どうやら兄が何かしたらしい、と気付いたのは、畳の下からの訪問者が三日続けて現れなかったからだ。
 私はいつの間にか白蘭の話に焦がれるようになっていた。
 自由に動ける彼。飄々としていて、色んなことを知っていて、話してくれて、世渡り上手な彼。その彼が続けて私のもとへ来ないのは、何か理由があってのことに違いない。
 家の中は以前と変わらないような気がするけど、と散歩がてら中庭を歩いているとき、注意深く周りを観察して、気付いた。雲雀の敷地内なのに護衛と称する人はいつもの二倍に増えていた。
 …兄が気付いたんだ。そう思って、ぎゅっと拳を握った。
 私だって兄が怪我をして帰ってきたらいやでも気がつく。何となく、同じ場所が痛いと感じることさえある。
 私達は双子だ。普通の兄妹よりも互いに深く繋がっている。私は兄のことに気がつく。だから、兄も、私のことに気がついている。

 ぴく、と肩が揺れた。呼ばれて振り返れば、兄が立っていた。外に出ていたのだろう、学ラン姿だった。そうしているとまるで中学生と変わらないな、と思い、きっと兄はあの頃から心が止まっているのだろうとも思った。
 こんなに周りを変えておいて、兄はいつもと同じ優しい顔と甘い声で私に話しかけるのだ。
「何してるの」
「散歩です。あんまり動いていないと、身体、なまっちゃいますから」
「そうだね。付き合うよ」
 そう言って隣にやってきた兄が、手を差し出す。その掌は今日はトンファーを握ったのだろうか。人を制したのだろうか。そんなことを考えながら、その手に指先を添えた。
 私の手を握る兄。兄に手を握られる私。反応がないと少し拗ねた顔をする兄だから、私はほんのりその手を握り返して、兄に笑いかけるのだ。

 今朝、兄が出て行ってから父に呼びつけられた。父が私を呼びつける理由など知れている。兄さんのことだ。
、何とか恭弥の勝手を止めてくれ。お前以外恭弥を止められる者がいない」
 毎度、父は同じことを言う。同じことを私に頼む。私は困ったと眉尻を下げるだけ。
 父に毎度同じことを言われ、私は何とか兄の手綱を握ろうとしているのだけど、兄は私の言葉を軽くかわしてしまう。聞いてはくれるけれど受け止めてはくれないのだ。それどころか、私が具体的な話をすればするほど、兄は不機嫌になってしまって、翌日、必ず誰かに当たる。父はそれを知らないのだろうか。
 たとえば、風紀委員の誰々と名前を挙げてその人のことを話せば、私が気がつかないうちにその人はいなくなっている。たとえば、もう喧嘩をしないでくださいと頼めば、兄は逆に喧嘩ばかりしてしまうのだ。
 この和服屋の簪が使いやすくていいと言えば、翌日和服屋が飛んできて、私は新しい簪を頼む破目になる。兄の余分な気遣いのためだ。そして、私がここのお寿司がおいしいと言えば、今度から電話で注文するのはその寿司屋、と、兄はすっかり雲雀家の主導権を握っていた。
 だから手綱を握れ。兄をコントロールしろ。父が口をすっぱくする訳も分かる。
 でも、逆効果でしかないことをしたって、無意味でしょう。父さん。
 私だってどうやって兄をコントロールすればいいのか、16年一緒に生きてきたのに、まだ分からないのよ。

「兄さん」
「うん」
「蹴鞠をしましょう」
 私がそう言うと、兄はきょとんとした顔で私のことを見つめた。「どうして?」「運動不足だからです」「…でも、、君は着物以外の服がないだろう」「? いけませんか?」裾を少し上げて縛れば蹴鞠くらい、と首を傾げた私に、兄は真顔で首を横に振った。兄に私の意見が却下されることが珍しくて、私まできょとんとしてしまう。
 もう少し身体を動かしておきたいと思ったのだけど、どうやら何かが兄の気に障ったらしい。
 それから私達はまた歩いて、私は下駄を鳴らしながら、兄は靴で砂利道を踏み締めながら、歩いた。兄がいるときはいつの間にか風紀委員の姿が消えていて、兄がいるときが、一番、晒される人の目が少なくてすんだ。
 けれど、兄の視線が誰よりも私を見抜いているから、リラックスもできないのだけど。
「兄さん」
「何」
「私、新しい本が欲しいです。この間買ってもらった三冊はもう読んでしまいました」
「早いね。いいよ、買ってあげる。あとでメモして頂戴」
「はい」
 今度は却下されなかったので、心持ちほっとして頷く。
 また黙って二人で歩き、私は、一度口を開きかけた。父のことを言おうかと思ったのだ。
 けれど、やめた。
 私は一度経験している。母があまりにも兄のことを心配するから、母さんがそう言っていましたと兄に伝えたら、兄は母を屋敷の外に追いやってしまったのだ。父さんも母さんも肯定はしなかったけれど、悲しそうに笑って車に乗り込んだ母を見ていたら、兄がそうしたことくらいは私にも分かった。
 邪魔だと判断したら兄は母でさえ屋敷の外へと追いやるのだ。それが父に当てはまらないと、言えるわけがない。父が最近兄さんのことを案じていて、なんてぽろりと口にしたら最後、兄は父までも屋敷の外へと追いやるだろう。だから私は貝のように口を噤むしかないのだ。

