ、一通り薬をやったことのある私がちょっと確かめてみようか。
 眠っているの顎に手を添えてくいっと上向かせ、唇を寄せて舌を出す。
 彼の唇を舐めてみたが、とくに薬品の類は感じなかった。ふむ。
(まぁ念のため、口の中も調べておこうかな? 今なら寝てるし)
 そう抵抗も覚えず、彼の口に指を入れて軽く開かせてから舌を捩じ込んだ。
 ……うん。酒の味しかしないな。何かまずい薬品の類があれば私がわかるはず。何せ一通り試したことがあるからね。じゃ、彼はただ寝てるだけで大丈夫だ。
 キス同然の行為までして彼の安否を確かめたのは、中也にぺしゃんこにされるのはごめんだからだ。
 どう言い訳してもこれはキスにはなるわけだが、彼に危険が及ばないかどうか確かめるためだと言えば中也もさすがに理解する…。
「なに、してる」
 古いエアコンが稼動する音に紛れるような声音に視線を落とすと、私の下でが薄目を開けてこっちを見上げていた。ぱっと顔を離すが、彼には見られたあとだ。「おや。お目覚めか。眠り姫じゃあるまいし、私のキスで起きないでくれよ」おどけて肩を竦めてみせるけど、彼はクスリともしなかったし、呆れた顔もしなかった。ただじっとこっちを見上げている。
 そういえば、うっかり失念していたわけだが。彼は自分はゲイだと私に公言していたっけ。
 そんな彼にバスローブ一枚の姿で跨ってキスを仕掛けるというのは、うん。我ながら馬鹿なことをしたなって感じ。
「いや、深い意味はなかったんだよ。ほんとほんと。ただ君があまりに眠っているから、酒に何か仕込まれたかも、と思って、一通り薬をしたことのある私が確認しようとだね、」
 矢継ぎ早にこの状態の説明をしていると、手首を掴まれた。さっきまで寝ていた彼にしては鮮やかに私を下に組み敷く。「…あのー、? 私の話を聞いておくれ…?」両手首を掴まれてベッドに押しつけられる。ああ、うん。目が据わってるなぁ彼。
「ぼくがゲイだって知ってるよね。それでこれは、据え膳食わぬは男の恥になるんだけど?」
「その点についてはホント申し訳ない配慮が足りなかった。ごめんなさい。私が全面的に悪かったです」
「……ハァ」
 ぱっ、とあっさり私の手首を離した彼は投げやりな感じでベッドにあぐらをかいた。バスローブの私から顔を逸らしながら「とりあえず、着てよ。その格好はいくら太宰でも襲う」「ハイハイ」言うとおり着替えることにする。襲われるのは勘弁だ。
「ここ、どこ」
「適当な通りの適当なラブホ。酔い潰れていたからどこでもいいかと思って」
「…あの、誰かは。誰なんだ? ぼくを狙ってた」
 バーを出たところで感じた空気の歪み。質量。指を突きつければ現れた黒尽くめの誰か。彼はどこの誰かもわからない相手のことを考えているらしい。
 さっき脱いだシャツに袖を通し、顎に手を当てて考えてみた。
 ポートマフィア内でも彼の異能力について知るものは少ない。幹部クラスか、彼と相当に親しいかのどちらかに限られるだろう。最もこの情報も私があちらに所属していた頃のものだ。今は大幅に更新されているのかもしれない。
「君の能力を、知っている者は? あの頃から変わった?」
「……変わったよ。正直、誰がどのくらい知ってるのかはわからない」
「そうか。なら特定も難しいな」
 あっさり両手を挙げて降参する。
 絞り込もうにも、これ以上はポートマフィア内の情報を知らなければならない。もう部外者となった私が、友のためとはいえ、そこまで首を突っ込むわけにはいかない。
「まぁ、君に手を出すなんて、愚かだと思うけどね。中也に殺されるよ」
 わりと本気でそうぼやいた私に、彼は短く笑った。その笑い方は、自嘲、だった。「…?」訝しむ私に、彼は諦めた顔をしている。
「バーを出たところにいたのは、ぼくを狙ってた誰か。でも、中也はいなかった。そうだろう?」
「まぁ、そうだね」
「太宰がいなかったら、ぼくはその誰かに拉致されるか殺されるかしていたわけだ。でも、中也はいなかった。つまりそれが全部だ」
 彼は吐き捨てるようにそう言うと、バスルームへと消えていった。そのうちシャワーの音がしだす。
 古いエアコンの風に前髪をなぶられながら、考えてみる。
 どうやらと中也の間に何かがあったようだ。しかもそれは、お互いべったりだった二人が決別するくらいの何か…。はてさて、なんだろうなぁ。
 私が知る彼らは数年前の姿だ。そのとき彼はあんなに髪は長くしてなかったし、普通の少年だったんだけどなぁ。
 考えることはあるにしても、とりあえず寝よう。君も酒で頭が働かないだろう? そんな言葉をかけて彼をベッドに寝かしつけて、私はちょっと携帯片手に調べ物でも…。そう思ってベッドから抜け出そうとして、ぱし、と腕を取られた。寝たろうと思っていたは薄目を開けてこっちを見ている。
「…私はまだ眠くなくてね。は先に寝るといい」
 正直、ゲイだと公言する彼の横で健やかに寝られるほど私も図太くはない、というのもある。
 それをわかっているのか、いないのか。彼はどこか悲しそうに目を伏せた。「太宰」「うん」「ぶっちゃけてもいい?」「どうぞ」ぐっと強く腕を握られる。けれど、その手はどこか、震えているようだった。
「もう、中也と、どんな顔して会えばいいのか、わからないんだ」
「………」
「中也のこと考えると苦しいよ。とても。それがどういう感情からくるのかもわかってるつもりだ。
 でも、中也がぼくを拒否するなら、ぼくはこれ以上手を伸ばせない。中也がそうしたいなら……ぼくも、中也を、忘れるだけだ」
 それで、酒に溺れて、中也がプレゼントしたすべてのものを新しく買い替えて、中也のことを忘れようとした、か。
 震えているように感じる彼の手にそっともう片手を被せる。
「私の言葉じゃ、慰めにもならないだろうが。中也は間違いなく君のことが好きだ」
「じゃあなんで拒否するんだ。会うのだって、喋るのだって」
「…彼の考えまではわからない。だが、古い付き合いの私に言わせてもらうなら、彼は、不器用だ。そりゃあもうね、不器用なんだよ。普段はあんなに好戦的だが、いざって大事な場面に発揮する不器用さは折り紙付きだ」
 力説する私に、彼は呆れたように笑う。「そうだっけ」「そうだよ。だからね、君と彼が燻っていても、君が先に折れるだけだ」疲れた顔をしている彼の頭を引き寄せ、胸に抱く。肌触りのいいスルスルとした長い髪は、そうしていると女性のものにも思えるのにな。
「だから、私を巻き込んでしまいなよ。君と中也を知る私が間に入れば、なんとかうまい方向へ持っていくこともできるだろうさ」
「……太宰に、得が、ないじゃないか」
「そうだなぁ。私は中也に土下座して感謝されればそれでスッキリするかな」
 ぎくしゃくしている彼らの間を私がもって、そうして昔みたいにイチャコラしている二人が、私に土下座して感謝の念を述べるなら、それはとてもスッキリサッパリ、いい気分に浸れるだろう。ついでに一枚中也が土下座した写真が撮れればもう大満足だ。私へのリターンはそれで充分さ。
 私の胸に顔を埋めたまま、のくぐもった声でありがとうと言われた。はいはい、どういたしまして。