ジャッ、と耳に慣れない音を聞いて、目覚ましより先に目が覚めた。
「……?」
 何の音、と寝起きでぼやけてる頭と視界でのそっとベッドから起き上がって、音がしたキッチンに顔を向けると、灰色のスウェット姿の誰かが立っていた。俺が起きたことに気付くと「あ、おはよー」とか営業スマイルみたいに完璧な笑顔を浮かべてみせる。
 その笑顔をぼーっと五秒くらい眺めて、がばっと起き上がってベッドを下りた。「お前、何勝手に人んちの冷蔵庫を」「朝ご飯作ってあげようと思って」「あのなぁ…」あれ、いけなかった? とでも言いたそうなきょとんとした顔に、そのマイペースさに怒気を削がれた。いい性格してるよお前…。
 フライパンの中ではベーコンがこんがり色になっていて、そこに卵が二つ落とされた。その手つきに迷う素振りはない。家がないって言ったわりには白蘭は物は知ってるらしい。
 ちょうどいいタイミングでトースターでチーンと食パンの焼ける音がした。「あ、焼けた」とパンを取り出す細っこい姿を眺めて、視線を外す。
 朝食はベーコンエッグサンドで手早くすませ、洗濯機のスイッチを入れて出勤の用意をすませ、白蘭に五千円札を握らせた。きょとんとする白蘭に「あげる。そんで新しい服でも買って。靴でもいいし。俺今から仕事なんだ」「あ、うん。行ってらっしゃい」「お前も一緒に出るんだよ」細い背中を押してサンダルを履かせて、まだ寒い足元に思いとどまって靴箱の引き戸を開ける。履いてない靴を探して「これ履ける?」と放れば、ずぼっと足を突っ込んだ白蘭が「ちょっと大きいけど、靴紐締めれば何とかなりそう」「じゃーそれもあげるから」はい出て、と背中を押す俺に白蘭が肩を竦めて靴を履き、逆らわずに外に出た。昨日の雨が嘘みたいに空は晴れている。
 ずぶ濡れの濡れネズミで腹減りすぎて倒れそうだったところは助けたんだ。俺は今日仕事だし、これ以上好き勝手されても困るし。着てたもんはまだ洗濯できてないけど、どうせボロボロで汚れてるわけだし、そのスウェットと靴もやるし、金もあげるから、もう出て行って。
 言葉にしなくても俺の考えなんて伝わったろう。白蘭はマンションの前で「お世話になりました。これも、これも、お金も、ありがとう。大事に使う」靴と服を指してぺこりと頭を下げる姿を眺めて、視線を外す。もう行かないと。
「じゃ、まぁ元気で」
「そっちこそ、元気で」
 じゃあ、とマンションの前で左右の道に別れる。俺は駅へ行くための道を、あいつはその反対に向かう道を、それぞれ歩き始める。
 いつも通りの時間の電車に乗り、いつも通りの時間に着いて、いつも通りに開店準備して仕事して、昼休みを挟んでまた仕事して。
 週末を控えた金曜だから客が多い中営業にしか使わないスマイルを浮かべていると、無理なくぱっと笑顔を浮かべてこっちを見ていた白い髪のあいつを思い出した。
 …もう会うこともないさ。あいつのあのルックスと笑顔があれば人情に訴えかけてどっかに雇ってもらうこともできるだろ。そしたらバイト生活くらいはおくれるさ。五千円やったんだ、それを有効活用できないほどあいつも馬鹿じゃないだろう。
 と、帰りの電車の中で考えつつ終点で降りて、あーダルかった、と一週間の仕事の疲れが出ている身体で階段を下りて、西口から歩いて五分のマンションへ。
 かつ、とコンクリの地面を踵を鳴らして歩いていると、マンションの玄関を照らす蛍光灯の下に灰色のものが蹲っているのに気がついた。髪は白っぽく無造作にあちこち跳ねている。
 ……間違いない。あいつだ。
 かつ、と高い音を鳴らして膝を抱えて蹲っているスウェット姿の前に立つと、のろりと顔を上げた白蘭が大きく目を開いた。「あ…」とこぼしてひょろりと細い腕が伸びてジャケットの袖を掴む。
「なんでいるんだよ」
「…あの……その」