「はい」
 から、ころ、と下駄を引きずって歩く私。じゃり、じゃり、と石を踏んで歩く兄。
 立ち止まった兄に合わせて足を止めると、兄はじっと私を見ていた。目を逸らしたらその瞳に何かを見抜かれる気がして、私もその目をじっと見つめ返す。長いようで短い時間が通り過ぎ、兄から視線を外した。
 繋いだ手をぎゅっと握られる。
 唇を噛んでそっぽを向く兄に、私は首を傾げた。
 兄が何を言いたいのかだいたい分かるのに、今は少しも察することができなかった。
「…兄さん?」
 どうしたの、と言外に込めて兄を呼ぶ。彼は私を見ずに黙って歩き始めた。慌てて続いて、今日の兄さんはなんだか変だな、と思った。
 部屋に戻った私は、もう読み終えてしまった本を書机に広げ、電灯をつけ、三度目になる本の文頭に視線を落とす。『その逢瀬は決まって子の刻だった』という文章から始まる一つ昔の恋の物語。
 子の刻とは現代で言う午前0時。そう、私と白蘭がこっそりと畳越しに会話していたのも、午前0時。そこが酷似しているからこの本を広げる。0時まで、少しそわそわしながら、白蘭が畳を叩いてくれるのを待つ。
 けれど、結局その日も彼は現れなかった。
 兄が何かをしたということは明白であり、父が私を呼びつけたのも、きっとそのためだろう。
 …だからって私にどうしろと言うの。
 私にはとびきり優しい兄を叱りつけろとでも言うの。兄さん外でひどいことをしているのでしょう、そういうのはやめてって言えばいいの。そうしたら兄はきっとこう言う。どこでそんな話を聞いたのかは知らないけど、僕は風紀を正しているだけだ、って。本当に、何も悪いとは思っていない顔で、当たり前のようにそう言うだろう。そうして私に問うだろう。それ、誰から聞かされたの、って。そして、父は私の前からいなくなるだろう。
 …板挟みだけれど、私が家族を繋がなければ、雲雀家は崩壊してしまう気がしていた。
 兄は私以外などどうでもいいのだ。そうやって母を外へと追いやった。
 父のことだってどうでもいいのだろう。呼び出されたってよく無視するし、家の中で捕まったときは面倒くさいって顔をしながら黙っているだけで、父の言葉に頷くことすら稀なのだ。私が、繋がないと、この家はバラバラになってしまう。
「びゃくらん……」
 ぽつりと小さな声をこぼし、本のページに置いた手で拳を握った。
 早く。早く来て。お願い。お願い。
 あなたがガス抜きしてくれないと、私、今にもパンクしそうで。あなたの声が聞けないと兄の声ばかりが私を支配して。私、泣いてしまいそうで。
 うなだれるように机に額をつけると、ぱらぱらと肩を滑った髪が視界を覆う。
(白蘭…)
 その後彼が現れたのは、最初のときと同じで唐突なことだった。
 毎週お寿司の出前を取ると決まっている週末の日。少しでも息抜きがしたくて財布を受け取って出前の宅配に応じた私は、そこで彼と再会したのだ。正しくは、声を聞いて彼だと気付いたし、姿を見たのは初めてだったから、再会とは言わないのかもしれないけど。でも、私はそこで再び彼と出会った。
 …白蘭は、私のことを投げ出したわけではなかったんだ。そう分かって、本当に、心から、ほっとした。
「紙、紙…」
 読書以外あまり使わない書机の上で、鉛筆と消しゴムを用意した。手紙に使えそうな紙類を探すと、中学時代に使っていたルーズリーフの残りが出てきた。はさみでそれを適当な大きさに切る。大きすぎてはかさばるし、小さすぎても何も書けない。白蘭がくれたのと同じ縦横10センチくらいの紙を用意して、読めるだろうと思う大きさの、なるべく小さな文字で、言葉を綴る。一週間分の気持ちをぎゅっと詰め込むように。
 うちが出前のお寿司を取るのは毎週日曜日と決まっていた。
 お寿司の配達で初めて白蘭を見たときはびっくりしたけど、嬉しかった。支払いのやり取りだけで満足に話をできないことを分かっていて、手紙という形で言葉を残してくれたのも嬉しかった。本当に、嬉しかったのだ。
 彼が渡してくれた小さな手紙には、どうして急に来られなくなったのかとか、お寿司屋で働いているのかとか、兄に見つからないためにこれからは手紙という形でしか言葉を交わせないことなどが書いてあった。
、君はちゃんと笑わなきゃダメだよ。だって、女の子なんだからね。女の子は幸せに笑うのが仕事なんだよ』
 少しヘタクソな文字でそんなことが書いてあって、私はなんだか泣けてきてしまった。
 そうなのかな。ねぇ白蘭。もしそうなら、私、女の子の義務果たせてないね。だって私、もう愛想笑いみたいな顔でしか笑えないんだもの。幸せなんて、それがどんなものだったのかなんて、もう分からなくなってしまったんだもの。
 私、女の子失格ね。
 そんなことをつらつらと書いていたら、ぽた、と涙が落ちた。着物の袖で目をこする。ああ、せっかく書いたのに、涙の染みができてしまった。
 …彼に手紙の返事を渡せるまで一週間もある。また書き直せばいい。そう思って便箋代わりに本の間に書きかけの手紙を挟み、彼の手紙を何度も何度も読み返した。暗記してしまうくらいまで。
 そうして、私達の文通は続いた。
 お互い返事を待てず、出前の支払いで顔を会わせる度に手紙の交換をした。私がお札と一緒に手紙を忍ばせ、彼はお釣りと一緒に私に手紙を渡す。おかげで私達の文面はいつも食い違っていたけれど、構わなかった。直接話はできないけれど、それでもよかった。彼の言葉を手紙という形で知ることができれば、彼が私を心から気遣ってくれていることが分かれば、私の心は救われたのだ。

