最終の地下鉄に飛び乗って終点である地上の駅で降りたら、外は土砂降りの雨だった。おまけに雷までゴロゴロと低い音を鳴らしてこちらを牽制しているというひどい天気。
「まじかよー…」
 駅から歩いて五分という好立地のマンション(六階建ては果たしてマンションという呼び方でいいのか自信はない)から電車に乗って職場へ。ちなみに職場は地下鉄の駅構内にあるブティック店で、一度部屋を出て地下鉄に乗ってしまえば帰るまで外を見る機会がない。それゆえ、俺は傘なんて持ち歩く生活をしていない。あっても邪魔なだけだ。電車で忘れるとかよくあるし。折り畳み傘なんて上品なものも持ってない。あっても重いし。
 何が言いたいって、即ち、この土砂降りの雨の中濡れて帰るか、もう少しでも雨が止むのを待って駅で足止めを食らうしか選択肢がない。
 駅構内のコンビニでビニール傘、と思ってコンビニに行ったけど、この急な雨に皆考えることは同じらしく、傘は売り切れていますと言われた。
 濡れて帰るかもう少しでも勢いが弱くなるのを待つか。さあどうする、と考えながらコンビニを出て構内を歩く。雨はまだまだ止みそうにない勢いで外のアスファルトをザアザアと打っている。
 ちぇ、と舌打ちして携帯で天気予報を確認すると、やっぱり雨の予報なんて出ていない。じゃあ通り雨かな。それにしてはひどい勢いだけど…。
 春の雨だなぁ。いや、この場合春の嵐か。風も強いし。
 少しでも勢いが弱くなったら走って帰ろう、とマンションのある西口でスタンバって、暇潰しに携帯をいじる。
 特に連絡する相手とかがいない。気軽な会話を振る相手もいない。携帯は情報端末であって仕事用の連絡手段でもあり、それ以上ではない。
 ……はー、と深く息を吐いて、俺何してんのかなぁ、と思った。こういうときに軽くこの雨だろー傘忘れちゃってさぁ、頼む、迎えに来て! とか言える友達一人くらいいたっていいだろうに。
 白々しい色に蛍光灯を照り返す白いのか汚れて灰色になったのか判別しにくい色の壁にゴツと頭を預け、はぁ、と脱力すると、猫背だと注意される姿勢がさらに丸くなる。
 もうさ、なんていうの。女にも興味持てなくなってきてんだよね。仕事先で飲み会という名の合コンとかあるけど、行っても楽しくないし。高収入・高身長・高履歴みたいなのを基準に相手を選んでるのとか分かってるからさ。妬み僻みっていうより、これは、なんていうの。そういうことに身体も心も渡して楽な方を選ぶ女って生き物に対する…うん。
 そんなことを思ってるうちに図ったようなタイミングで携帯がメールの着信を知らせた。相手は…誰だっけなこれ。憶えがない。ってことは合コンで知り合った誰か、なんだろうけど。返事するとめんどくさそう…。
 ああ、これじゃ駄目だな、とは思うんだけど。だからって今更恋人探しに一生懸命になる気もしないというか。セックスしなきゃ生きてけないわけじゃないし。どうしてもしたいってなったらキャバ嬢とか頼ればいいんであって。
 返信しないまま携帯をポケットに突っ込んで、土砂降りのままの雨模様を一つ睨んだときだった。雨風で揺れて見える景色の中からふらりと人影が現れて、全身ずぶ濡れの濡れネズミみたいな格好で駅の入口に入ってきた。そしてそのままぺたんと座り込んで蹲るから、え、ぐあい悪いとか、こんなに濡れて急に身体冷えたとか、と寄って行って「ちょっと大丈夫?」と声をかけると、ずっしり水を吸ったパーカーのフードの頭が持ち上がった。
 フードで隠れて見えなかったけど、相手は白い髪をしていた。派手だ。染めてんのかな。それに、顔面蒼白だ。春先とはいえ今夜は冷え込んでるし、このずぶ濡れは放置すると身体を冷やすだけだ。