 口をもごもごさせる白蘭が鬱陶しい。「五千円やったろ。それ上手に使って服買って、どっかで仕事探せ。お前のルックスと笑顔なら雇ってくれるとこもある」「…でも」まだもごもごする白蘭が鬱陶しくてジャケット掴む手を振り払った。ぱしん、と乾いた音が春の夜の中に響く。
「なんだよ、昨日助けてやったろ。あれじゃ満足できないってか」
「そうじゃなくてっ、僕、」
「もう知らねぇよお前なんか。とりあえずどっか行けよ。鬱陶しい」
 吐き捨てた俺に白蘭は傷ついた顔をした。「待っ」と声を上げて俺を引き止めようとする白蘭を振り払ってオートロックの玄関で手早く番号を押してガラスの扉を押し開け、ゴン、と閉める。それで俺と白蘭の間に壁ができて、ばん、とガラスに手をついた白蘭が何か言おうとするのを聞かずにエレベーターに乗り込んだ。
 俺もそこまでお人好しじゃない。一人だから十分だと思ってるけど二人養うほどの給料はないんだ。五千円だってやったし、明日は休みで、一人でごろごろする予定でいるんだよ。もうお前のことなんか知らない。
 翌日、目を覚まして、のそっと手を伸ばして携帯の画面を点灯させる。十時…さすがに寝過ぎた。
 休みモードに入ってダルイ身体で起き上がり、朝昼兼の適当な飯を作って食べて、テレビをつけ、なんもやってないなと嘆息し、仕方ないなんか借りに行くか、と腰を上げる。適当に着替えてジーパンに財布と携帯を突っ込んで部屋を出て施錠、エレベーターで一階まで下りてガラスの扉のロックを解いて外に出て、足を止めた。
 マンションの前に蹲っている灰色のものがある。昨日と同じ位置だ。昨日もあそこで俺が帰ってくるのを待ってた。
 俺のあとからやってきた住人が怪訝そうな顔をしながら玄関先に蹲る白蘭を見やって、立ち止まってる俺にちらりと視線をやって軽い会釈をして去っていく。
 はー、と深く深く息を吐き出した俺は、蹲っている白蘭の背後に立った。「おい」と威圧的に声をかければ、のろりと顔を上げた白蘭が眩しそうに目を細めて俺を見上げ、目を丸くする。驚いた顔に嬉しそうな色を混ぜて手を伸ばしてくる、その手を払いのける。
 鬱陶しいって言ったのに、なんでまだいるんだよ。つーかなんだよ、昨日あれからずっと蹲ったままここで夜を明かしたとか言うんじゃないだろうなお前。今日も同じことしてたら管理会社に通報されるぞ。
「何してんだよ」
「出てくるの、待ってた」
「なんで」
「あの。僕、お金これだけだから…仕事、探すにしても、住所とか書けないとやっぱり……だから、もう少しだけ、一緒に」
 あの雨の日と同じくうるうる動物みたいな目を向けてくる白蘭が白い猫にしか見えない。
 つーか俺は懐かれたわけか? 腹減って濡れてたとこを助けたからってそんな単純な理由で?
 じーっとこっちを見上げている白蘭にはぁと溜息を一つ。
 家のない、この分だと他に頼れる奴もいないんだろうこいつを、放り出すのは簡単だけど。雨の日も風の日もついてこられて、段ボールに捨てられた犬みたいに外で眠られて、そのうち警察突き出されて俺が知り合いだとかバラされるくらいなら、素直に部屋に上げて、さっさと仕事しろって知ってる店にこいつ突き出して自立させる方が早くてめんどくさくない気がする。
「……あのさぁ」
「うんっ」
「俺、これから映画借りに行くんだ。…ついてきたいならついてくれば」
 ぼそっとぼやいて歩き出した俺に、きょとん顔の白蘭がぱっと表情を輝かせて、勢いよく立ち上がってフラついた。やっぱ寝ないで夜を明かしたらしい。若さゆえかそれでも元気で「僕も行っていいの!?」とか勢いよく追いついてくる。「勝手にすれば」と気怠げに言う俺にえへへと嬉しそうな顔を向けてくるそいつは、眩しい。白い髪のせいじゃない。そうじゃなくて、なんていうの。表情が…かなぁ。
 ツタヤで適当な映画を二本借りて、帰ってまずしたことといえば、白蘭の髪を切ることだった。
 何を始めるにしても履歴書がいるし、そのぼさぼさの髪じゃいい印象は得られない。とりあえず俺のカットで我慢してもらおう。切らないよりはマシだった程度には仕上げるよ。