 私達が文通を始めて一ヶ月の頃、兄が外で乱暴なことをするという話を聞く機会が増えた。
 兄は恐らく私の中の変化に気付いているのだ。けれど、尻尾を見せないそれに苛立って、外に当たっている。私はそれを理解したけれど、この文通をやめるつもりはなかった。私にとっては兄以外の唯一は白蘭であって、彼だったらもしかしたら私のこの環境を変えてくれるのかもしれない、という淡い期待も抱いていた。
 …私にとって今や白蘭は畳の下からの不法侵入者ではなかった。彼は私の中で確実に居場所を取って、大きくなっていた。
「っ、」
 だん、と兄に壁に押しつけられたのは、突然のことだった。
 いつものように帰ってきた兄を出迎えて並んで廊下を歩いていたら、突然、だ。背中が痛い、と思いながら瞑っていた目を開けて「兄さん?」と困惑した声で兄を呼べば、私の手首を白くなるまで掴んでいた兄がはっとした顔で手を離した。一瞬だけ見えたような凶暴な兄はもうどこにもおらず、「ごめん、、ごめん…ひどいことをした。ごめん」と私を抱き締める兄しかいなかった。
「何か、上手くいかなくて…君に当たるつもりはなかったのに。ごめんね、痛かったね」
「…大丈夫ですから。兄さん、そんなに謝らないで。弾みだったのかわざとだったのかくらい分かってますから」
 ごめん、と謝り続けて小さくなっている兄の頭を撫でて、ああ、この人は本当に心の成長をやめてしまったのだな、と思う。
 ……兄は、私が消えるような現実が訪れたら、どうするのだろう。兄はどうなるのだろう。こんなに私しか見ていなくて、他はどうでもいいとしている人が、世界の中心を失ったら、どうなってしまうのだろう。
 なんだか恐ろしい問いを考えてしまって私は目を伏せた。私を抱き締めて「ごめん」と謝り続ける兄が、愛しいのに、私は、兄と同じ気持ちは抱けない。…それを知ってしまっている。
 白蘭に外の世界のことをたくさん教えてもらった。私と同じくらいの年頃の子がどんなことをしているのか、どんなふうに生きているのか、その自由な様を教えてもらって、いいなぁと思った。私もそうやって生きてみたいなって思った。兄に囲われた籠の中の生活ではなく、空を飛んで好きな場所へ行ってみたいと思った。
 一人だったなら、私は強くそう考えることはできなかったろう。自分が世界についてあまりにも何も知らないという現実の前にへたり込んでいたろう。
 でも、今の私には白蘭がいる。私の幸せを願ってくれている人がいる。
(……兄さん、ごめんなさい。私、生きてみたいんです。ちゃんと生きてみたいんです。あなたを、置いてでも)
 兄が崩れ落ちそうになって、慌てて抱き止めて、支えきれずに一緒に床に座り込んだ。駆け寄ってくる風紀委員の人に「大丈夫です」と呟いてから兄の頭を撫でる。
「兄さん、お部屋に戻って、着替えましょう。ね?」
 今、兄に声をかけて笑う私の顔は、どんなものだろうか。
 私のことを何よりも誰よりも大事にしてくれている兄さん。想い過ぎて、大事にしすぎてしまっている兄さん。
 格好良くて、頭も良くて、喧嘩も強くて、不器用な兄さん。
 私はあなたのことが大好きです。
 …でも、これ以上は、耐えられそうにありません。
 私は、自分の足でしっかり立って、生きてみたいのです。