ある世界で最強だった僕が敗北し消え去ったことで、あらゆる世界線での僕という存在が無力化した。マーレリングという魔法みたいな力の使える指輪もただのアクセサリーでしかなくなり、その時点になって初めて、僕は孤独というやつを思い知った。
 ……雨が。降っている。
「いった……」
 橋の下で転がっていたところからよろけて起き上がると、身体が冷たかった。雨風を避けてここに場所取りしていたんだろうにこれか。おそらく、随分長い間この身体が意識から放置されていたということだろう。
 僕、何してたんだっけ。いや。どうしてたんだっけ。ああ、つまり、同じ意味か。
 嵐のように吹き荒れる雨風の夜の景色をぼんやり眺めて、改めて自分を見下ろすと、かなり薄汚い格好をしていることに気付いた。
 つまり…この世界の僕は浮浪者というやつなんだろう。こんなひどい天気なのに橋の下にいる辺りがまさしくそうじゃないか。着てるものはだいぶ洗ってないなって感じだし、髪、邪魔だし。かなり伸びてる。
 くしゃっと湿っぽい前髪をかき上げて、目を閉じて、空腹を感じた。あまり食べ物に執着しない僕がお腹が空いたって感じるってことは…だいぶ食べてないってことだ。
 ごそごそポケットや服の中をあさってみたけど財布らしいものは見当たらず、右の中指にあるマーレリングだけが小奇麗で、すごく、不釣合いだった。
 …こういうときはどうするんだっけ。
 所持金がゼロ、手元にお金になるようなものもなく、この嵐に橋の下に転がってたところを思うに、頼れる誰かもいない。早急なのは腹痛と勘違いするくらいの空腹で、これを満たさないといけない、と本能が告げている。
 よろりと起き上がる。痩せっぽちの自分を見下ろして、食べ物のあるところ、を考える。
 いや、それよりもまずここがどこかだ。嵐の夜の橋の下ということだけしか分からない。国も地域も分からない。現状を把握しないと。
 全世界の僕があの世界の僕に期待して意識を預けていただけに、今ここにいる自分というものがすごく曖昧だ。僕は、自分を再認識しなければならない。
 薄汚れたパーカーのフードを被り嵐の中に一歩踏み出せば、雨風に晒され、あっという間に身体の動きが固くなって体力がなくなって、冷たい、ということしか分からなくなる。
 建物。灯り。ここがどこか、分かるところへ。
 ガタンゴトンと大きな音が耳を突き刺して、顔を上げれば、さっきまで僕がいた橋、そこを電車が通過していた。ということは先進国だ。夜の嵐の中の電気の数を見ていてもそんな感じ。
 ちぇ、めんどくさいな。それじゃあ食べ物盗みに入ったらすぐ警察行きか。…困ったなぁ。どうしよう。
 パーカーから滴る雫と顔を打ってくる雨でぺったりとはりつく髪が邪魔だけど、払うだけの力がない。
 歩け。食べ物のあるところを探せ。先進国ならコンビニとかファーストフード店とかの、外のゴミ箱。そこに賞味期限切れの何かが入っている可能性がある。
 前へ。歩け。そう念じながら、電車が吸い込まれていった駅を目指して足を動かす。一歩ずつ、よろけるような動作でも、前へ。
 ……かつて。いや、ついさっきまで、全ての世界の自分と繋がっていたために『独りなんて大した問題じゃないさ』と思っていた僕は今、空腹と身体の冷たさで倒れそうになっている。
 あの世界の僕が世界の覇者になれば、どんな自分も幸せになれる。こんな浮浪者の僕でも幸せになれる。それが具体的にどんなことなのかは想像がつかなかったけど、あたたかい家があって、あたたかいご飯があって、あたたかい寝床があれば、それで上々。そんなもの簡単さと笑う僕に従っていれば、僕は救われるのだ。
