お茶のペットボトルブランドから始まって、あらゆる市場にヒバリという文字をちらほら見かけるのは、この世界では雲雀というのが日本の大手企業へと発展しているから。
 食品から電化製品、着物の帯からスーツまで、扱っているものは幅広く、そしてセンスがあった。さすが雲雀とでも言うべきか、隙がない。そんな感想を抱きつつ、ヒバリブランドのスーツを商店街のショーウィンドウ越しに眺めて、歩き出す。
 この世界の鍵ともいえる大きな違い、雲雀と接触するにはどうしたらいいかと考えた末に、近いうち建設される並盛のショッピングモールの存在と、未来のボンゴレの地下アジト、そしてそこに繋がる雲雀の屋敷の地下の存在を思い出した。
 ただでさえ大きな敷地があるくせにさらに地下施設まで建造しているのだ、あの家は。一体どこへ向かってるのかは知らないけど、これを利用しない手はない。
 ただし、この世界が僕の知る世界と極端にズレていた場合、僕の予想も外れることになる。確かめてみないことには判断もできない。
 7年後に並盛ショッピングモールとして完成する関係者以外立入禁止のそこから地下に入り、下水道を通って雲雀家の下に行き、頭の中の地図と照らし合わせ、なるべく静かに鉄格子を上り、まだ原形ができただけというコンクリート剥き出しの地下施設から天井裏に侵入すれば、彼女のもとまであと少しだ。
 恐らく緊急時の避難方法として地下という選択がされたのだろう。そうでなきゃ、わざわざ部屋に直通する道を造ったりはしない。
 彼女の部屋に行き当たるまで何度かヒヤッとすることもあったけど、切り抜けられたから、よしとしよう。
 トン、と畳の裏を握った拳で叩くと、トン、と叩き返す音があった。それが大丈夫という合図だ。
 よいしょ、と畳をずらす。ずり、と5センチくらいずらせば、暗闇に慣れていた視界に光が刺さる。
 今日はこの時間まで読書をしていたのか、ぱたん、と本の閉じられる音がした。
 は相変わらず黒い着物を着ていた。5センチの隙間からでは今日は襟元くらいしか見えないけど、やべってときにすぐ隠れられることを考えるとこれ以上畳をずらすのは賢い判断ではなかったので、僕は彼女の表情を見れないままに「やぁ、こんばんわ」と挨拶した。
「あなたが来るのは、決まって12時ね」
 感心しているような、それでいて呆れているような声。ははっと笑った僕は「そっちの生活時間帯的にね。逢瀬っていうのは早すぎても遅すぎてもいけないんだよ」とウインクして茶化した僕にも笑ったようだ。ただ、相変わらず彼女の纏う空気をというのは憂いを帯びていて、そう、全てに諦めていた。
 雲雀、16歳。雲雀恭弥とは双子の兄妹として生まれ、15で中学を卒業してからこっち、自宅である屋敷に缶詰のような毎日を送っている。
 強いているのは両親ではなく、兄である雲雀恭弥だ。
 彼女から彼についての大まかな話は聞いた。ああ面倒くさいことになってるんだなぁ、ってばかわいそうだなぁ、と思う話を。
 彼は彼女を手の内から離そうとせず、義務教育が終わってから本格的にのことを縛り始めた。それも緩やかで穏やかな鎖だ。決してを傷つけることはないのに窮屈だと感じる程度には縛り上げ、それでいて穏やかな笑顔で彼女に接し甘える彼は、僕の知る雲雀恭弥ではなくなっていた。情報を集め再収集しなければ、この世界に生きる雲雀恭弥のことは理解できないだろう。彼は僕の知る孤高の一匹狼ではないのだ。
 雲雀恭弥に多大な影響を与えているという君が恐らくこの世界の鍵。僕はそう受け止めている。
 別に、だからどうって話でもないんだけど。
 僕にはすでになんの力もない。右の中指に変わらず存在するマーレリングは以前とは違って炎なんて宿らないし、それこそ、ただのアクセサリに成り下がっている。背中から翼なんて生えないし、この世界には匣だって存在しない。
 今までの世界で培ったモノは確かに僕の中にあるけれど、それだって今までのように活用できるわけじゃない。
