「とりあえず、どうだろう。私とデートでも」
 朝。にっこり笑顔の太宰にそう言われて、ぼくは呆れてしまった。
 思わせぶりなことはしないでほしいと昨晩言ったばかりだと思ったんだけどな。それとも太宰はもう忘れちゃったのかな。
 当然、昨日の夜は何もしなかったし、何もなかった。中也に誓ってそう言える。
 でもぼくも男だから、あんまり煽られるとプチンときてしまうかもしれない。そういうところを配慮してほしい…と、太宰には言ったつもりなんだけど。
 包帯を巻くのはもう趣味、という太宰は、怪我もしてない腕に慣れた手付きでくるくると包帯を巻きながら、どこか得意げな顔だ。
「今の君に必要なのはズバリ、煮詰まった気持ちの解消だろう。自分と中也の問題、というところに私を巻き込むと決めたわけだし、まずは意識を広く持とう」
「はぁ…。それでどうして太宰とデートしないといけないんだ」
「アレッ、おかしいな? 私のこと嫌い?」
「……好きか嫌いかの二択なら、好きだよ」
 渋々言うと、何がおかしいのか太宰が笑う。「良い人だねぇ、は。私のことなんか大嫌いだと言ってくれていいのに」「…別に、そこまでは」好きか嫌いかと言われれば間違いなく大嫌いだと言いそうな中也のことを思い出しかけて、やめる。それは意味がないんだってば。
 良い酒は悪酔いしないらしく、酔い潰れはしたものの、二日酔いの傾向は弱い。少し頭が痛いくらい。
 お金を払って(ちゃんと割り勘にした)ラブホの外に出ると、頭上からはジリジリとすでに暑くなり始めている夏の陽射しに、汗が滲む夏の温度がぼくらを出迎える。ああ、なんて嬉しくない歓迎なんだ。
 強い陽射しに嫌になりながら、しっかりと日焼け止めを塗った手で鞄から日傘を取り出す。
 男子でも、ぼくはアルビノだから、紫外線には敏感なのだ。太宰もそのことを憶えているみたいで、ぼくが日傘をさしても茶化したりはしない。
「それはいいけどさ。着替えたい…」
「ああ、確かに」
 シャワーを浴びて寝たとはいえ、昨日と同じ服だ。気分的にもスッキリしない。これでデートはないだろう。
 ならまずはお互い服でも買おうか、と路地裏を気軽な足取りで行く太宰に、砂色のコートのその背中に、ぼくはこう思っている。

(どうして、そこにいるのは太宰なんだろう。どうして、中也じゃないんだろう……)

 それで、裏通りを出て、開いている適当な店に連れ込まれて試着室に押し込まれたかと思えば、突き出されたのは趣味でもない浴衣だった。ちょっと、ガラが派手。
「なんで浴衣…」
「あれ、知らないの? 今日は花火が上がるんだよ」
「へぇ…」
「日本の花火と言ったら浴衣と決まってる。ってことでハイ、着てね」
 問答無用だった。さすがザ・マイペースの太宰。
 そんなわけで、ほぼ強制で浴衣を購入し(いつの間にか太宰も浴衣だった)、昨日着てたスーツその他はもらった紙袋に押し込んだ。
 ちゃっかり下駄まで用意しているから、足元まですっかり夏祭り気分だ。
 カラ、コロ、と歩きにくい下駄を鳴らしながら、太宰に引っぱられてショッピングモールに入る。日傘をたたみながら「買い物したよ」「お腹減ってきた」「ああ、そういえば…」慣れない下駄で歩くのに集中していたせいか、空腹は言われて気がついた。朝から何も食べてないんだっけ。
 太宰に引っぱられるままスタバに入る。
 意外だな。太宰はこういう、俗物的なところは嫌いで知らないんだと思ってたけど、そうでもないみたいだ。
「私はねー、フラペチーノかな。暑いから」
「食べ物は?」
「甘いの以外で任せた〜」
「はいはい。太宰は席取ってて。ぼくが買ってくる」
 役割分担で、ぼくが注文と受け取り、太宰は席取りで先に座っていてもらう。
 二人分の飲み物とサンドイッチを二種類購入し、サンドイッチは先に持っていってやることにする。お腹空いてるだろうし。
「…、」
 ふと、客観的に、遠目から浴衣姿の太宰を見て、整ってるなぁと思った。
 ところどころ覗く包帯がアンバランスなのに、それがマッチして見える、どこか気だるそうな雰囲気と表情。そのくせ近づいてくるぼくに気付くとぱっと笑顔を浮かべて「わーい」と喜ぶ子供のような顔。…太宰の周りにいる女の子がどこか浮足立ってそわそわしているのもわかるってものだ。
 サンドイッチの載ったトレイを置いて、飲み物を取りにカウンターのランプの下へ。
