太宰に背中を押されるようにしながら、ぼくと中也の管轄であるポートマフィアのアジトが近い地下鉄の駅を出た。
 カラリ、と足元で下駄が鳴る。
 これで歩くのも、少しは慣れた。…今日が終わったら、もうしばらく出番はないだろうけど。
「もう、ここでいいよ。大丈夫」
 押し出した声は、駅の壁に止まって懸命すぎるくらいに泣き叫ぶ蝉の声に消されてしまった。
 浴衣姿の太宰がポリポリと指で頬を掻いている。「ぜーんぜん、大丈夫そうには見えないんだけど?」「大丈夫。太宰は、見られたらまずいだろう。ここに人は少ないはずだけどさ」そう言うと、太宰は困った顔で肩を竦めた。
 ポートマフィアには鉄則と言われる掟がある。太宰はそれを破った。
 ポートマフィアの人間からすれば、太宰は掟を犯した大罪人だ。
 ぼくは、太宰のことをそうは思えないし、だからここまで『友人』として付き合ってきた。でも、組織の人間が現れてその面を削ぎ落とされれば、ぼくも、ポートマフィアの人間として太宰と向き合わなきゃならない。…そうはしたくない。だから、ここまでだ。
 ぼくの言いたいことは伝わったようで、太宰はひらひらと片手を振りながらぼくに背を向けたところだ。
「じゃあ、まぁ、私はここで退散しよう。だけど気をつけるんだよ。アジトに戻るまでは気張ってね。体調にも気をつけて」
「わかってる」
「それから、中也とは、無理に向き合おうとしないでいい。私が色々考えておくから」
「…うん」
「じゃあね。おやすみ
「おやすみ、太宰」
 今出たばかりの改札をまたくぐっていく太宰を見送って、うるさい蝉に目を向ける。「…よく鳴くなぁ」一人ぼやいて、カラリ、コロリ、と下駄を鳴らしながら、夜も進んで人通りの少ない道を歩いていく。
 通り慣れた道だ。ここで異常を察知できないようなら、ぼくはポートマフィアとして失格だ。だから、この道は大丈夫。何事もなく帰れる。
 だけど、太宰に言われたとおり、気張っていこう。
 そうやって周囲に気を張り巡らせながらカラコロと下駄を鳴らして歩いていると、なんとなく、違和感、を覚えた。「…、」そっと背後を振り返ってみる。半分が暗闇の視界に違和感はない。いつもの倉庫街だ。だけど。でも。何かが…。
 気のせいか、という体を装って前に向き直る、刹那、視界の端でグニャリと一瞬だけ歪んだ景色を見逃さない。
 透過、だ。
 頭をフラッシュバックするのは、昨晩、太宰が追い払ってみせた、自分を景色に透過させる能力を持つ異能力者のこと。
 あのとき太宰が追い払った誰かがいる。
 土は。水は? とっさに周囲を見回してみるけど、ぼくがアクセスできそうなものは何もなかった。コンクリートの地面にコンクリートの壁。搬送に使われる鉄の箱。身につけているのは浴衣と下駄、紙袋にはスーツの上下と財布に携帯。
 携帯…。取り出すのに時間がかかる。誰かに連絡するにしても、間に合わない。
 じわり、と背中に嫌な汗が浮かぶ。
(中也……)
 こういうとき。中也がそばにいれば、ぼくが気付くよりも早くにすべてを処理して、ぼくが気付いて振り返る頃には、相手はぺしゃんこになっていた。
 …ダメだ。しっかりしろ。今ここに中也はいないんだ。ぼくが自分でなんとかしなくちゃ。こういうことはあまり得意ではないけど……。
 おいで、と口の中だけで呟いて掌を空に向ける。
 ぼくの呼び声に応えて、そっと、静かに、風が集まり始める。
 なるだけ気配を殺した足音がぼくへと迫っている。もうすぐぼくに手が届くだろう。その前にぼくがこれをぶつける。相手を吹き飛ばして、その間にアジトに駆け込めれば、なんとかなる。
 覚悟を決めて風を集めた掌でぐっと拳を握ったところで、バキン、と何か堅いものが割れる音がした。ぼくじゃない。透明になっている誰かでもない、第三者が立てた音だ。

「よォ」
「、」

 思わず、ぱっと顔を上げてしまった。気持ちが揺らいで、かき乱されて、せっかく集めた風も霧散する。「中也」そこには、ぼくが会いたくて仕方なかった中也が鉄のコンテナの上に立っていた。その足元が加重に耐えられずパキパキと音を立てている。そう、つまり、一言で言うと…中也はすごく怒っている。
 中也はコンテナから浮かび上がると、さっきまで踏んでたコンテナを掴んで、ペットボトルでも持つみたいな手軽さで片手でコンテナを持ち上げた。その目はとてもギラギラしていて、獲物を狙う猟犬みたいだった。
「今の俺は機嫌が悪い。これ、ぶん投げてほしいなら、そのままそこに立ってろよ。お望み通り潰してやる」