 シャキン、と白い髪に梳きバサミを入れて量を減らしつつ、されるがまま目を閉じている白蘭は大人しい。つか寝かかってるだけかもしれない。昨日寝てないみたいだし。
 あんまり短いのは似合わないだろうとショート丈に合わせてハサミを入れ、適当かな、と思うところで手を止めた。「白蘭」と細い肩を揺すればはっとしたように目を開けるから、やっぱ寝てたな、と思う俺である。
 鏡を見せて「とりあえずこんなんでいい?」「うん、十分。視界がすっきりした」「そ」ドライヤーを持ってきて落ちきってない髪を床に飛ばす。白蘭は満足そうに髪をいじっている。
「シャンプーしてきて。床片付けるから」
「はーい」
 離れた白蘭に、白い髪を拾ってゴミ箱に突っ込み、細かいものは掃除機で吸って片付ける。とりあえずこれでいいだろう。
 さてじゃあ映画の準備、とテレビをつけてデッキにBDをセットし、再生する。アクション映画の派手なだけのに飽きてきてたので今回は政治が絡んでるスパイものにしてみた。うん、暗い。雰囲気が。
 ぼけっと眺めていると、白蘭が戻ってきた。「ドライヤー」と伸ばされる手にドライヤーを預けてあっちでやれと顎でしゃくれば、白蘭はまた脱衣所に入っていく。
(やっぱりナチスドイツっていうのはやめた方がよかったかな。わりと評価はいいからハズレじゃないだろと思ったけど、スパイものっていうかシリアスもの。これはこれで退屈…)
 ドライヤーの騒音が消えて、白蘭が戻ってきた。途端にぐーと大きな腹の音で頬杖ついてた姿勢ががくっと崩れた。「あ」とこぼして恥ずかしそうに薄い腹を押さえる白蘭に視線を投げて「何、食ってないわけ?」「うん…」はー、と息を吐いて仕方なく腰を上げる。眠気と腹減りで意識失いそうな奴に自分でやってなんて危なっかしくて言えないっつの。
 今あるものでできるもの、なんて野菜と肉の炒めくらいだ。あとはレンジでチンの飯。そういやパンとか切らしたからこのあと買いに行かないとならないな。仕方がなく一人増えるわけだし。
 適当なものを作って持っていってやると、白蘭はうつらうつらと船を漕いでいた。「おい」と細い肩を揺さぶる。はっと目を覚ました白蘭に白飯と野菜炒めをやって「それ食ったら寝ろよ」「あ…ありがとう」今にも寝そうな顔で笑った相手が箸を持つ。いただきます、とこぼして眠そうにぼちぼち食べ始める横で映画を眺めるが、あまり気持ちも入らないし、正直退屈だ。シリアスすぎて気分が滅入る。
 そのうち白蘭が飯を食い終わって、「じゃあ、僕、ベッド使っていい?」とこぼしてふらっと立ち上がる。「どーぞ」と返せば倒れるようにベッドに入った白蘭は、一分くらいで眠った。それと同時に映画の再生を止める。駄目だ、シリアスすぎて俺には合わないらしい。
 すー、と聞こえてくる寝息に視線をずらせば、俺がいつも使っているベッドに膨らみがあって、人の呼吸音が聞こえる。
「……はぁ」
 かくっと肩を落として立ち上がり、映画観賞は諦めて読書することにしよう、と積んでる状態の本のうちどれにしようかなで一つを選んで取り上げる。
 全く、俺はなんて馬鹿なことをしてんだろう。あいつが自立するまでを支援するとか何それ、どんな余裕人がすることだよ。貯蓄とかないわけじゃないけどさぁ、犬猫拾って世話するのとはワケが違う。相手は同じ人間だ。それを世話するとかどんな物好きなんだ俺。
 これまで、それとなく生きてきて、ここまできた。最近は女にも興味が持てなくなりつつある枯れた男だ。こういう変わった方向からのリアクションの方がいいのかも、と自分を納得させつつ本を置いて腰を上げ、規則的な呼吸が続くベッドの脇に立って、手を伸ばす。白い髪を払いのければ、まだ見慣れないまぁまぁイケメンな部類の顔があって、眠っている。
 ……そういや俺の名前まだ教えてないな。憶えられたら面倒だと言うのを避けてたけど、起きたら、教えてやるか。