(んんー…?)
 銭湯でお風呂をすませ、いつものように共用スペースの畳の上でごろごろしていると、風紀委員が5人くらい慌てた様子で走って行くのが窓の外に見て取れた。よっと反動をつけて起き上がり、窓に寄って張りついて、去っていく黒い後ろ姿を眺める。…何かあったのかな、あれ。
 せっかく広げたけど筆記用具類を片付け、からの手紙もしまった。手荷物であるリュックを担いで外に出る。彼らはここを右に行ったはずだ。
 風紀委員が走っていった方へ小走りで行ってみると、遠くでパトカーのランプの赤がくるくる回っているのが見えた。まだ距離はあるのにこんなによく分かるってことは、それなりの数のケーサツが集まっているということ、か。
 …変だな。並盛は警察だって風紀委員の、というより雲雀の息がかかってるはずだ。両者出揃うくらいの大事があったってことだろうか。そんなの、彼が一刀してそうなのに。
 気になって駆け足で近づき、野次馬の一人として人混みの中に紛れる。上がった息を整えつつ、警察が「下がってください、ほら下がって!」と声を上げているのにむしろ押し寄せている人混みの中からぴょこっと背伸びしてその現場というやつを見た。
 だいたいの片付けは終わってるし現場検証もやってる最中なんだろうけど、警察が器用に避けて現場保存に努めてる場所は、血の赤に沈んでいた。
「…あれ、なんかあったんです? 喧嘩って血の量じゃないですよねぇ」
 自分がイケメンってやつに分類されると自覚してる僕は笑顔でおばさんに話しかけた。騒ぎを聞きつけて半纏を引っ掛けて出てきたという格好のおばさんは「そうよねー、怖いわよねぇ」とか言いつつも喜々として僕に応じる。「何でも、よくあそこで溜まってた不良5人が倒れてたらしいわ。でも…」ちらり、と現場に視線をやるおばさん。同じくそっちを見やる僕。ようやく周囲から現場を隔離するために青いビニールシートで覆われ始めたそこには赤い色。喧嘩でちょっと粗相をしましたってレベルじゃあない。警察が動いて現場検証までしてるってことは恐らく。
(死んだか、殺された、か)
 ふむ、と一つ頷く。「あなたも、髪白くなんてしてるけど、あんまり親に心配かけちゃだめよ?」と言うおばさんにへらっと笑って「はーい。おばさんも、何かと危ないだろうし家に戻った方がいいですよ」じゃあ、と野次馬でごった返す人混みを抜け、風紀委員の姿を探す。確かにこっちに行ったはずなのにいるのは警察だけで彼らのリーゼントを見かけない。さて、どこへ行ったかな。
 これだけ大騒ぎになってることに、風紀とうるさい雲雀恭弥が顔を出さないなんてことはないだろうと思うんだけど、今のところ彼の姿を見ていない。さて、風紀委員はどこかな?
 きょろきょろと辺りを見回して歩いていると、走って行く風紀委員を一人見かけた。よっしゃ、とツいてる自分にガッツポーズして大股の速足で夜の闇に消えそうな黒い風紀委員の姿を追うと、なぜか河川敷のある河原沿いの道に出た。んん? と首を捻りつつも風紀委員のあとを追って視線を遠くに投げる。闇に支配されて黒く流れる川の辺にぽつぽつと灯りがあって、人がいるのが見える。
 たん、と足を止めて深呼吸し、河原沿いを散歩していますという顔でゆっくりと歩き出し、走ってその光のもとに合流した風紀委員を横目で見やる。
 現場の保存にも手を貸さないで、何をしてるのかと思ったら。風が吹き抜けてさぶいだけのこんな河原沿いで何やってるんだろ。
「委員長、お召し物を」
 風に乗って小さく聞こえた声にぴくと肩が揺れた。
 顔を向けて目を細めれば、黒く緩やかなうねりのある川からざぱりと音がしたところ。闇に沈んでいてよく見えないけど、風紀委員が委員長って呼ぶ相手は一人しかいない。彼だ。でも、なんで川で水浴びなんか。もう冬が近いんだから水なんて凍える温度だろうに。今はそれよりすべきことがあるんじゃ。
(…んん?)
 首を捻って考えつつ、歩みは止めない。
 並盛の風紀にうるさい雲雀恭弥が明らかに風紀を乱している事件を放っておくというのは変だ。むしろ率先して色々やってるはずだ。それが全部警察に丸投げ、風紀委員を一切投入しないなんて。
 ……様々な世界の自分と事を共有した経験のある僕としては、そこまで考えて、答えが出た。名探偵ホームズじゃないけど、こういうのはパターンとか場慣れである程度イメージが浮かぶ類のものなのだ。
 並盛の風紀が乱れているにも関わらず動かない風紀委員と雲雀恭弥。血で沈んでいた現場の風景。もう冬になろうとしているのに川で水浴びなんてしていた彼。そこに集っている風紀委員。
 つまり、この事件は、風紀委員が調べるまでもなくすでに誰の仕業かはっきりしているのだ。
 そして、雲雀恭弥が動かないのは。彼が川で水浴びなんてしていたのは。血で汚れた自分の赤を洗い流すため。
「相変わらず派手だなぁ」
 ぼそっとぼやいて、河原沿いを適当に歩く。びゅっと吹きつけた風におおさぶとパーカのフードを被ってを肌を守る。
 人殺しか。
 ああ、そうだった。雲雀恭弥っていうのは元来喧嘩好きだし自分勝手だ。溜まってた不良5人を手にかけることぐらいやってみせるだろう。
 でも、殺す必要はなかったはずだ。