 中也は触れたものの重力を操ることができる異能力の持ち主だ。だから、今持っているコンテナを投げることも朝飯前だし、それの重力を操って、下敷きにしたものをぺしゃんこにすることもできる。
 ぼくの背後まで迫っていた誰かが、じり、と後退したのがわかった。その隙を逃さずぼくは一目散のに中也のもとへ行く。ああ、下駄が邪魔だ。走りにくい。
 駆け寄ってきたぼくに、中也は一瞥だけくれて、見えない誰かに視線を戻した。
 予告も躊躇いもなくコンテナをぶん投げた中也は、見えない相手に攻撃をヒットさせた。ズン、という重いものが落ちる揺れと、鈍い音に、鈍い悲鳴がコンテナの下から響いて、やがて消える。
 死んじゃった、ろうな。中也は甘くないから、仕方がないことだけど。
「ありがとう、中也」
 中也は、ぼくに何も言わず、ポケットに手を突っ込んで歩き出していた。それで、倉庫を管理するためのビルから慌てて出てきた黒スーツの部下に「てめェら、アレ片付けておけ」とコンテナを顎でしゃくる。…難しいことをさらっと。でも部下の人は「はい」と畏まるより他にない。
 さっさとビルに入っていく中也をカラコロと下駄で追いかける。
 ぼくらの沈黙に見合わず、カラコロ、下駄がうるさい。
 ああ、でも、今はこの音も悪くないかもしれない。ぼくらの間にある不自然な沈黙を、居心地の悪い空気を、少しでも和らげてくれる。
「……今のは」
 ぼそっとした声に、襲撃者のことを言っているんだろうと思って緩く被りを振る。「知らない。でも、二度目」「…そうか」うん、とこぼして、中也の表情を窺おうとしたけど、帽子でよく見えなかった。帽子、似合っているのに、今はちょっと怨めしい。
 会話がないままぼくの部屋の前に着いてしまった。
「中也、」
 何か。なんでもいいから話したいな、と思って口を開いたけど、「仕事、溜まってんぞ。明日からやれよ」と先に予防線を張られてしまって口ごもる。
 ……あくまで、仕事の話しかしない、ってこと、かぁ。そっか。この浴衣のこととか、夏祭りのこととか、太宰のことも…あのつかの間の夢も。中也に話したかったけど。中也は、そうじゃないんだね。やっぱり。
 悲しいなぁ、と思いながら、笑う。中也はぼくの顔なんて見ていない。「うん。ごめん」「俺じゃなくて、首領に謝れ」「うん。明日、そうする」悲しいなぁ、と笑う。中也はぼくの顔なんて見ていない。ぼくの目なんて見ていない。ぼくのことなんて、見ていない。
 なんか開きにくいな、と感じる扉の施錠はかかっていなくて、ぼくは逃げるように自室に入って後ろ手に扉を閉めた。
 閉めにくいな、と思う扉に背中を預けてその場にずるずると座り込む。
 なんか、具合が悪いな。アルビノである自分を自覚してるから、紫外線対策はしっかりして行ったんだけど、ただでさえ陽射しが強い夏に一日デートっていうのはちょっと無理をしたかな。
「…はは」
 浴衣、初めて着たけど。中也、何も言ってくれなかったな。今日無断で仕事を休んだのに、どこに行ってたのかとか、そんなことも訊いてこなかった。それで、そんなことが、ぼくはとても悲しい。
 誰かが無理矢理入ったから歪んだんだろう扉を思って、部屋を見てみたけど、とくに荒らされてもいない。
 きっと、無断欠勤したから、誰かがぼくの様子を見に部屋にきたんだろう。それで、返事がないからちょっと乱暴に扉を開けた。ぼくの所在を確認した。ああ、それで辻褄が合う。携帯を見たら何かしらの連絡が来ているのかも。
 じゃあいいか、と浴衣の帯を解いて着物ごと落としてベッドに倒れ込む。
(悲しいなぁ…)
 ほろほろとこぼれる涙を枕に押し付けて誤魔化しながら、中也のことを思う。
 もう、どのくらい、顔を見て会話していないんだろう。もうどのくらい、中也に触れてないんだろう。
 昔は当たり前みたいに顔を寄せていたのに。一緒にいたのに。
 どうしてこうなったんだろう。いつからこうなったんだろう。
 どうして。どうして。どうして。
(中也)
 ぼくに屈託ない笑顔を見せていたあの頃がとても懐かしい。
 戻りたい。あの頃に。あの頃みたいに。二人で笑っていたい…。
 ベッドに置いてある電子フレームの写真立てを引き寄せて目の前に掲げる。…フレームの中では、未来を知らない子供が二人、屈託なく笑っている。時間で切り替わる写真のどれもこれも、ぼくらは仲が良くて、いつだって寄り添っていた。
 どうして、ぼくらは、あのままではいられなかったんだろう。
 どうして。どうして……。