私、雲雀には兄がいる。雲雀恭弥という双子の兄だ。
 幼い頃は瓜二つだとしてよく兄と間違われた。兄も私と間違われた。それが兄にとっても煩わしいだろうと思った私は髪を伸ばし始め、そうしてようやく兄と勘違いされることはなくなった。
 一足先にこの世に誕生したのが兄。だから私は双子の妹。
 父と母は口を揃えてそう言った。そのことがなぜか記憶に染みついている。
 仮に、私が姉であったとしても、雲雀を継ぐのは男として生まれた恭弥だ。結果的に今と何も変わらない。けれど、両親はより分かりやすく世間へと示すために恭弥を兄とし、私を妹としたのではないか。最近そんな疑念のようなものを抱えている自分が、分からない。
 家のことは兄さんが上手くやってくれるだろうと信じている。自分がその役目を負わなくてよかった、とさえ思っている。
 でも、どのみち私も、雲雀の名前からは逃れられない。
 女として生まれた私はそのうち雲雀の家のためにと政略結婚させられてしまうのだろう。急に許婚だなんて人が現れて、私はそれを受け入れるしかなくなるのだろう。…そんなことを考えるのはやっぱり小説の読みすぎだろうか。
 本当は、そんな現実すら私には訪れないだろうと、気付いているのに。
「…
「、はい」
 呼ばれてはたと我に返ると、私の膝枕に頭を預けてこっちを見上げる兄の顔を見つけた。どことなく不満そうだったので、止まっていた手で何度か彼の黒髪を梳くと、兄はまどろむようにゆるゆると目を閉じた。
 視線を上げると、中庭に面した縁側。庭を眺めるように座っている自分と、傍らに置いてある閉じられた本。
 そうだった。秋の夜が心地よくて月明かりでゆっくり読書をしていたら、兄がやってきたんだ。「何してるの」って。それで「読書です」って言ったら黙って隣に座って、私の膝に頭を預けて。そう、だから、本を閉じて、私は兄の相手をしていたんだった。「今日は疲れたんだ」とこぼす兄に微笑んで「何かあったんですか?」と訊ね、兄の話を一通り聞き、頷き、兄を満足させる。そのために私は16になったのにまだ雲雀の家にいる。許婚だと知らない異性を紹介されることもなく、雲雀の家のためだ、と結婚を告げられることもなく。
 …兄は甘えん坊な人だ。私には。私だけには。私だけにはとても甘くて、優しい。
 けれど、私以外にはとても冷たく容赦のない人だということも、知っている。
 兄はとにかく喧嘩事が好きで、一人で闘うのが好き。そのためにこの町、並盛を仕切る風紀委員会というものまで作った。
 町を仕切ることは、父から言わせれば兄さんの管理能力を知るいい機会だとかで、雲雀は兄のやりたいようにやらせた。結果、兄は本当にやりたいように町を統治し、支配し、気に入らないことは排除し、喧嘩事には自ら飛び込んで制裁を加えていった。
 あまりに勝手がすぎると父が兄のことを睨むようになったのは、私と兄が並盛中学一年生になったときのことだ。
 私はその頃まだ兄の喧嘩の度合いというものを知らなかったので、兄はただ風紀委員会というものの委員長をしているので大変なのだろう、くらいにしか思っていなかった。
 お前が恭弥の手綱を握りなさい。父からはそう言われた。なんのことかよく分からなかったけれど、はいと言う以外に私に言うべき言葉などなかった。
 私が兄の恐ろしさを知ったのは、中学三年の不良組みに絡まれ、逃げ道をなくし、壁際に追い込まれたときだった。
 どこからか降ってきた兄が五人いたうちの二人の頭を銀に輝く棒でしばき倒し、振り返った一人の頭に踵落としを食らわせた挙句に蹴飛ばして吹っ飛ばし、動揺する一人の首を銀の棒で殴打し、そして、私を突き飛ばして逃げ出した最後の一人に向かって銀の棒を投げ飛ばした。ごっと鈍い音がした。上手に跳ね返ってきた銀の棒をキャッチした兄が笑う。倒れて動かない人達に笑っている。私はそのとき、ようやく、兄の喧嘩というのが相手を殺すに近い脅威のことを示していると知った。
 この人達は確かに私に何かしようとしていたのかもしれない。でも、私はまだ、何もされていないのに。こんなに容赦なく地に沈める必要は、あったのだろうか。