『最近、兄さんの様子が少し変です。白蘭のことを追ってるのに尻尾が掴めないって苛々してるのは分かるの。でも、やっぱり少し変。なんだか不安定みたい』

 の手紙の文面を思い出し、目を閉じる。
 …どうやらあんまりのんびりしてることもできないみたいだ。
 雲雀恭弥は妹の雲雀を愛で押し潰そうとしている。重たく閉鎖的な愛で囲い、彼女の人生を食い潰そうとしている。
 僕は、愛で誰かを食い潰したことはないけど、自分のためだけの幸福を前提にしてたくさんの人の未来を蹴落としたことはある。
 そう、これとそれは似ている。僕らが似た者同士であるように、やってることもよく似ている。
 彼は僕と同じく人を外れたのだ。
 僕は綱吉クンによって倒され、ここへ来て、人間として生きてみようと思えたけれど、彼は違う。道を外れたままだ。誰かが正さないといけない。でも、彼に唯一言葉を届けられる彼女は埋もれかけている。唯一自分を救えるものに頼りすぎて、彼は自分で自分を追い詰めているのだ。
 引き離すしかない。
 このままの状態が続くのは両者にとってよくない。は疲弊するだけだし、雲雀恭弥は愛に狂うだけだ。
 よっし、とリュックを背負い直した僕は駆け出した。
 今なら雲雀家の警備は手薄だ。警察があれだけ騒いでるのだから今夜は並盛自体がざわつくだろうし、風紀委員は外に出ずっぱになるだろう。今夜しかない。何通りか考えていたのための未来の一つを今選択しよう。
 僕は、彼女を連れて逃避行の旅に出る。
◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 何か物音がした気がして、薄目を開けた。のそりと布団から顔を出して、夜の闇に沈んでいる部屋を眺めて、まだ深夜だと思った。朝は遠い。それなら、まだ寝られる。
 再び目を閉じて布団の中に埋もれた私の腕がずきんと痛んだ。唐突な、そのくせ鈍い痛みだった。
 痛い、と思って腕を持ち上げて眺めても、怪我はない。ただじんじんと痛む。
 ああ、これは兄が負った傷だ、きっと。
 痛みの伝達を不思議がることもなく、私は細く息を吐いた。双子という繋がりがどこまで科学的に証明されるのかは分からないけど、これは兄の傷とみて間違いないだろう。
 そのとき、トン、という物音がした。ぱたりと腕を下ろして、寝ぼけ眼で視線を彷徨わせる。
「だれですか…?」
 廊下と部屋とを仕切る襖戸がノックされたんだろうと思った私は、眠そうな声を投げかけた。けれど、襖の向こうは静かで、誰の返事もない。
 …何か頭に引っかかるものがあって、眠い目をこすって起き上がる。
 これ。こういうの、前にも。

「、」
 くぐもった声に呼ばれて、慌てて起き上がる。布団を跳ね除けて抜け出し、敷布団ごとずらせば、ずり、と畳が動いた。人が通れるくらい大きくずれた畳と畳の間から白い頭髪がひょこっと覗いて、白蘭が顔を出す。「どうしたの、こんなに遅くに…」「しー、いいから」私の唇に指を押し当てた白蘭が畳みの下から部屋へと上がる。靴を脱いで部屋の中を歩き回って「これいいね、持っていこう。」「え、」「他に何かお金になりそうなものないかな」「え、えっと」彼の突然の訪問と突然の申し出に頭の中が混乱する。いつかに白蘭を侵入者だと思って向けたあの短刀。それ以外に、お金がかかっていそうなもの…。
 ぱっと立ち上がって箪笥を開ける。ずらりと並んだ着物を示せば「それはダメ、重すぎる。持っていけるサイズでないと」と首を振る白蘭に少し考え、兄が買ってくれた簪が入った引き出しを開けた。「お、これはいいかも」と簪を持っている袋にざらざらと入れる白蘭に、さすがに困惑する。
「白蘭? それどうするの」
「ん、換金するんだよ」
 彼の言葉に絶句した私は、まさか白蘭は今まで猫の皮を被っていただけで実は物取りだったんじゃ、と絶望しかけた。視界がくらりと揺れるくらいに。けれど、そんな私の両肩を掴んで、白蘭はこう言った。
、逃げよう。僕と一緒に」
 頭の中が真っ黒ではなく真っ白になって、空白のあと、「え?」と聞き返すことが精一杯だった。
 今、彼はなんて言ったのだろう。
「雲雀恭弥はもうダメだ。君への愛をコントロールできずに壊れかけてる。このままじゃ君が食い潰される」
 、幸せになりたいでしょう。真剣な顔で私を覗き込む彼に、こくんと頷く。

