実際に自分がそうだったから言えることだけど、まず、人間は欲深い。最終的に自分さえよければそれでいいって思考に陥ることも珍しくない自己中心的な生き物。それが人間だ。
 ただそれだけでしかなかったヒトという生き物を見る目が少し変わったのは、ある出来事がきっかけだった。
 人間らしく黒い欲望に自分を染め上げ、他人を利用し、蹴落とし、自分のための駒だと嗤う。道具を見る目でヒトを見てその不幸や不運を嗤っていた僕に、ヒトを利用した僕に、「許さない」と発言した奴がいた。
 当然その相手とは真っ向から意見が対立し、最後には喧嘩になった。
 そしてその喧嘩で僕は負けた。初めて負けを味わった。…そして、それにどこか安堵してもいた。この世界は真っ黒い欲望だけが勝つというどうしようもない法則に縛られていたわけではなかったのだ、と分かったからだ。
 そのことに安堵した。
 …本当に安心したのだ。
 たとえこれで僕が消えるのだとしても。
 僕が負けた、初めて負けた、こんな子供の頭しかない奴に、とか思うことがないわけではなかったけど。僕がもう忘れ去って久しかった白い感情で、真っ白い想いで僕にぶつかってきて僕を負かした、そういうヒトが存在する世界に、そういうヒトでも黒い欲望を打ち負かすことができるんだと証明してみせた世界に安心した。心から。
 だから僕は笑って消えることができた。
 ……そのはず、だったんだけど。
「ふぅむ…」
 思案げに唸ってみると、間違いなく自分の声だった。白蘭、と記憶している自分の声。
 手を掲げてみる。およそ憶えのある通りの僕の手だった。ぐーちょきぱーも問題ない。
 ひょい、と片足を上げてみる。ふむ、これも思った通りに動く。
 上から下まで視界を上げて、くるっと一回点して視界も回転させる。これも問題なし。ということは、どうやらこれは僕の身体ということで間違いないらしい。
 ふーむ、と一人唸りつつ、ふらふらっと人通りのある道に出た。停車されて誰も乗っていない車の窓を覗き込むと、自分の顔が見えた。左目の下に三つ爪のマーク、白い髪。ぺたぺた触れてみる。頬もつねってみる。ああ、よくある夢でしたってオチではないようだ。
 さて、困った。
 確かに僕はあの世界で消し飛んだのに、今現在、生きている。白い光に染め上げられた黒い闇。安心して笑った最後できれいにまとまったはずの僕の人生が、まだ続いている。
 …さて、困ったことになってしまった。
(物は試しだ)
 目を閉じてうんと念じてみる。本来なら手順を踏んで集中してやらなければならないことを色々すっ飛ばして思うだけ思ってみる。が、これまでなら薄くでも見えていたはずの別世界の自分というものはちっとも見えてこなかったし、他世界の自分の意思を感じることもできなかった。
 ぱち、と目を開ける。
 ダメだ。いくら念じても何も掠りもしない。掠ったら来る全身の倦怠感、疲労感もない。
 右手の中指にマーレリングだと記憶している指輪はあるけど、特別力は感じないし、っていうか、ただのシルバーアクセに成り下がっている気もする。
 どうやら現在ここにいる僕というのは、これまでの僕とは違う僕か、あるいは他世界の僕から切り離された僕、ということになるらしい。
 …それにしたって納得がいかない、とポケットに手を突っ込んで歩き出す。
 僕は納得して消えたつもりだったのに、どうしてまだ生きているんだろう。あのままきれいに死ねていたらもうそれでよかったのに。
 あんなに全力で喧嘩したのもあんなに感情を剥き出しにしたのも初めての経験だった。負けたのも初めてだった。思えばあの僕が、一番、生きていた人らしい僕だったな。
 何か手がかりはないかとその辺りをふらついて、そこが憶えのある場所であることにふと気付いた。
「あ。ここ並盛じゃん」
 大きな独り言だったけど他人の目は気にしない。もともと気にならない質だし。
 ふむ、と腕組みをして僕はまた考え込む。
 僕は今、あの世界でも馴染み深かった並盛という日本の土地にいるらしい。並盛商店街と書かれたアーチ型の看板を見上げ、それならここには彼らもいるかもしれない、と思い立って、この世界の手がかりを探し、僕は各所を回ってみることにした。
 一番に思いついたのは一応友人であったと思っている正チャンちだったけど、いざ行こうと思ったら、そういえば僕はこの頃の彼がどこに住んでいるかまでは把握していなかった、ということに気付いた。
 10年後の未来の彼は使える人材だったけど、ここじゃどうかなぁ。彼が僕のことを知っていて慌てふためいたなら、それはそれで一つの情報にはなるんだけど。肝心の彼のうちが分からないし、そのうち調べるとして、今は保留にしておこう。
 住所が分かっている相手として、まず、僕を負かした綱吉クンのいる沢田家へ向かう。
 今更だけど、彼は本当庶民出身なんだなぁとしみじみしつつ外から一軒家を眺めた。30分は眺めていたけど、銃の音なんてしないし、賑やかな声もしない。灯りはついてるのに。変だなぁこんなに静かな家だっけ、と首を捻りつつも次に寿司屋を営んでいる山本家に行ってみた。こっちも夜は静かなもので、あれぇ、と首を捻りつつも笹川家に移動。ボクシング部部長は部屋でも稽古してるのか、こっちは騒がしかったので、何となく安心した。