 そりゃあ、人の意識を乗っ取るような劇薬の作り方とか、まだ世界が見つけていない難病のワクチンの開発とか、あるいはミルフィオーレを組織したときの手順を辿れば同じようなことはできるかもしれない。けど、僕はもうそんなことをするつもりもない。この世界の攻略の鍵が彼女だったとして、だからどうって話にはならない。
 ただ、僕は彼女に同情しているだけだ。
 他の世界では一貫して孤高の一匹狼だった雲雀恭弥が、この世界では妹であるに心を寄せ、彼女を縛っている。雲雀という屋敷に閉じ込め、囲い、孤立させ、頼る者が自分しかいないという状況を作っている。抗う術を持たない彼女はただ在るしかない。雲雀恭弥のために己を存在させるしかない。
 窮屈で狂ってもおかしくはない環境に留まるしかない。ひどい話だ。彼に愛されすぎて壊れそうになっている。ほら、なんてひどい話。
 愛がろくなものじゃないってことは理解していたけど、ろくでもない奴がろくでもない愛を知ったら、やっぱりこんなふうになるのかな。まぁ、僕も偉そうに人のこと言える所業はしてきてないけど。
 ……現実的な話、雲雀家という籠に厳重に囚われている彼女を、一般人でしかない僕が救世主みたいに忽然と現れて颯爽と連れ出す、なんていうのは不可能だった。
 いつかのように背中に翼を生やしたりリングの力でドーンなんてできるなら簡単に終わることだっただけに、現状が面倒くさいというか、歯痒いというか、なんというか。
 僕は通い妻みたいにのいる屋敷へ行くしかないのだ。着工されている雲雀家の地下から、彼女の部屋をこっそりと訪ねるしかないのだ。
 軽く考えてるわけじゃないよ。色んなことを何通りも考えて何度も計算して、それで出た答えがこれなんだ。
 今の僕では雲雀恭弥からを救い出すことはできない。
 …仕方のないことと言えばそれまでだけど、それがこの世界の現実だった。
「ねぇ、白蘭。楽しい話をしてよ」
「楽しい話?」
「何でもいいの…ちょっとでも笑える話は、ない?」
 震えているような声に、畳に手をかけた。ずり、とさらにずらしてから、あ、しまったと手を止める。
 考えるより先に手が動いていた。君と僕とを繋ぐ隙間の大きさを広げていた。
 …顔を出せるだけ隙間を広げるのはよくない。誰かが来た場合の対処が遅くなる。この逢瀬を続けるのなら、事はなるべく密やかに行われるべきだ。これ以上君と僕を繋ぐ隙間を広げることはできない。けど、ここまでなら、多分大丈夫。
 広げた隙間から改めて畳の向こうの部屋を見上げれば、それまで襟元までだったしか見えなかったの表情が見えた。声から分かる通り、やっぱり泣きそうだった。
 隙間からぬっと手を出す。ひらひら振ると彼女はその手に縋った。僕より小さくてやわらかい手が僕の手を握る。「楽しい話かぁ。んーそうだな、何がいいかなぁ」案外と難しいリクエストを叶えるために頭の中を引っくり返しながら、震えている小さな手をそっとを握り返した。
 深夜一時。雲雀家の地下として着工され始めている場所を抜け、下水道に下り、前回とは違うマンホールから地上に出るために濁った水の流れる場所をひたすらに歩く。
 ゴトン、とマンホールをずらして地上に出た僕は何度か深呼吸した。自分が下水臭い。のもとへ行くためには避けて通れない道とはいえ、やっぱり慣れないなぁ。
 マンホールをもとに戻してお風呂行こうとくるっと方向転換、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。
 僕と話をするようになって、はだいぶ砕けた話し方をするようになった。恐らくあれが本来の彼女だ。雲雀恭弥に強要される以前の。
 だからどうって話じゃあないけど。あれじゃあ彼女があまりにもかわいそうだ。
 彼女自身が深く彼を愛しているというのなら、僕が出る話じゃなかった。籠の中でも幸せに笑っているならそれで終わる話だった。
 けど、雲雀の籠に囚われた小鳥は飛び立てずに悲しんでいた。本当は空を飛びたい、と。
