一番初めに手をかけた相手のことだけは、今でもよく憶えている。

「君は間違えている」

 …そいつは最後にそう言った。この僕に対して。
 その言葉を撤回させる暇もなく頭をかち割って壊してやったけど、今でもあの顔が忘れられない。あの目が忘れられない。
 トンファーという手に馴染み始めた新しい玩具を牙にし、倍年上の相手に対して喧嘩をふっかけ、そして、僕は勝ったのだ。
 それなのにあいつのあの顔ときたら。あの目ときたら。僕に憎悪を向けることなく憐れみを向けてきたあの目ときたら。
 必要以上にそいつをぐちゃぐちゃにして、人間をただの肉塊になるまで手を加えて、鼻をつく血のにおいだとか、飛び散る赤っぽいものだとか、全て無視して、ただ、血で滑ってトンファーが握れなくなるまで、そいつのことをめちゃくちゃに破壊した。
 どこにでもある平凡でしまりのない顔をしていたそいつは妹の婚約者というやつだった。
 もちろん5つの妹が望んだことではない。家の血統、営む会社の業績その他、親の目に適った家の一人息子というのが勝手に妹の婚約者に祭り上げられ、家にやってきたのだ。
 よく晴れていたその日が、僕のこれからを決定した。
 設けられた席は新しく雲雀の企業の傘下に入ることになったソレとの顔合わせの場だった。
 僕と妹は双子で、同じ5歳で、同じ着物を着ていた。初対面ならまず僕らのどちらが兄で妹なのかと惑うところを、古里炎真という10歳の相手は妹と僕を見分けたのだ。その時点で僕はそいつが気に入らなかった。「よろしくね」と妹に手を差し出すそいつが気に入らなかった。僕と妹を見分け、それでいて妹のことばかり見ているそいつを壊してやりたいと思った。
 雲雀家に形だけの挨拶に来たんだろうと思っていた古里という企業グループの一人息子、炎真が妹の婚約者としてやってきたと知ったのは、本当に偶然だった。
 妹の手を引いて早々に挨拶の場を抜け出し、行儀が悪いと親や他に怒られても気にせずに二人で蹴鞠をしていた。
 妹が誤った方向に蹴鞠を蹴飛ばして、僕がそれを拾いに行って。リンと鈴の音を鳴らしながら転がる蹴鞠をようやく捕まえると、目の前にはしっかりと閉じられている障子の間。そしてそこから、耳を疑いたくなる会話が聞こえてきたのだ。

ちゃん、かわいいですね」
「はは、そうだろうとも。親馬鹿と言われるかもしれないが、私達もあの子は良い子だと自負している。習い事も懸命にこなし、やんちゃな兄の面倒も看ているしな」
「兄…恭弥くん、ですか」
「仰るとおり。恭弥め、最近男らしく好き勝手するようになってなぁ…まぁ、顔が小奇麗なだけに女々しくなりはしないかといらん心配をしたりしたが、この分なら立派な男子へと育つだろう」
「そうですね。僕もそう思います。……あの、」
「あら、そんなに畏まって、どうしたの」
「あ、いえ。あの、僕なんかがちゃんの婚約者でいいのかと…思って」
「何を言うの、炎真くん。あなたは成長を続ける古里グループの将来を担う立派な男子よ。私達もあなたなら家族に歓迎したいと思っているくらいなの。の相手として不足だなんてことはないわ」
「そう、だったらいいんですけど。すみません、なんかまだ実感とか湧かなくて…」
「まぁ、無理もない。今日が初めての顔合わせだ。には何度か顔合わせを経てから君が婚約者だということを明かそうと思っている。そう構えずとも、事は運ぶよ」
「…はい……」