 獄寺隼人がいるのはマンションの一室だったからパスする。さすがに何階の何号室かまでは憶えてないし。というかそもそもこの世界では綱吉クンはボンゴレ十代目としてのあれやこれやの試練を受けているのか、その辺りも分からないし。彼がボンゴレと無関係みたいな世界だったら、獄寺隼人はここにはいないだろうしな。
 黒曜にいる骸くんもパスした。今から向かうのはちょっと遠いし、こっちも綱吉くんが進む方向によってはいたりいなかったりするだろうし。
 そうすると残るのは雲雀恭弥の家だ。
 あの世界での主要人物の居場所を辿って特に情報が得られなかったので、僕は彼の家、というか屋敷にも大した期待は持っていなかった。
 どうせ高い塀で囲まれた和風のお屋敷だし、中が窺い知れるとも思えないし、正面の門を通り過ぎるくらいで情報なんて得られないだろう。そう思いつつもぶらぶら歩いて雲雀家へと向かった僕は、そこで決定的なモノを見つけた。あの世界にはなくてこの世界にはあるもの、即ち、あっちとこっちの違いだ。
(ん? ちょうど帰宅かな? ラッキー)
 立派な門前に黒い車が停まっているのが見えて、気持ち速足になり、なるべく情報を得ようと視界いっぱいにその車と周りの風景を取り込む。
 孤高の浮雲、またはバトルマニア、または並盛の独裁者として知っていた雲雀恭弥はまさしく孤高だった。彼の周りには誰の姿もなく、部下はあれど、友はいない。恋人なんて言うまでもなく、彼は一人高いところから人類を見下ろしているような、そんな奴だった。少なくとも僕はそう理解していたし、自分以外はどうでもいいと切り捨てるところは、僕と少し似ていると思ってたくらいだ。そう、同族への親近感とでも言えばいいのかな。
 彼は自分以外の生き物を平気で踏みつけることのできる、僕と同じで頭のネジがちょっと外れたまま生まれてきてしまったヒト。僕みたいに黒に染まることもなければ白になることもありえない、灰色に染まったヒト。
 彼の周りには誰もいない。そう知っていた僕は、門の敷居を越えて出てきた雲雀恭弥の隣に同じくらいの女の子がいる景色を認めて一瞬足を止めた。
 顔立ちがよく似ている。…兄妹か、姉弟なんだろうか。
 一瞬止めた足を大股の速足にしつつ彼らに意識を傾ける。どうやら帰宅ではなくこれから外出らしい。
 幸運なことに彼らは会話をしていた。そして、そこから情報を得ることができた。

「任せるよ、。僕は母が苦手だから」
「お見送りだけなんだから、そんなに構えずともいいと思うわ。兄さん」
「そうなんだろうけどね…」

 じゃあ、と彼が黒い車に彼女を預け、ドアを閉める。
 車はすぐに発進して角を曲がって見えなくなったのに、雲雀恭弥はずっと車が消えた方向を見ていた。
 その横を通り過ぎる。何気ない通行人Aみたいな感じで。通り過ぎる間際に雲雀と大きな表札のかけられた門の向こうからリーゼントの彼の部下が出てくるのを視界の端に捉え、そのまま歩く。「委員長、よろしいですか」「…何」「はっ。本日夕刻のことなのですが、並盛山の方で一つ問題が…」あとは距離が開いてきたことも手伝って聞き取れず、僕はそのまま車が曲がっていった角を同じように曲がって、足を止めた。
 …分かったことが一つ。どうやらこの世界では雲雀恭弥は孤高の一匹狼ではないようだ。
 彼のことを兄さんと呼んでいた少女、、と呼ばれていた女の子を思い起こす。
 良家のお嬢様と言った口調に穏やかな表情。彼とよく似た整った顔立ち、黒くて長い髪に彼よりも大きな瞳。そして彼女に対して普通に笑いかけていた雲雀恭弥。
(でも、あの瞳は…)
 何か引っかかるものがあって、僕は立ち止まったまま時間を忘れて考え続けた。頭の中を引っくり返してとにかく何かを探し、それを思い出そうと思考を巡らせ続け、ぐるぐるぐるぐると考えた。
 そして唐突に思考が弾けた。「あっ」と思わず声に出してしまうくらいにはパチンと弾けた。
 黒髪の少女。黒髪の女性。。そういう娘がいた気がする。その他大勢の集まり、駒でしかない組織の中に、そんな名前の娘がいたような。
(思い出せ)
 自分の記憶力は疑っていない。僕なら思い出せる。時間がかかっても記憶の糸を辿れるはずだ。
 そうやって自分の頭と格闘してみた結果、夜も更けて朝陽が顔を出す頃に、何となく思い出すことはできた。
 僕の記憶が正しければ、多分、彼女は雲雀の人間ではなく別人として存在していた。ありふれた人間の一人として。それがここでは雲雀恭弥の妹として存在している。
 他の主要人物の確認がまだだけど、これだけでも収穫だ。
 つまり、ここは、どの世界軸の世界でもない、僕が全く知らない世界なのだと確認できた。
 試しに背中に翼を生やそうと思ったけれど失敗した。他世界の自分とアクセスしようと念じてもこれもまた失敗する。指にはまっているマーレリングを意識してみたけど炎なんてものはちっとも灯せないし、道路から生えてるミラーには僕はイマドキの頭を染めた若者にしか映らない。
 ……どうやらこの世界では超常現象の類は著しく制限されるらしい。それが分かって、ほっとしたような、そうでないような。
 よく分からない気持ちを抱えたまま視線を空に投げる。
 東から白み始めた空は眺めているうちに朝陽が顔を出し、以前と変わらない陽射しで僕を照らし、やがてぬくもりを与え、包み込んだ。