 そして、開くことのないゲージの外の空に憧れながら、小鳥はいつしか飛ぶことを忘れ、地に堕ちる。
 小鳥に罪はない。
 自分が愛でるためだけに小鳥を閉じ込めるその手に罪がある。
 外へなど出られないようにしっかり鍵のかけられたゲージ。
 僕の手に鍵はない。鍵を無理矢理壊すだけの力もない。
 さて、それじゃあ、そのゲージから小鳥を解放するには、どうしたらいいのかな。
(うーん……)
 考えながら銭湯に行ってお風呂に入り、こざっぱりしたところで共用スペースである畳の上で寝転がった。ぼんやりと大きな窓に視線を投げれば、上下ジャージ姿のひょろい奴が映っている。僕だ。
 今着てるジャージを残してその他の服はコインランドリーに突っ込んで洗濯中。定住地のないまるきり庶民。というかホームレスにも近い。
 僕は何をしてるんだろうなぁ、と一人苦笑しつつ、まだほくほくとあたたかい身体でのことを考えた。
 彼女自身は一言も言わない。兄に囲われて困っているとも、この状況から抜け出したいとも、何も言わない。
 は知っているんだろう。雲雀恭弥がどういう人であるかということを。だからこそ無理難題なんて口にしない。叶わないことは夢に見ない。夢見たって、彼がそれを潰すのだから。夢なんて見たって仕方がないと諦めている。諦めて、笑っている。
 でも、今日の君は、僕の手に縋って泣きそうだった。
 …僕にとって女の子っていうのはさ。花みたいなものでさ。そりゃあ、かわいい花をマイ植木鉢に植え替えて愛でようと思う気持ちが分からないわけではないんだよ。花っていうのは思い入れがあればあるほどきれいに見えてくるものでさ。いつでも見ていたいと思うのなら、植木鉢を部屋のテーブルに飾って愛でるって気持ちも分かるんだ。
 だけど、その花が環境の変化に耐えられずに枯れそうになっているのに、それに気付けないっていうのは、花主失格だと思う。
 高山植物だって下界に持って帰ればすぐさま枯れるんだ。女の子はもっと繊細で、きれいで、そして儚い生き物なんだよ。
(よっこいしょーっと)
 むくっと起き上がって、乾かしてない白っぽい髪に手を入れてばさばささせる。
 そういえば、畳の隙間越しで話をしていたから、僕はの顔を見ているけど、彼女からは僕の顔は見えてないんだろうなぁということを何となく思う。
 人と話をする。それが彼の許可した人物でなければ、会話さえ自由にならない。そんなふうに縛られてる女の子って他にいないよね。僕って人間が自由奔放に生きてきたせいかもしれないけど、本当、がかわいそうだ。
 同情心を買うことなんて、彼女は望んでないだろうけど。決して口にはしないけど。君がそこから抜け出したいって思ってることは、分かってるよ。
 しがない日当手渡しバイト生活を始めて一週間。
 相変わらずホームレスみたいに定住地のない生活を続ける僕は、町に散らばる風紀委員の数が増えたことに気がついた。特に雲雀家周りは敷地の四隅に二人ずつ立つような状態で、正直、異様な空気に満ちていた。彼らは車で通り抜けるのも遠慮したいような睨みを常に効かせているのだ。
 そんな微妙な空気の中、僕が選んだのは、未来のショッピングモールとして着工され始めた工事現場での肉体労働だ。
 理由は、そこならたとえ夜間に見かけられたとしても不自然じゃないだろうと考えたからだ。言い訳が効く。何度もは無理だけど、初回の失敗くらいは補えるだろう。
 そうやって選択したバイトは正解だった。
 夜、12時に間に合うように地下へと侵入しようとして、関係者以外立入禁止の扉をくぐって向こう側に入ったところで風紀委員に見つかったのだ。
 まさかのまさかでこんなところまで張っていた。いや、地上でもあれだけ警戒していたのだから、彼が地下部屋の着工を知っていたのなら、人を配備していたのも分かるけど。

「こんなところで何をしている!」
「あ、僕ここの作業員でバイトなんですけど、忘れ物したことに気付いちゃって…ちょっと取ってきたいんで、あのプレハブ小屋までいいですか?」