 僕は、数多の僕は、自分達の勝利を疑っていなかった。
 結局、自分以外に大事な人がいない寂しい僕らだったから、誰よりも何よりも自分達を優先した。自分達を愛した。自分達が幸せなら他が不幸でもどうだっていいとした。だから、世界を敵に回して、そして、悪役らしく倒されたわけだ。
 今思えば当然の結果なのだろうなと自分を笑ってしまう。
 確かに、大事な人なんていない。君がいれば僕はそれで十分さ、幸せだよ、なんて笑って言える誰かはいない。僕は独りだ。僕らは独りだ。どんなに他世界の自分と繋がったってそう。結局僕達が愛していたのはその世界に生きる自分であって、そこに生きる自分が幸せになるために強い僕に従っていたんであって。だから、決して、他世界の自分が好きだったわけじゃないんだ。
 だから、こんなにも孤独なんだ。
 たとえ他世界の自分でも他人だとどこかで思っていた。あの僕は消えたのに、これでもう二度と他世界の自分と意思疎通をすることはできないのに、それが惜しいとも思っていない。
 僕は、独りだ。
 光に群がる虫にも劣る動きで、何とか駅まで辿り着き、ふらっとした動作で歩いて、駅の入口でがくんと膝が折れた。
 もう駄目だ。雨を吸った服が重くて、冷たくて。
 身体が冷たいよ。お腹が空いたよ。もう、歩けないよ。
 ぺたんと硬い地面に座り込んで蹲り、いっそ死んじゃおうかな、と考える。
 どのみち、このまま濡れて空腹が続いたら死んでしまうさ。この僕は身体が丈夫なわけでもなさそうだし、痩せっぽちだし、お金もないし、そばには誰もいないし。力もないし。あるのは他世界で共有した知識くらいだけど、さっきからそれもあまり思い出せなくなっている。マーレリングの無効化が記憶を侵食し始めてるんだ。そのうち僕はその辺にいるガキと大差なくなる。
 何もない、そんな自分、あの僕と同じく死んでしまえば。
「ちょっと大丈夫?」
(…え?)
 聞き覚えのある声をかけられて、遅い動作で顔を上げる。見覚えのある顔がこっちを覗き込んでいる。
 知ってる。日本語だ。ならここは日本なのか。小さな島国の先進国。
 …知ってる。この人を知ってる。あれ、でも誰だっけ? 名前も思い出せないけど、どこかの世界線の僕のそばにこんな顔の人がいた気がする。
 掠れた声でお腹が空いたと訴えると、雨風の音で聞こえなかったらしく「え? なんて?」と顔を寄せてきた彼に、ぎゅうと空っぽの胃を押さえた。「おなかが、すいた」と声をしぼり出せば、斜めがけの鞄をあさった彼が「ちょっと待ってて」と走り去っていく。
 僕はぼんやりとコートの背中を見送った。
 …知ってるのに、もう思い出せない。名前も。どんな人だったのかでさえ。
 知っている声、知っている顔。それすらそのうち忘れてしまうのではないか。僕は、本当に、何も分からない孤独へと打ち込まれてしまって、その辺のガキより劣った子供に。
 ぶるりと背中を震わせて、細い腕で冷えた身体を抱き締める。
 白蘭という存在が、闇の中でぽつんと白い色をしていて、徐々に黒に蝕まれ、侵食されて。消える。
「ほらやるよ。パンとカフェオレ」
「…、」
 のろのろ顔を上げると彼がいて、僕に向かってビニール袋を差し出していた。
 ……僕は、この人を、忘れたくない。
 自分の芯がそう叫ぶのを聞いた気がして、パンとカフェオレを受け取りながら思った。決意した。何もない自分、ここからそれを作っていこう、と。口に押し込むようにしてパンを食べながら、そんな僕を眺める彼を意識しながら、どんな手を使っても絶対彼のそばにいてやろうと、そう決めた。

 そうじゃないと寂しくて、悲しくて、僕は孤独に潰されて、死んでしまう。