「中也ってば!」
 甲高い女の声に呼ばれて、ふと我に返る。
 見えるのは観覧車からの夜景だ。どことなく煙ったような夏のぼんやりとした空気の向こうに、ぼんやりとした光の街が広がっている。
 広いとは言えないゴンドラに乗っているのは俺と女の二人だけ。
 一般的にいえば甘い雰囲気になるはずのそのゴンドラで、俺は女と向かい合っている。相手の表情はどこか険しい。「…あ? ああ、悪ぃ。なんだっけ」直前までの流れが思い出せずぼやくようにして問うと、女の表情はさらに険しくなった。キレイな顔が台無しだ。
 その顔がどこかと似ていて、アイツに睨まれているような気がして、俺の視線は自然とゴンドラの外へと逃げている。
 …いや。どうだったかな。アイツの顔、どんなだったかな。もうどのくらいまともにあの顔を見てないんだろう。
「中也は、他に好きな人がいるんでしょう」
「ああ? なんでそうなるんだよ」
「今だってそうだけど、中也、あたしの顔を見ようともしないじゃない。
 今だけじゃない、いつだってそうよ。あたしの話は意識半分で聞いてるし、大事なことはいつもはぐらかす」
「……ハァ」
 ヒステリック気味になってきた女に息を吐いて、黒い帽子を手に取る。「じゃ、別れるか」特別感慨もなくぼやくようにこぼすと、女はさらに眉を吊り上げたようだった。買ってやったブランドのバッグを俺に叩きつけるようにすると「ええ、別れるわよ!」とか売り言葉に買い言葉って勢いで別れ話を了承した。
 だったら、こんなところで時間を潰していることもない。デートがしたいって駄々をこねるから付き合ってやってたんだ。もう用がないなら、俺は帰るよ。
 外から鍵がかかってるらしいゴンドラの扉に手を当てる。「ちょ、ちょっと? 何してるの」「帰るんだよ」「…まさか、」何を勘違いしてるのか知らないが、怯えている女の横で扉をほんの少し歪め、両手で勢いよく開け放つ…フリをする。本当なら手なんか使わないでも開けれるわけだが、何も知らない女にそこまで見せるわけにもいかない。
 ビュオ、とぬるい風が吹き込んでくる中、飛ばされないよう片手で帽子を押さえつつくるりと反転する。
 怯えた表情の女を見るに、俺が自殺するとでも思ってるようだった。
 その顔が、俺に怯えているアイツに見えて、笑ってやろうとして失敗した。
 アイツには、そんな顔は、してほしくない。
「じゃあな」
 背中から吹き込む風の中へ、どこか煙る空気の中へ、背中から真っ逆さまに落ちていく。
 キャアアア、と遥か頭上のゴンドラから悲鳴が上がるが、知ったことじゃない。
 息をするように自然に重力のベクトルを操作し、落下の法則を無視して、人のいなさそうな路地裏に踵をつけて降り立つ。
 さ、帰ろう。帰ってもやることはとくにないし、暇なだけだが、やることもなくなったしな。帰って……酒でも飲むかぁ。
 名前も思い出せない女にフラれたことはとくに気にならなかったが、最後に見た怯えた顔がどうにもこびりついて離れなかった。
 酒を飲んで緩い気分で気持ちよく寝たっていうのに、起きたとき一番に思い出したのがソレで、寝覚めが悪い。
 目覚ましの炭酸のペットボトルを呷りながら、随分と久しぶりに、アイツの部屋に行った。声をかける理由は仕事関係でいくつかネタがある。その話をしながら顔を見れればそれでいい。その顔を見たらあの怯えた顔に上書きして、忘れてしまえる。