 とか何とか適当なことを言ってその場を切り抜け、注意を受けただけで事はすんだ。
 工事現場をあとにして、ふう、と一つ息を吐く。誰のものか分からないけど放置されてた汚れたパーカーを僕のものということで拝借してきた。ばさっと羽織って汗臭いパーカーに顔を顰める。でも着て離れないことには格好がつかないので、速足でその場を去った。
 さっそく初回の失敗をしてしまった。二度目があれば風紀委員に目をつけられて不審がられるだろう。そうなれば僕のことが彼に知れるのもすぐということになる。
 …どうやらしばらく、彼女に会うことはできなそうだ。
 そう思ってふうと吐息した、そんな自分に首を捻る。…これじゃあまるで僕がに会いたいみたいじゃないか。
(ええい、次。次の作戦に移ろう)
 気分を切り替え、公園で一夜明かした僕は、今日のバイトでここを切り上げたいという話をして、まぁ無理矢理工事現場のバイトを終えて、しっかり給与を受け取ってから、次は寿司屋でバイトすることにした。電話での注文のみ受付という宅配寿司専門の店だ。なんでそこを選んだかと言えば、雲雀家がしょっちゅうオーダーで桶の寿司を頼む和食一家だということを知っていたからだ。
 完全に接点が絶たれる前に、僕は何とかと接触できる道を探さなくてはならなかった。
 履歴書なんて持っている知識を詰め込むだけでそれなりのものが出来上がったので、みんな疑わない。免許も持ってるってことになってるから、さっそく電話注文を受け、店長が寿司を握って、僕がバイクで宅配の初仕事を任され、配達に出る。
 場をまとめたり和ませたりリーダーシップを発揮したり、場合によって自分を切り替える僕は、周囲に馴染む術に長けている。前回の工事現場でもそうだし今回の寿司屋でもそうだ。家庭の事情でどうしても日当払いをしてほしいんですと訴えるのもお手の物。
(でも、雲雀恭弥はそう簡単にはいかないんだよね)
 寿司屋に勤め始めて三日目、雲雀家からオーダーの電話があった。確か彼の側近みたいなことをしてる草壁という人の声だと思ったけど、どうだったかな。まぁ、どうでもいいか。
「てんちょー雲雀さんとこからオーダーです。今すぐって」
「はぁ。お得意さんだからってなぁ…毎週日曜って出前日を決めてくれてんのはありがたい話だが、毎回時間帯にばらつきがありすぎるだろう。今すぐって物言いはどうにかならんのかねぇ」
 オーダーの電話に溜息を吐いて愚痴もこぼしつつ、白い鉢巻を頭に巻く店長。
 寿司を握ることは手伝わせてもらえないため、僕は桶や人数分の割り箸の用意をして、やっと雲雀の家に行けるのかとこっそり息を吐いた。長かったなぁ、ここまで。
 行って門前払いを食らうかもしれないし、敷地内、玄関まで行けるかもしれない。分からないけど、窮屈に息をしてるのことだ、僕が訪れなくなってきっとさらに息を詰まらせてる。小さなことでもなるべく外の空気を吸おうとあがいているかもしれない。それなら、可能性はなくもない。
 店長が急ピッチで寿司を握ってる間に、僕は手紙を書いた。着物の袖に忍ばせることくらいできるだろう十センチ四方の紙に小さく文字を書いた。びっしり書き連ねて、最後に白蘭と名前を書いてまとめた。
 運よくに会えたとしても、普通に話をすることはできない。なら、僕ができることはこのくらいだ。
 店長が急いで丁寧に握った寿司を配達に行き、門前に二人立っているリーゼントで黒服の風紀委員に「ちわーっす、銀のさちでーす。ご注文の品お届けにあがりましたぁ」と寿司屋っぽさを意識しつつ声をかければ、目を合わせた二人が「中へ」と門の向こうを顎でしゃくった。「失礼しまーす」と立派な門の敷居をまたいで、初めてちゃんとした形で雲雀家の敷地内に入り、うはぁ、と溜息がこぼれた。
 さすが名家と言われるだけあって、外からは見えない壁の中というのもきれいに整っていた。なんていうか、さすが雲雀。うん、そんな感じ。