「怪我はないかい。
 …でも。へたり込む私の視線に合わせて膝をついた兄はいつもの兄だった。私に甘える、優しい兄の顔をしていた。さっきみたいな冷たい微笑みは欠片も見られない。ただ私のことを案じてあちこちに視線をやり、「さぁ、おいで。少し掠ってるところがある。保健室に行って手当てをして帰ろう」と私の手を取る。
 さっきまで銀色の棒を持っていた手。けれど、その手は私にとって馴染み深く、安堵を誘った。
 その手は私を傷つけることはない。他の誰を傷つけるとしても。…私はそれを理解していた。
 だから、父は言ったのだ。私に兄をコントロールしろと。
(…でも、それは難しいです。お父さま)
 ふ、と少し息を吐く。少しだけ溜息に似たものを吐く。
 兄とは生まれてこの方16年一緒に生きてきた。だから、兄はそんな私に気付く。薄目を開けて私を見上げ、眠そうな兄を眺めて私は微笑む。いつものように。
「あまり、喧嘩をしてはいやですよ。兄さん。怪我は特にいけません。左の腕、痛むのでしょう」
「……分かる?」
「はい」
 兄の左腕を撫でる。16年一緒に生きてきたからか、それとも双子として生まれたからなのか、こんなに近ければ、私だって気付く。兄が私のことに気付くように、私も兄のことに気がつく。私の手に掌を被せた兄が「数で攻めてきたって変わらないと思ってたけど、少し油断したみたいだ」とこぼして私に笑う。それは、私が怪我に気がついたことに喜んでいるようにも取れる微笑だった。
 兄が私を離そうとしないから、私には他に誰もいない。
 私に近づいてきた誰かは例外なく兄によって排除される。兄の弱点となる私を誘拐しようとする者は皆兄によって片付けられたし、私を害そうとした者もまた兄によって制裁を下された。私のそばにいることを許されるのは、兄の部下である風紀委員の人か、雲雀の人間。父と母。それくらい。
 …私は限られた箱の中の世界で息をしていた。
 中学生まではよかった。並盛中へ通っていられた。そこでも私は風紀委員の護衛と共に生活していたけど、それも窮屈だったけれど、今よりはずっとよかった。
 外出には必ず誰かが付き添う。家の中にいるときですら私の無事を確認する視線がある。
 習い事をしても、趣味の読書をしても、私に自由はない。
 私は籠の鳥。雲雀という屋敷の籠に囚われた鳥。
 籠の外から私を愛でる目。私を撫でる指先。私を乗せる掌。それは全て、兄である恭弥のものだった。
 兄がお風呂に向かったので、私はその間に自室に戻った。タン、と襖を合わせて部屋と廊下をしっかりと遮断する。
 畳の上に箪笥や机の並んでいる和の部屋を眺めて、無防備だ、と思った。イマドキ鍵もかけられない和の部屋なんて、年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすには少し物騒なのではないかと思いもしたけど、その気になれば兄は鍵のついたドアを破壊することも窓を蹴破ることも簡単にしてみせるだろうと気付き、一つ息を吐く。…どのみち私に選択権というのはないようだ。
 兄は私が拒むようなことはしないだろう。どれだけ私のことを気に入っていても、それだけはしないだろう。あの人が恐れているものがあるとしたら私に拒まれることだ。だから兄はそこから一線は絶対に越えてこない。そういう確信がある。
 けれど、そこまでなら、兄はどんなことだってして踏み止まるだろう、ということもまた、分かっている。
 私の周りから望まない人物を排除して、私を囲って、私が頼れる人を自分だけにして、笑うだろう。
 兄はそういう人だ。私のため、そして自分のためなら、どんなことだってしてみせる。兄はそういう人なのだ。
 他人にはとても残酷で、私にはとても甘くて、優しくて。
 いっそ私にもひどいことをしてくれれば、私は兄を嫌いになれたのに。兄は絶対に私にひどいことはしない。叩くこともない。殴ることもない。言葉の暴力すらない。ただひたすらに甘い愛という檻で私のことを捕らえている。それだけなのだ。