 コン、と扉を叩く。…返事がない。「俺だ。中也」コンコン、と扉を叩く。……いない?
 扉を蹴り開ける。俺が何度かそうして開けたことがあるからか、つけ直される度に強度が増している扉は少し歪んだだけだ。
 灰色を基調としたモダンで落ち着いた雰囲気の部屋に人の姿はなかった。「おい」風呂場を覗いたりベッドを叩いたりしたが、アイツはいない。
 珍しい。いや、珍しすぎる。なんでいないんだ。
 仕事か? 一般人の能力しかもたない、という体のアイツにできる仕事なんてそう多くはないはずだが。それに、日本の夏は嫌いだって、このくらいの暑さからデスクワークばっかりするのが常だったはず。なんでいないんだ?
 主のいない部屋で立ち尽くし、アイツが行きそうな場所を思い出そうとしたが……できなかった。ずっと遠ざけてきたアイツの今考えていることが、まったく、わからなくなっていた。
 当然といえば当然か。もうどのくらいまともに顔を見てなくて、まともに口を聞いてないんだ。思い出すのも億劫なくらい長い間、だ。そのくらい、アイツを遠ざけてきた。
「ハァ…」
 ぼふん、とベッドに腰掛け、転がってみる。
 …香水のニオイがする。前までこんなものつけてたか、アイツ。つけてなかったろ。なんだよ、色気づきやがって。
 でも、いいニオイだな。バニラみたいに甘くて、どこか清涼さもある香りだ。優男の顔のアイツには似合ってるともいえる。女物とは少し違う甘さ。嫌いじゃない…。

 中也

「…っ」
 指先を向けてバンと扉を閉める。必要以上に力をかけて動かないようめり込ませてから、ベルトを外してチャックを引き下げる。
 こんな香り一つで興奮するとか、俺もどうかしてる。
 アイツの部屋のベッドに顔を埋めてする自慰行為は、甘い香りのせいで、頭がクラクラする。いつもより気持ちいい。
「ン、」
 この甘い香りに包まれてセックスしたら相当イイんだろうな。白くて甘い、あの指で、全身なぞられるだけで、イキそうだ。
 主のいない部屋のベッドの上で、白いシーツを俺の白濁で汚す。
(勝手に遠ざけて、勝手に欲情して。ホント、勝手な男だ)
 そりゃ、女だって、こんな俺には愛想つかすってもんだ。
 そのまま、普段アイツが寝ているベッドに転がってみる。
 ……今でも、夜ベッドに入る度に思い出すことがある。
 もう随分と昔の話だ。二人で仕事して、二人とも疲れて、シャワーも浴びず、着替えも早々に、アイツと同じベッドで寝たことがある。
 そのとき、別に何もなかったが、眠さで曖昧な意識の中、緩く後ろから抱きしめられた。恋人にそうするような甘さで、自然と抱かれて、首筋に埋まる吐息に気付いたときに俺が覚えたのは、体の高鳴り、だ。
 胸の高鳴り、なんてかわいいもんじゃなくて、ベッドで背中から抱きしめられているということに体が疼いた。頭は疲れきってもう眠ってしまいたいと訴えているのに、意識は興奮で急激に冷めていく。
 甘いだけじゃ満足できない。
 もっと色々シてほしい。
 俺の気持ちなんて知らないで寝こけているの吐息が耳を掠めて、その度に生唾を飲み込んだ。
 ほんの少し。ほんの少しでもがその気になって俺に触れたなら、そのままなし崩し的に求めるようなことになってたかもしれない。
 けど、何もなかった。何もなかったから、あのときも、意識が落ちるまでをただ意識して、一人でシた。相手がすぐ横にいるってのに、平和に眠ってる寝息と少しの汗のにおいを慰みに、一人で抜いた。今みたいに。
(俺は何をしてんだろうな……)
 今も。今までも。
 これからもこんな虚しさを抱え込んで生きていくのかと思うと泣けてきた。
 手の届くところに相手がいて、すべてぶちまければきっと笑って許してくれるのに、どうしてもそれができない。どうしてもできない。…できないんだよ。
(ごめん。