 幸せに。なりたいよ。
 白蘭が教えてくれた、女の子としての幸せ、知れるものなら知りたいよ。
 私、生きたい。行きたい。

 頷いた私に、白蘭も一つ頷く。「じゃあ行こう」と手を取られて、兄と違って指が長いんだな、と思いながら、私は、白蘭についていくことを決めた。
 …もう、私も限界だったのだ。板挟みの現実も、どこか不安定な兄も、何もかも。
 だから、唯一私を救い出してくれると言った白蘭を、信じることにした。
 はい、と渡されたサンダルを履いて、畳の隙間に入り、暗い世界の中へと身を潜める。
 近く雲雀家の地下部屋として完成するらしい着工しかけの場所を通り抜け、白蘭が歩くのを追っていると、下水道に出た。濁った水のにおいとピチョンと水の垂れる音のする空間。足元の寒さが手伝ってか、ここはまるで別世界のよう。
 ごくん、と唾を飲み込んで、着物の裾を持ち直す。
 こんな暗い場所で鉄の冷たい手すりを掴んで下りたり上ったりすることも初めてなら、下水道という空間に出ることも、初めてだった。
 慣れないサンダルという足元と着物の長い裾、二つに足を引っぱられて何度も転びかけた私を、その度に白蘭が助けてくれた。
 こもった臭いにこほと咳き込む。整えられた場所にしか行ったことのない私にはなかなかに鼻が厳しい。そこで「あっ」と声を上げた白蘭が急に立ち止まるからぼふっと彼の背負うリュックに鼻をぶつけた。い、痛い。
、着替えよう。着物は邪魔だし、目立つから」
「え、でも、私着替えが…」
「ジャージ上下で悪いんだけど、こっち着て。で、裾まくってね。ぱぱっとね」
 はい、とジャージというものを押しつけられて、白蘭はくるっと私に背を向ける。混乱しつつも私は言われるままに着替えた。確かに、着物でこの場所を移動するのは懸命とは言えないと納得したからだ。裾が汚れるのを気にして両手でたくし上げれば手が塞がるし、着物を普段着にしている私にはピンとこないけど、彼曰く目立つらしいので。
 私は白蘭と逃げるのだ。あの家から逃げ出すのだ。兄の愛という檻の中から逃げ出すのだ。
 雲雀と決別するためにも、私は着物を手離さなくては。
 ジャージのズボンを着用、大きかったので腰紐を縛ってちょうちょで結び、裾をまくって膝辺りまで上げた。着物の袖から腕を抜けば、ばしゃ、と音を立てて裾が水の流れる床に落ちた。…さよならをすると決めたとはいえ、慣れ親しんだ着物を汚すのは、やはり申し訳ない気持ちになってくる。
「あ、」
「え」
 そこで白蘭が何かに気付いた声を上げるから、慌てて長い髪を防御にすると、リュックの中に片手を突っ込んでごそごそさせて「それだけじゃ寒いよね。はい」と起毛生地のTシャツを渡してきた。もちろん後ろ手に。
 そろりとそれを受け取って着てみる。…大きい。しょうがないんだけど。
 その上から上着を羽織って袖を通し、長い髪も今は邪魔でしかないだろうと判断してジャージの内側に入れ、チャックを一番上まで閉める。着替え完了。
「着物はどうするの? 置いていくの?」
「ここに放置はまずいかな。どこかに隠すか、水の中に沈めるかだね」
 いい? と首を傾げた彼に「大丈夫」と返せば、白蘭が振り返って、暗闇の中でじっと私を見つめた。「やっぱり僕のじゃ大きいね。うん、しょうがない」とごちた彼が落ちた着物を拾って適当にたたむ。
 白蘭が首から提げているライトだけが光源だったので、私はその辺りに視線を彷徨わせつつ、歩き始めた彼の背に続いた。
 誰かに見つかるといけないから、と会話は必要時以外はなしと言われて、私はぐるぐると色々なことを考えながら、白蘭についてひたすら歩いた。
 下水道というのは基本的に円を描いた空間で、円柱が横に倒されてずっと先まで続いているような場所だった。そこを下水が流れている。余分な空間がないので、下水を避けて歩くのもなかなかに大変。
 一つ円柱を抜けると水の流れ込む少し広い空間に出たり、四角い大きめの道も通ったり。白蘭は地図も見ずに進んでいるけれど、足取りに迷いがないから、彼は現在地を把握しているんだろう。今ここで一人残されたら、私は永遠に地下を迷子になる自信がある。