 デートだ、と太宰は言ったけど。どこまで本気に取ればいいのか。いや、本気に取っちゃいけないんだろうけど…。
 太宰の見た目は、決して悪くない。包帯を手放さないし自殺趣味もあって問題たっぷりだけど、太宰に本気で迫られたら、ぼく、抵抗できるかなぁ。なんて。まぁ、そんな可能性はないから大丈夫。
 コーヒーフラペとダークモカチップフラペを持っていく。「どっちがいい?」「んー」どちらにしようかな、で「こっち」と適当に選んだ太宰にコーヒーフラペを渡す。
 席について、エビとアボカドのサンドイッチをかじる。…うん。久しぶりに来たけど変わってないや。
 ダークモカチップのフラペは、思ったよりは甘いかも。冷たくておいしいけど。
 お腹を満たしたあとは、ショッピングモール内を連れ回された。
 映画、ゲーセン、中途半端な時間に飯を食べて、腹ごなしにショッピングモールを歩いて、午後の気だるい夏の空気が充満する外に出る。もうだいぶ傾いたとはいえ、陽射しは依然として強く、一言で言えば、ただ暑い。
「そろそろ向かわないと」
 携帯で時刻をチェックした太宰に、ふと、自分の携帯をスーツのポケットに入れっぱなしなことを思い出す。
(まぁ、いいか。今日くらいは。明日首領に土下座して謝ろう)
 太宰に引っぱられるままカラコロと下駄を鳴らして歩いて、電車に乗る。
 駅に止まる度に、電車の中は浴衣を着ている人の割合が多くなり、花火の会場がある駅はそれこそ浴衣の人間でごった返していた。
 駅を出る前からこれだ。会場はさぞすごい人なんだろう。
「うわぁ…」
 人の多さに思わず呻くぼくに、太宰が手招きしてる。「ー、こっち」「ちょっと待って」背が高いし包帯というトレードマークでわかりやすい太宰を追いかけるものの、太宰ほど背があるわけでもないぼくは、人混みに埋もれがちだ。ガタイがいいわけでもないから人の波になかなか逆らえない。
 前に行くのに苦戦していると、すいすいと人波を器用に避けてやってきた太宰がぼくの手を掴んだ。さっきまでは手首か腕だったのに、今は普通に手を握ってくる。…この暑さでどこか汗ばんだ手に、太宰でも汗とかかくんだなぁ、なんて当たり前のことを考える。
「人の中を泳ぐのがヘタクソだなぁ。世渡り上手になれないよ?」
「うるさい」
「はい、こっちー」
 人を避けて歩くことに慣れてるのか、下駄を鳴らしながらすいすいと歩いていく。
 太宰にリードされるまま人混みを抜けて駅を出る。途端、パラパラパラと空に光が満ちた。花火はもう始まっているらしい。
 駅の冷房がなくなったことで、外はうだるような暑さだった。しかも花火の音がうるさい。
 この空気は、裸になっても暑い気がする。日本は日が沈んでも暑いから困る…。普通、日が沈んだら少しは涼しくなるものなのに。
 暑さにげんなりしながら髪を背中に払った。
 長くても結べれば鬱陶しくないかと思ったけど、そうでもない…暑い……。
「なんで、日本はこんなに暑いわけ?」
「ここは海辺だからまだマシなんだよ。盆地なんかはサウナさ」
 夏はなるべく引きこもって雑多なデスクワークを引き受けているぼくとしては、そんな悪夢みたいなことは避けたかった。今だって、花火を見るくらい、涼しい建物の大きな窓からでいいじゃないか、なんて思ってしまう。
 …こういうこと、女の子に言うと怒られるんだろうけど、相手は太宰だ。先を行く太宰の包帯の手を引っぱって「今からホテル、行かない?」ラブホじゃなくて、普通の、宿泊するホテルという意味のホテルね。
 太宰は不思議そうな顔でこっちを見ている。「なんで? ここまで来たのに」「だって、暑い…」お店の人にしっかり着付けてもらったのに、あまりの暑さに浴衣の前を崩してしまうくらいには暑い。
 太宰は呆れたような顔で、汗で額にはりついている前髪を指で払った。
「中也とデートする練習だとでも思って、頑張りなさい。この私が頑張ってるのに、が頑張らないとか、許されないでしょ」
 ぐい、と強く手を引かれた。…太宰はこの暑い中、人混みの中、どうしても花火を見るつもりらしい。
 頑張っている、と言った太宰の背中を見ながら、人混みの中を歩いて夏祭りらしく露店の出ている会場に入った。駅よりもずっと人でごった返していて、もう、暑い。それしか言葉が思いつかないくらいに暑い。