 そう、それだけ。
 決して口にはしない。好きだとか、愛してるとか、兄妹の壁を越えてしまうような不用意なことは言わない。兄は一線を間違えない。踏み止まっている。そしてそこから愛を込めた眼差しと愛を込めた指先で私のことを撫でるだけだ。愛でるだけだ。
 …ここに出口はない。
 私は兄に愛されて、隔離されて、妹として、雲雀の家に留まり続けるだろう。兄が私を離すその日まで。
 母はそんな私を哀れんでいた。父はそんな私に兄の手綱を握れと言った。
 全てから手を離されてしまって、私にはもう、兄しかいない。私は兄を見る以外にない。兄を愛する以外に道がない。
「私は」
 ぽつりとこぼした声が震える。
 16歳の秋。朝夜の肌寒さが増した空気の中で着物の袖の上から腕をさする。
 まだ中学を卒業して半年ほど。それなのに、もう息が詰まりそうになっている。
 このままじゃあ私の道は一本しかないまま、そこを歩くしかなくなる。
 私は確かに兄のことが好きだ。でもそれはあくまで兄妹としてであったし、家族として、好いていた。聡明で気高く、それでいて私には甘えん坊で優しい兄が好きだ。大好きだ。兄はいつも私を守ってくれた。笑いかけてくれた。私も兄が大好きだ。
 でもそれは兄の愛とはきっと違う。
 …でも、だからって。どうすればいいのだろう。
 布団の上に力なく膝をつく。
 ……どうすれば。私はこの道以外を歩けるのだろう。
 人より恵まれた家に生まれ、恵まれた環境で育ち、恵まれた人生を送ってきた私には、外へ飛び出しても分からないことばかりだろう。雲雀の名なしでやっていくことなどきっとできない。私はこの道以外が分からないのだ。
 だからここにこのまま留まっているしかない。
 静かに涙を流して、丸い窓の外の月を見上げる。一つの慰めもくれない月は相変わらず遠いところに浮かんでいるだけで、全てを傍観していた。
 諦めた私が笑ったときだった。トン、と何か物音がしたのは。誰か来たのだろうかと袖で涙を拭ってから「はい」と襖に向かって返事をしても、しーんと静まり返っている。
 今、確かに音がしたような。
 首を傾げた私の耳にまたトンという音が聞こえた。今度はそちらを向く。…下の方から聞こえた、気がする。
 そろそろと畳の上を四つん這いで移動して、音のしたところにそっと手を伸ばす。部屋に敷き詰められた畳、その一つでしかないそれに、小さく握った拳でトンと叩いてみた。すると、またトンと音がする。答えるように。…確かにここからだ。
「誰か、いるのですか?」
 問いかけてみると、畳がずっとずれた。慌てて飛びのく。兄の運動神経のよさには及ばないが、私もそれなりに身軽な方だった。着物の裾をさばいて立ち、部屋の飾り兼いざというときのための武器を兼ねている短刀を手に取る。侵入者だと思った。畳の下から出てくる人が訪問者とは思えない。
「あー、待って待って、
「…私はあなたを知りません。人を呼びますから」
「僕だよ僕、白蘭」
「…? びゃく…?」
 聞いたことのない名前だった。中国系の人だろうか。
 私が警戒するからか、相手は畳の下からは出てこようとしない。「じゃあこのまま話すよ。でもさ、もーちょっとだけ寄ってくれない? 話し声は小さい方がいい」囁くような声音に眉根を寄せて部屋の襖戸に視線を投げる。まだ、誰もこのことに気付いていないようだった。

 ここで私は迷う。
 相手は畳の下から訪問してきた誰かも分からない人だ。門をくぐってやってきたのではないのだから当家への侵入者ともいえる。私はすぐにでも兄か風紀委員の人を呼んでこの人を差し出すべきだろう。
 でも、そうすれば、このちょっとした出来事もすぐに終わりを告げる。鬱々としていた私の思考を切り裂くように現れたこの誰かとの時間も終わってしまい、私はまた何も動かない時間へと囚われる。
 …どうせあの変わらない日々へと戻ることになるのだから。少しくらい、話をするくらいなら、きっと大丈夫。
 もし相手が悪い人でも、兄は必ず私を守る。そう、絶対に。

