だん、部屋の柱を殴ると、握った拳を伝って肩までがジンと痛んだ。
 はぁ、はぁ、と大きく息をして、痛みを伝える拳を開く。
 僕はさっきこの手で何をしようとした? いつもみたいに僕の帰りを迎えてくれたを、何より大事な妹を、力任せに壁に押しつけて、何をしようとしていた?
(尻尾が掴めない…の心が僕から離れていってることだけは分かるのに、それが、阻止できない)
 ぎりっと強く歯を食い縛り、布団の上に転がる。
 身体の中で何かがのた打ち回ってるような感じで落ち着かない。黒い化け物。正体不明の何かが僕の中で暴れ回っている。それが制御できなかった一瞬の間に僕はを傷つけようとした。そう、傷つけようとしたんだ。誰より守ってきたあの子を。大人の醜い感情を知り、怖がり、僕に隠れてにいさんとか細い声で僕を頼るあの子を。
 妹のことが大事だ。好きだ。愛してる。妹の婚約者をぐちゃぐちゃになるまで壊すくらいは愛してる。肉塊になった人間を前に唇の端をつり上げて笑うくらいには愛している。、これで君の隣は僕が取り戻したよ、と笑うくらいには、愛しているんだ。
 愛してるんだ。壊れるくらいに。壊すくらいに。人の道を外れるくらいに。
 愛してるんだ。君以外全部どうでもいいくらいに。
 他の誰かじゃ駄目なんだ。君じゃないと駄目なんだよ、
 頭の中でも黒いものが暴れ回っている。勝手に喚いている。
 今までよく我慢してきた。僕なりに我慢してきたよ。もういいだろう。を傷つけてしまいなよ。あの細い身体を抱いて刻んでやりなよ。君に僕以外が許されるはずがないって、傷つけてやりなよ。そう言って唇の端をつり上げて笑った自分が見えてばっと起き上がる。は、は、と肩で息をする自分の動悸が嫌な感じに早い。
(駄目だ…)
 を、傷つけちゃ、駄目なんだ。
 だって僕がトンファーを手にした理由は彼女を守るためだった。僕とそっくりの双子なのに、僕より弱くて、俯いていた、妹を守るためだったんだから。
 彼女を傷つけたら、卑しい目で見つめたら、僕は汚い大人と同じ生き物になる。幼い子供さえ素直に見られない、妹を傷つけていた生き物になる。そんなのは絶対にごめんだ。
 駄目だ。今はここにいたら駄目だ。気を緩めたら僕はまたに乱暴をするかもしれない。そんな自分何より耐えられない。
 着替えていなかったことが幸いし、僕はすぐに部屋を出た。ずんずんと大股で廊下を歩く。僕が制服のままであることに気付いて寄ってきた風紀委員が「委員長、どちらへ」と声をかけてくるけど無視する。
 とにかく外へ。今日はのことは風紀委員に任せて外へ行こう。とにかく落ち着くんだ。少し、落ち着かなければ。
「兄さん?」
「、」
 でも、そんなときに限って出て行くところを見つけられてしまった。「今から出るんですか? もう10時ですよ」と声がする。顔を向ければ黒い着物を着たがいて、靴を履いている僕に合わせて膝を折って床の上に正座したところだった。
 僕は、あの細い手首と肩を掴んで壁に押しつけたんだ。
 そのとき見えた鎖骨に何を思った?