「…た」
「え? なんて?」
 土砂降りの雨の音で聞き取れず顔を寄せる。
 相手はぎゅうっと自分の腕で腹辺りを押さえたあと、「おなかが、すいた」とこぼしてまた蹲った。
 …え、腹減りでそんなになってるわけ。ぐあい悪いとかじゃなく。いや、空腹だって極度のときはぐあい悪いのと一緒だけど。
 なんか持ってたかなぁとゴソゴソ鞄をあさっても何も持っていなかったため、「ちょっと待ってて」と言い置いてまたコンビニへ。ビニール傘は相変わらず売り切れ状態だったので残りもののパンとあったかい飲み物を買って戻る。
「ほらやるよ。パンとカフェオレ」
 ガサリとビニール袋を揺らした俺に、のろのろと顔を上げた相手がじっとこっちを見つめてきた。「ぼく、おかねが…」「あーいいよいいから。ほら食って」腹減りすぎて今にも倒れそうな奴に先に金とか言うほど俺も冷たくはない。三百円くらい奢ってやるよ。
 その場に座ったまま口に押し込むようにしてパンを食べ始めた相手を眺めて、立って見下ろしたままなのも、と腰を下ろす。
 外は相変わらずの土砂降りだ。まだまだ止みそうにない。これは、濡れること覚悟で走って帰るしかないな。
 がふがふとすごい勢いでソーセージパンを平らげるとごくごくとこっちもすごい勢いでカフェオレを空にして、ぷは、とようやく一息吐いた相手が満足そうに薄っぺらい腹をさすった。「はぁ、生き返った。ありがとー」とへらっとした笑顔で笑いかけられて「そりゃよかった」と返し、よっこいせと腰を上げる。飯の面倒は見たんだし、とりあえず死にそうではなくなったし、家に帰って風呂に入ってしっかりあったまれば風邪もひかないだろう。
 じゃ、と片手を挙げて雨の中に飛び出そうとして、むんずとコートを掴まれて、走ろうとしてただけに勢い余って転びそうになった。何とか耐えたけど。
 おい、と目を向ければ濡れネズミの白いあいつが「ねぇ、僕家ないんだ。このままじゃ風邪ひいちゃう…今晩だけでも泊めて」とか言うから「はぁ?」と引っくり返った声を上げてしまい、そんな声を上げた口を掌で塞いだ。地味に構内に響いたぞ、今の。恥ずい。
 潤んだ目でこっちを見上げている相手に閉口気味になって、なんか、犬か猫みたいだな、と思う。
 つか家がないって……ああ、確かに、濡れててあんまし気付かなかったけど、パーカーはだいぶ汚れた色をしてる。髪も半端に長いし。金持ってないって言ってたけど本当それっぽい見た目してるし。そういや足元この雨なのにサンダルだ。
 がしがし髪をかいて「いや、それはちょっと」と口ごもる俺に「捨てないで、お願い! 僕何でもするからっ」とか通り行く人が勘違いしそうな言葉を放って縋りついてくる相手にますます閉口気味になる俺である。おいいい加減に、とイラッときたところでタイミング悪く通りかかった駅員が怪訝そうな目でこっちを一瞥する。
 駅員さん違うんです、そんな目で見ないでください。ついさっき五分くらい前に会っただけの全然知らない相手なんですほんとです。俺とこいつにはなんの関係もないんです、と声を大にして言いたい。
 が。俺がそう主張したところでこの分だとこいつは違うそうじゃないとかなんか言い返してきてものすごく面倒くさいことになりそうだ。で、言い争いを繰り広げる俺達にこりゃ駄目だと思った駅員が最終的に警察とか呼びそう。それはさすがに勘弁したい。サツ呼ばれて話が無駄に長引きでもしたら明日の仕事に響く睡眠時間しか得られない気がする。
 ちぇ、と舌打ちしてがしとパーカーの腕を掴む。濡れていて冷たい。そして、通っている腕が細い。見た目からして華奢だとは思ってたけど。