 手にした鞠がみしっと音を立てるほど、僕の指は蹴鞠に食い込んでいた。
に、こんやくしゃ…こんやく……)
 頭の中を考えたこともなかった言葉がぐるぐると回る。
 そのうち「にいさーん」と遠くで僕のことを呼ぶ声が聞こえて、リン、と鈴を鳴らす蹴鞠を持って障子戸の前を離れた。
 妹に。僕の妹に。に。婚約者ができた。今日顔を合わせたばかりの古里炎真。僕と妹を見分けて妹ばかり見ていた奴。
 ぎり、と歯噛みして、遠くで妹が黒い着物の袖を振ってこっちに手を振っているのが見えて、歪んでいた表情をすっと消す。
 僕のに婚約者ができた。婚約。それは未来で結婚するという約束のこと。結婚とはつまり、父と母のように笑い合うということ。
 ソンナノ許セナイ。
 僕の破壊衝動というのはそこから始まった。
 そして、その衝動のまま、僕は古里炎真を壊した。
 5歳から6歳になろうとしていた誕生日間近の春の日、話があると呼び出し、ぐちゃぐちゃにしてやった。壊してやった。原形が分からなくなるくらいに破壊してやった。
 僕の許可なく勝手にの婚約者になんてなるから、こうなる。
 古里炎真だったモノを見下ろして、唇の端をつり上げて、僕は笑っていた。
 それ以外の相手のことは正直忘れてしまった。並盛を僕の統治下とする際に邪魔な奴らはみんな消したし、盾突く奴らもみんな制裁を下した。もう何人、何十人、もしかしたら何百人と消してきたかもしれないが、そんなことどうだってよかった。僕にはが残りさえすればもうそれでよかったのだ。
 。僕の双子の妹。雲雀家の子供として祭り上げられることに慣れても、大人の醜い視線には慣れることができなかった、弱くて、小さな、僕の妹。
 …生き人形のように整った僕ら兄弟を、羨むか、蔑むか、妬むか、邪な思いを抱くかは人によって異なっていた。
 当然、できた子供である僕らのことを親はよく褒めた。けれど、できすぎた子供というのは外からは疎まれる。自分の子供と比較して妬まれたり、あるいはその将来性などを疎んじられたりと、邪の矛先を向けられる。両親と同じ生き物である〈大人〉から、笑顔で頭を撫でられることもあれば、醜い視線で全身を射抜かれたりもする。妹はそういったことに敏感で、僕よりも周囲を窺うことに長けていた。
 妹がそういう大人に対して〈怖い〉という表現を使うようになったのは、5歳の頃。そう、ちょうど古里家などの出入りがあって、家が騒々しかった頃とも重なる。
 雲雀家という大きな屋敷を持つ名家は人の出入りが多かった。
 妹は大人の目を怖がった。将来雲雀を担う僕らにぜひ挨拶をと笑顔の仮面を貼りつける大人の本心を妹は見抜いていた。その笑顔の下の醜い顔に気付いていた。
 だから僕は度々妹の手を引いて挨拶の場を抜け出した。
 行儀が悪いと親にあとで叱られたって、構わなかった。それでが笑ってくれるならそれがよかった。兄さん駄目だよ、と言いながらも僕に手を引かれて走ってついてくる妹が愛しかった。
 …愛しかった。何より。誰より。好きだった。
 妹が笑ってそこにいてくれることが僕の全てだった。兄さん、と僕を呼んで、手を繋ぎ、一緒に駆け回り、笑い合う、彼女が僕の全てだった。
 だから古里炎真を壊した。
 後悔など微塵もしていない。幼いにしてはよくできていたと今でもあのときの自分を褒めたいくらいだ。行方不明扱いになった古里炎真について警察が話を聞きにきたときも上手くかわした。古里炎真は本人として認識されないままただの肉塊になり下がり、もうどこにも残ってはいない。
 妹は二、三度会っただけのあいつのことなどすぐ忘れてしまうだろう。
 それでいい。それでいいんだよ、
 警察という大人の目を怖がって僕に抱きついてきた妹を受け止め、彼女の見えないところで笑う。
 この頃から、僕はもう壊れ始めていた。
「兄さん?」
 やわらかくそう声をかけられ、肩を少し揺さぶられる。
 瞼を押し上げると、ぼんやりとした視界の中に妹の姿が映った。
 顔の左側があたたかい。背中の方もあたたかい。…どうやら僕はに膝を借りてうたた寝して、そのまま夕方まで過ごしてしまったらしい。
 僕と同じ黒い着物に朱色の帯をしていても、もう妹と僕は重ならない。男と女として、違う生き物として人の目に映る。僕の目にもそう映る。
 腰よりもだいぶ伸びている長い黒髪が彼女の肩を滑り落ちて、僕の鼻先を掠めた。ふんわりといいにおいがする。リンスの香りだ。
「いい加減、このままでは風邪を引きますよ」
「…ああ……」
 そうだね、とこぼして床板に手をつくとひんやりと冷たかった。ついこの間まで暑いと思っていたのに。
 ゆるりと顔を向けると、妹は僕が起き上がるのを待っている。
「…
「はい」
 応えて小首を傾げる姿がとてもかわいらしい。小鳥みたいで。「まだ眠い」「…ここではいけません。お部屋に入ってからです」仕方がないひと、と笑うやわらかい微笑に促され、気だるい身体で起き上がって、襖で閉じられた部屋に移動する。縁側よりは冷たい空気が遮られ、畳は床板よりは身体が痛くならないけれど、僕はどこだって寝られる。けど、が風邪を引くと気遣ったのだから、ここでもう一度眠ろう。
 世間一般で土曜日、週末のその日、僕は家に入り浸っていた。家にというよりに入り浸っていた。
 今日は父が呼びつけた何人かが家を出入りしている。僕は大人しくしていろと再三うるさく言われたから、を囲い、今日を過ごしている。
 ……幼い頃に妹の婚約者を壊して以来、には何度か婚約者というのが現れたけれど、全部僕が始末した。三人目を片付けたのは10歳の頃。そこから妹の婚約者という者は現れず、僕は空白のそこを陣取り、の隣を占めていた。
 妹が僕の全てだった。
 この春並盛中学を卒業した僕らの義務教育課程はこれで終わり。つまり、を外へ出さないといけなくなる時間も終わり。
 僕は徹底的にを囲った。外出には必ず風紀委員をつけて彼女の安全その他を徹底させ、妹を雲雀の家に閉じ込めた。
 必要なものは言いつければ風紀委員が買ってくるし、そうでなくても屋敷の使用人が全て用意する。足りないなんて不自由はさせない。
 君の願い全てを満たしてあげよう。僕が君に満たされているように。