 食ベテシマイタイッテ僕ハ。

 緩く頭を振った僕に妹は首を傾げた。「…仕事が入ったから」それだけ言って立ち上がる。妹を見れなかった。「そうですか。気をつけていってらっしゃいませ、兄さん」と僕を見送る声にきつく唇を噛み締めて鍵を外した玄関の引き戸を開け、ピシャン、と閉める。
 …今僕はどんな顔をしているのだろう、と自分の顔に手を這わせる。
 双子の、妹を、守りたいと思ってしてきた全てのことが。妹が怖がる世界を遮断して僕の愛だけで満たしてあげようと思っていた心が。初めて彼女を傷つけたことで、黒くくすんで、汚れて、僕は毛嫌いしていた大人と大差ない生き物へと成り下がっていく。
(僕はを傷つけたくない……)
 傷つけたくない。傷つけたくない。傷つけたくない。
 重い身体を引きずるように歩き出すと、頭の中の黒いものが唇の端をつり上げて笑った。嗤った。傷つけてしまえばいいのに、と嗤うそいつをトンファーでめちゃくちゃにしてやりたいのに、目の前にいない相手に対しては僕も無力だった。
 振り払うように歩いて、敷居をまたいで外に出て、「委員長? どちらへ」とかけられる声を無視して目的地も定めずに夜の並盛へと繰り出す。
 を傷つけたくない。かわいい妹を傷つけたくない。
 だから、代わりに、他の誰かを痛めつけよう。傷つけよう。それでこの身体が納得するなら、黒いものが少しは静かになるのなら、僕は他人を犠牲にする。
 夜の街を徘徊し、深夜2時にも関わらず大声で喋って酒を酌み交わしていた若い奴5人を痛めつけて、そのうち2人死んだけど、放置した。手元が狂って頭をかち割ってしまった。ああ、後片付けが面倒だ。
「……………」
 赤い色をしたたらせるトンファーを掲げる。
 誰かを傷つけたことで少し落ち着きを取り戻した僕は、自分が有害でしかないという現実に薄く笑った。そう、唇の端をつり上げる、あの笑い方で。

 傷ツケテシマエバイイヨ。
 今マデヨク我慢シテキタ。
 モウイイダロウ。
 ヲ傷ツケテシマイナヨ。
 アノ白イ身体ヲ抱イテ刻ンデヤリナヨ。
 君ニ僕以外ガ許サレルハズガナイッテ、傷ツケテヤリナヨ。

(うるさい黙れ。黙れ)
 ひゅっと空を切って振り下ろしたトンファーが3人目の頭を割る。びしゃ、と赤い色が顔を叩きつけても僕の中では以前としてあいつがいる。黒い僕がいる。笑っている。嗤っている。嫌な笑い方だ。違う、僕はそんなふうに笑わない。に対してだけは違うんだ。彼女は僕の全てだ。大事な妹だ。大事なんだ。そんなふうに笑いかけるはずがない。
 僕が手を引くのも、僕の手を引くのも、妹だけだった。
 僕が風邪を引いたら妹も風邪を引いて、並べられた布団で2人して寝込んで、僕の方が早く回復して、は一日遅れて元気になった。
 蹴鞠をした。お手玉をした。あやとりをした。かくれんぼをした。
 一緒に習字を習い、着物の着付けを習い、茶道を習い、授業がつまらないとの手を引いて習い事の場を抜け出したりもした。
 あの頃は幸せだった。
 は兄の僕を見ていて、僕は妹に笑いかけていて、両親は僕らを抱擁した。どこにでもある家族だった。
 それが壊れたのは、親が勝手に取り決めたの婚約者が現れてから。
 僕は僕から幸せを奪いに来たそいつが許せなかった。
 初めての破壊衝動。全身を支配した熱情。逆らわずに従っていたら僕は人を殺していた。
 赤い色は嫌いじゃない。
 だって、ねぇ、これで僕は君の隣にい続けることができるんだよ。
「は…っ」
 自分を嘲笑い、ひゅんひゅんとトンファーを片手で振り回し、どうせ3人も殺したんだから、と残り2人の頭もぶち壊す。
 器を割られて溢れた中身と広がる赤。
 壊れた人。
 壊れている自分。
 壊れていく自分。
 君を守りたいという愛が、汚れていく。壊れていく。
 …。誰より好きで、何より愛しい、双子の妹。

 兄さんと僕を呼ぶ声。幼い笑顔。僕と手を繋ぐ君の手の温度。あたたかい時間。
 人を壊した手。したたる赤。鼻をつく満ちる臭い。赤い色。ただの肉塊。笑う僕。嗤う僕。生臭く、赤に染まった時間。
 傷ツケテシマエバ。抱イテシマエバ。刻ンデシマエバ。
 ソウシタラ僕ハスッキリスルダロウカ?
 ごっ、とトンファーで自分の腕を殴りつけた。痛みで感覚が焼けそれ以外が分からなくなり、頭の中で笑っていた黒いものが消える。
 は、は、と肩で息をする僕の目から何かが落ちた。足元を汚す赤い色の中に落ちたものがなんだったのか分からないまま、自分で傷つけた腕を押さえて蹲る。
 …赤い色が視界いっぱいに広がっている。血の濃い臭いが立ち込めていて、鼻が麻痺してくる。それなのに僕はその赤に対して特に感慨を覚えることもできない。
 誰よりも好きで、何よりも愛おしい、僕の
(僕は、もう、駄目だ)