 でも、中也とデートする練習だと思えば…。いつか中也とこんなふうに出かけるのだと思えば。その練習なら。もうちょっと頑張れるかもしれない。うん、頑張ろう。頑張る。
 これは中也とのデートの練習。これは中也といつかするデートの練習。
 そう自分に言い聞かせながら、太宰と夏祭りの露店を巡った。
 時折花火に足を止めながら、ヨーヨーすくいをして、射的をして、綿菓子を買って食べて、かき氷を食べて、太宰が欲しがったからお面も買った。
「夏祭りに来たのなんて、まともに考えると初めてかもしれないなってさっき気付いたんだけど。いやぁ、思ってたより楽しいね!」
 浴衣姿の太宰は、そう言って狐の面を揺らし、上機嫌そうに笑んでいる。その顔が花火の緑の光に照らされる。
 …そこにいるのが中也だったら。ぼくも心からそう思って笑えただろうか。
 だけどそこにいるのは太宰だ。どう見ても、どう触れても、太宰でしかない。
 気付けば露店が途切れる会場の端の方まで来ていた。木立があって空を見上げるのを邪魔するからか、この辺りには人が少ない。
 あー疲れた、ちょっと休憩、と下駄を投げ出して木の下に座り込む太宰がとても、無防備で。太ももが見えそうなくらい崩れた浴衣がどうしようもなくぼくの中の劣情を煽る。
 頭の中で、何かがプチリと切れたような音がした。
「太宰」
「んー? なに、」
 無防備だ、と感じる太宰の前に膝をついて顔を寄せてキスをした。
 ドーン、と花火が上がる音がする。空に咲いた花は黄色。
 太宰はとくに驚いたふうでもない。抵抗しないし、動きもしない。
 触れていた唇を少しだけ離す。喋れるように。「煽らないでほしいって言ったのに」「…今の、煽ってた?」「ぼくにとってはね」はだけた浴衣から覗く太ももに手を置く。それで初めて気付いたらしい太宰が視線を落として「ああ、うん。これは私が悪いな」とぼやいてぼくに視線を戻す。そして、太宰は困った顔で笑む。
「なんて顔をしてるんだい、
 …知らないよ。今どんな顔をしてるんだろうね、ぼくは。
 ドーン、と花火の音がする。花火の音と、対抗するように、夜でも鳴く蝉の声。
 伸びた太宰の手がぼくの頬を撫でた。「気分転換になるかと思ったんだけど、余計に恋しくさせただけだったかな」すまない。そう言われて、ぼくは自分が泣きそうなことに気付いた。
(中也)
 ここにはいない人のことを思う。
 ぼくより小さいのに好戦的で、ぼくよりずっと強い人を。だけどお酒が好きなのに弱いとか、どこかかわいいトコがある人を。
 中也とキスがしたいし、中也とならそれ以上だってシたい。相手が中也なら、このままここで浴衣を剥ぎ取って襲ってしまうのに、そこにいるのが太宰だから、ぼくはそれ以上ができない。
 太宰の肩に頭を押しつけて、汗と涙の混じった雫を落としながら、静かに泣いた。
 中也が恋しい。中也のことが恋しい。声を聞きたいし、姿を見たいし、いつかみたいにぼくに笑ってほしい。たったそれだけのことなのに…どうして叶えてくれないんだろうか。神様。
 かみさま、と心の中で呟くと、どこかに落ちた。意識が。「…っ?」ごぼ、と口から気泡が上がる。
 水の中。だけど苦しくない…。
 この、景色。
 すべてが淡くて、どこか虚ろで、海の底のようでいて、空の中のように明るい、泡沫の世界。
 …随分長いこと、忘れていた。
 ぼくはここに入り浸っていた。中也に助けられるあのときまで、ぼくはこの淡い世界で、虚ろな夢を見ていた。
 珊瑚のような淡い何か。海藻のような淡い縮れ雲。ときたま通り過ぎるぼんやりとした生き物たち。見上げた空は、海面なのか、淡くゆらゆらと波打っている。
 かつて、ぼくはこの世界の住人だった。
(…、だざい)
 でも、ぼくはもうこの世界から抜け出したのだ。これは夢だ。ただの夢だ。覚めろ。醒めろ。さめろ。さめてくれ。
(だざい。ぼくを。よんで)

? 、しっかりしなさい。
「、」

 太宰の声にはっとして顔を上げると、じんわり、暑さを感じた。…日本の夏の温度だ。
 目の前には浴衣を着た太宰がいて、おそらく、一時的に意識を飛ばしたぼくを心配して額に手を当てている。「具合が悪い? 陽射しが強い中無理をさせたかな」現実を確かめるため、その手に自分の掌を被せる。
 …うん。暑い。夜になってもじっとりした空気に、人の温度。
 ここが、ぼくの、現実だ。淡い夢はもう終わった。終わったんだ。