 日本庭園の中庭を眺めつつ、不自然でない程度の足取りで歩き、これもまた立派な和の玄の前に立つ。呼び鈴があったので慣らすと、古い日本の音が響いた。続いて足音が耳に入る。歩幅が小さい。なら、男じゃない。
「はい」
 ガラリ、と引き戸の玄関扉を開けて出てきたのはだった。相変わらず黒い着物を着ていた。思わず声をかけたくなったけれどぐっと堪える。ここで不用意な発言をしちゃいけない。彼女の後ろにはしっかりと風紀委員がついているのだ。
「銀のさちです。遅くなりまして、申し訳ありません」
「、」
 僕の声を聞いたはさっと顔色を変えた。一瞬だけ嬉しそうにしたけれど、すぐに自分の後ろに風紀委員が立っているという現実を思い出し、悲しそうに笑ってみせる。
 ああ、そんな顔ばかりしてちゃ駄目だよ、。だって君は女の子なんだから。
「重いですけど、持てますか?」
 寿司の包んである桶を持ち上げれば、控えていた風紀委員が出てきて黙って受け取る。そのために控えていたんだろうとは思ってたけど。
 が一度視線を伏せて、着物の袖から財布を取り出す。「おいくらですか?」「はい、4930円になります」財布から五千円札を差し出した彼女の手からお金を受け取り、「ではお釣りですね、えー70円になります」とつり銭を渡したそのときに、手紙も一緒に託した。ぽとんと掌に落ちた折りたたんだ白い紙に彼女は不思議そうな顔をして、すぐに気がつき、財布を戻すときにそっと袖の中に手紙を忍ばせた。
「毎度ありがとうございました、またお願いしまーす」
 にこっと営業スマイルを残して、僕はそこを去るしかなかった。彼女の視線を背中に受けながら、雲雀家を出るしかなかった。
 一度ショッピングモールへ続く道で下手をしているから、もう失敗はできない。二度目があれば間違いなく雲雀恭弥の警戒に引っかかる。他の世界と変わらず喧嘩好きである彼の手にかかれば、一般人と同じ力しかない僕なんて征すのはたやすいだろう。
(なんて上手くいかないゲームなんだろう…)
 バイクに乗って店に戻った僕は、簡易ソファにどかっと座り込んで、そんなことを思っていた。
 ほら、連日慣れないバイトってものをしてるから身体にちょっとガタがきてる。工事現場の労働なんて初めてだったから諸所の筋肉痛もひどいし。ほんと、笑っちゃう。
「おーい大丈夫かビャク。疲れた顔してっぞ」
「あははー、ちょっと疲れてるみたいでーす」
 僕にビャクというあだ名をつけた店主にへらっと笑って右手をひらひらさせ、中指にはまっているマーレリングを眺める。
 これを手に入れてからしてきた僕の悪行は消えない。たとえ世界からなかったことにして抹消されたとしても、僕の中からは消えない。
 僕がしてきたことは誰かを不幸にすることばっかりで、幸福を目指していたのは、自分のためだけにだった。
 ……それを、変えたい。
 死んだと思ってたのに生きていた現実には落胆を覚えたりもした。きれいに終わったはずなのに、と。これで楽になれるはずだったのに、と。
 だけど考え方によってはこの生をこうも捉えられる。
 カミサマってのがもう一度だけ、僕が人として生きることを許してくれたのだとしたら。この生がそのためなのだとしたら。今まで人を不幸にしてきた分、幸福にしなさいと、そう言われているのだとしたら。
 確信なんてないけど、これは僕の想像なんだけど。そう思いたい。
 人類全部幸福にするなんてまぁ無理なんだろうけど、目の前で泣いてる女の子一人を幸せにすることくらい、男としてできなくっちゃね。
「てんちょーぅ、一時間寝さしてください。電話鳴ったら飛び起きますから」
「…しゃーねぇなぁ。今日は特別だぞ」
「わーお店長太っ腹ー、ダイスキ」
「気色の悪いこと言ってないでとっとと寝ろ」
 盛大に顔を顰めた店長がばさっとブランケットを放り投げ、それがが顔を覆った。
 ひらひら、と振った手をぱたっと下ろす。
 …店長人がいいなぁ。得体の知れないだろう僕を雇ってくれたしさ。この人も、不幸にはしたくないなぁ。
 ぎしぎしいうソファの上で目を閉じる。
(さぁ、僕と一緒に幸福への道、歩こうか)