「分かった! 分かったから立ってくれ。俺んちまで走って二分くらいだからついて来いよ?」
「うん!」
 ぱっと笑顔を浮かべた相手がよいしょを立ち上がる。
 突然のこの土砂降りといい、この拾い物といい。今日はツイてないな。
 仕方なく拾い物をして濡れネズミになって帰宅し、無人の部屋にただいまを言うでもなく「ちょっと待ってろ」と言い置いて、脱衣所で濡れた服を取っ払って洗濯機に突っ込んだ紺色のスウェット上下を引っぱり出して着て、ぐしゅ、と聞こえたくしゃみの音にバスタオルを持って玄関に戻る。
「それ脱げ。掃除めんどくさいし濡らしたくない」
 床のことを言う俺に「はーい」と首を竦めた相手がもそもそ濡れた服を脱ぎ始めた。その間に自分の髪を拭いつつ、着替えを探しに廊下を行って部屋を横切り、チェストの引き出しから色違いの灰色のスウェット上下を持って玄関に戻る。脱げっつったのにジーパンだけ穿いたままバスタオルにくるまってる相手に首を捻ったら「あ、その、これ脱いだら素っ裸になっちゃうから」とか照れくさそうに笑われて、俺は顔を顰める破目になるわけで。…パンツ穿いてないのかよ。あ、その金もないってことか。コインランドリーで洗濯とかもできないわけだしな。
 まぁいいけど、とスウェットの上下を預けて「はい着て」と着替えを促す。「お借りしまーす」とバスタオルを外した相手の身体に何となく目がいって、その細いことに目を眇めた。少年かってくらい細い。
「お前、ほんと浮浪者なわけ? 家ないの?」
「ないよ」
「じゃどーやって今まで暮らしてたんだよ」
「んー? 公園で寝たり、橋の下で寝たり。コンビニで賞味期限のきた廃棄弁当あさったり? ぼーっとしてるとたまにおばちゃんとかがお金くれるから、ときどき、それで銭湯でお風呂入ったり」
 ふーん、とぼやいて風呂場に取って返し、洗面器を持ってきて、その中に濡れた衣服を入れて順番に運んだ。あっという間に洗濯機がいっぱいになる。明日は何が何でも回さないと。
 頭からバスタオルを被ってとたとた廊下を歩いてきた相手がひょこりと覗き込んできた。「ねぇ、まだ寒い」とスウェットの腕をさすっている。そりゃそうだ、あんだけ濡れてれば身体が芯から冷えてるよ。
「今から風呂入れると時間かかるし、シャワーな。お前の方が濡れてるし先いいよ」
 すっと場所を開けると「ありがとー」と笑った相手が「あ、」と気付いた顔で俺を見やって「僕白蘭っていうんだ」と言う。は? と首を捻った俺に「だから、名前。白蘭」「ビャクランん?」「んが一つ多い」余計なツッコミをしつつもそもそスェットを脱ぎ始める白蘭に、パタン、と脱衣所の扉を閉める。
 なんだ白蘭て。あいつ中国人か何かか? それならアブれてる理由も何となく説明がつくけど…ってこれは偏見か。
 はー、と深く息を吐いて携帯を取り出す。もう二十二時半か…。この分だと早く寝れても二十三時を余裕で過ぎるな。寝るのが趣味な俺には辛い。
 明日も、仕事で。それでやっと二日の休みが来る。来たって特別することはない。映画借りてきて見るとか、たっぷり昼寝して睡眠を漫喫するとか、そんくらい。
 のろっとした動作で部屋に戻ってソファにどかっと座り込んで、ぐたりと脱力する俺の耳に届いてくるのは、白蘭がシャワーを浴びる音だ。あと、なんか鼻歌口ずさんでる。他人様の家押しかけといて結構にリラックスしてるなお前は。まぁいいけどさ。
(…そういえば、俺、この部屋に誰かを上げたのって初めてかも……)
 ぼんやりとそんなことを考えて、瞼を閉じる。
 俺もそれなりに濡れてんだからちゃちゃっとシャワー浴びて出ろよ。三分で急かすからなこの野郎。