 今の生活に息苦しさを憶えていた私は、突然の訪問者に向けていた刃の先を下げる。
 そろそろと少しだけずれた畳の近くへ行って膝をつく。暗いからよく分からないけれど、畳の下には人がいるようだ。声から判断するなら異性、多分、私とそう変わらない。
「初めまして、かな」
「…初めまして」
 暗くて相手の顔を窺えないまま、控えめに答えた私に彼は笑う。「そう怖い顔してないでよ。僕は敵とかじゃないよ。まぁ、勝手にここまで来たんだから侵入者ってヤツには当てはまるかもしれないけどさ」持ったままの短刀の柄をぎゅっと握ると、彼は慌てたように「まぁそんなことはいいんだ」と話を変える。
、君さ、今幸せかい?」
 唐突な問いかけだった。「え」とこぼした私に相手は笑ったようだ。視線が惑い、私は畳と畳の間の暗闇から目を逸らす。

 …幸せ。
 ずっと幼い頃に。私に甘えん坊で、優しい兄と、ずっとこのまま一緒にいられたらいいのに、そうしたらきっと幸せなのに、と思ったことがある。
 まだ片手で足りる年齢だった頃の話だ。あの頃は兄は今のように喧嘩早い人でもなく、私達はどこにでもいる普通の兄妹だった。父も母も笑っていた。あの頃は絵に描いたように笑ってばかりいた。
 それが崩れてしまったのはいつからだっけ。
 昔の夢が叶った現実。そこに生きる私は、到底、今の自分を幸せだとは思えない。
 これでは私は兄のために人生を捧げているようなものだ。
 兄のことは誰より愛おしい。でも私は。
 私は。

「、」
 廊下を歩く足音に、「やば」と漏らした相手が慌てて畳を直す。私もそれを手伝って畳をあるべき場所へと戻し、その上に座り込んでカバーし、手にしたままの短刀に気付いて慌てた。もとある場所に戻しに行くだけの時間はない。とりあえず自分の陰になるところに刀を置いて、トン、と叩かれた襖に顔を向ける。「はい」といつもと変わらない声で返事をすれば、カラリと開いた襖の向こうには黒い着物姿の兄が立っていた。
 心臓がどくどくと大きく鼓動している。
 畳の下の彼は、今頃息を潜めているのだろうか。兄は聡い。人の気配を探るのも上手だ。見つからなければ、奇跡だ。
「手当てしてよ」
 兄はそう言って部屋に入ってきた。その手には湿布と包帯がある。私は心持ちほっとして「はい」と微笑む。今のところ、兄は畳の下の人の存在には気付いていない。
 向かいに座った兄が着物の袖をたくし上げる。左の二の腕辺りにできている青痣に自然と眉尻が下がった。
「痛みますか?」
「少しだけね」
 傷を覆うように湿布を貼りつけ、剥がれないよう上から包帯を巻く。
 このくらいのこと家にいる人ができないわけがないけど、兄は私が手当てすることを望む。私はそれに応える。いつものことだ。兄がそれで満足するなら、私もそれでいいのだから。
 ふいに兄の視線が私の手元からずれて、陰になる場所に置いた短刀を捉え、目を細める。「それ…」と短刀を示されて私は上手に笑った。頭の中で考えた言い訳をそれらしく並べる。「今まで飾っていただけで、きちんと見たことがなかったので」と微笑う。視線を流して短刀を捉え、柄、鞘、全てを眼差しで愛でて「美しいものです」と言うと、兄は私の視線を追って短刀を眺めた。「そうだね」とこぼした兄に、ほっとする。
 それからいくつか会話をし、明日も早いから、おやすみ、と兄が部屋を出て行った。
 その足音が聞こえなくなるまで私は動かなかった。短刀を膝に置いたままじっとしていた。
「…まだそこにいるの? 白蘭」
 ぽつりと畳の下に言葉をかける。と、トン、と静かな音がした。畳の下からのノックの音だ。いる、という返事。
 この鬱屈とした変わらない日常に、ささやかでも変化があるなら。私はそれがよかった。
 たとえこの人が私を騙そうとしていても、何かを企んでいるのだとしても、抜け出したかった。この今から。兄の所有物のような自分から。
 そのためのきっかけが、この風変わりな訪問者でも構わない。
 …そう思いつめるくらいには、私は兄からの愛で押し潰されそうになっていたのだ。