 雲雀の屋敷という籠の中で、ご飯に困ることもなく、寝床に困ることもなく、汚れた外の世界なんて知ることなく、生かしてあげる。
 籠の外へは出せないけど、僕が溢れるくらい愛してあげるから、何も心配はいらないよ、


「はい」
 双子という生まれ故なのか、僕らはお互いに関して聡い。そうでなくとも僕は気付いていた。彼女の中のささやかな変化に。どこがどうと言えるわけではないから指摘のしようもないのだけど、彼女の中の何かが変わってきている。そして、僕はそれが気に入らなかった。
 を囲っていいのは僕だけなのに。
「最近、何か変わったことはなかったかい」
「特にないですよ、兄さん」
 妹は笑って誤魔化すけれど、僕はそれに気付いていた。気付いていながら気付かないフリで「そう」とだけこぼし、隣に座る彼女の肩にもたれかかる。「兄さん?」と戸惑った声をかけるひとを力いっぱい抱き締めたくなったけれど、行動にはしない。ただの肩に頭をもたれかけ、彼女の温度を感じながら、目を閉じる。
 …僕には言いたくないことなのか。僕に、隠したいことがあるのか。
 それは、とても気に入らない話だ。
(ねぇ、
 手を伸ばす。行儀よく膝の上に置かれている手に掌を重ねる。僕より小さくてやわらかくて、傷一つない手。汚れていない真っ白な手。
(君のためだったら、僕は平気で狂ってしまうよ)
 躊躇ったような僅かな間のあと、僕の手に妹のもう片手が重なって、その温度で、僕の渇きが満たされる。
 他の誰かじゃ駄目なんだ。僕にはがいないと駄目なんだ。
 僕には君だけ。君には僕だけ。
 僕だけが君を生かしてあげられる。何も不自由なく一生を過ごさせてあげる。
 ねぇ、そうでしょう
 君にどんな気紛れが訪れたのかは知らないけれど、壊してあげよう。僕に隠し事をする、隠し通すなんてことは無謀だと教えてあげよう。
(君が僕から隠して守りたいと思ったものを、壊してあげる)

 から見えていないところで僕は笑う。
 それは、自分でも壊れているなと思う、唇の端がつり上がる、嫌な笑みだった。