「白蘭」
「ん」
「これから、どこへ行くの?」
 どうしても気になっていることの一つを挙げると、彼は少し笑ったようだ。「さぁて、どこかな。どこでもいいけど、とりあえず並盛を出て落ち着ける場所を確保してから考えたいトコだね」「あ…」そうか、と口ごもった私に彼はまた笑った。下水道なんて慣れない場所に出たからすっかり逃げおおせた気になっていたけれど、ここは、地下でも、まだ兄の支配下にあるのだ。
 と、白蘭が立ち止まった。私も足を止める。「」と鋭い声で手を引かれて慌ててしゃがみ込む。遠くの方で、光が揺れたのだ。
 彼は瞬時の判断でライトを消して、足音を忍ばせながら水の音が大きい方へと向かった。私もなるべく足音を立てないように歩いて彼に続いた。
 部屋を出てからずっと、胸がドキドキしっぱはなしだ。
「ああもう、日本の下水道は無駄に整備されてるから隠れるところないな」
 ライトを消してしまったから全ては闇に沈んだままだけど、ここは道がまっすぐ続くだけなのだ。白蘭の言うとおり、ここでは隠れて相手をやり過ごすという方法が取れない。どうするのか、と私が顔を曇らせたとき、彼が急に立ち止まった。ばふっとまたリュックに激突して、鼻が痛くなる。
「どうしたの」
「…あそこに上ろう」
「え?」
 あそこってどこ。暗くて、全然見えない。
 白蘭はまるで夜目の効く動物であるかのように暗闇の中で私の手を取って歩き、迷う素振りすらみせない。「、ちょっと抱き上げるけど、怒らないでね」と言って、私の腰を掴んで持ち上げた。あわあわする私は無意味に手を伸ばしてごちっとぶつけてしまう。すぐそばが壁だったのだ。「え、びゃく、」「まっすぐ正面だ。そこ、登って」困惑しつつも正面を向いて手を彷徨わせると、少し上に空間があることに気がついた。この大きな下水に繋がる小さな道だろう。白蘭はここへ上がれと言っているのだ。
 下水で濡れているコンクリートに触れるなんて、と一瞬躊躇ったけれど、がし、と壁を掴む。「いいよ」「ほいさ。せーの、」よいしょ、と持ち上げられるのと一緒に前のめりになってばちゃっと着地。うう、やっぱり汚い。それから冷たい。
 手探りで暗闇の中を模索し、「よっ」と掛け声を上げた白蘭を探す。コンクリの床を這っていた手がようやく彼の手を見つけ、私は彼がよじ登る手伝いをしてうんとその手を引っぱった。
 ばちゃ、という音のあとに「ふー」とこぼした声に、無事登れたようだ、とほっとする。
 かち、とライトをつけた彼が私の無事を確認した。光はすぐになくなって、闇と水音が私達を包み込む。
 ばしゃばしゃという荒い足音が近づいてくる。振り回される大きなライトの光が下水道の道を照らし出している。あのままあそこを歩いていたら見つかっていた。危なかった。

 …どきどきしていた。これまでにないくらいに。
 ああ、私は生きている、と思った。

「いたか!」
「いやいない、こっちじゃないようだ! 急げ、様を探せ! 地下に出られたことは確かだっ。委員長に知れる前に連れ戻さねば、我々の命はないも同じだぞ!」
 びく、と肩が震える。委員長。兄のことだ。それならこの人達は風紀委員。兄のとばっちりを一番に受ける人達。
 どくどくと心臓が早く鼓動する。引き返していく風紀委員の人達に何か言いたくなる。兄を唯一宥められる私がいなくなることで、彼らの身にどんなことが起きるのか、考えただけで恐ろしい。
 …でも、私は。戻りたくない。
 ぎゅっと拳を握った私に、かち、と光が灯った。「?」私を覗き込む白蘭にぼふっと抱きつく。

 私が選んだのは他の誰かを犠牲にした道だ。
 それでも行きたいと彼に縋った私は、身勝手だ。
 それでも、そんな私でも、白蘭は言ったんだ。ちゃんと笑わなきゃダメだよって。女の子は幸せに笑うことが仕事なんだからって。

「大丈夫、行ったよ。それに、もうちょっとで並盛を出るから。下水臭いのももう少しの辛抱だよ」
 ぽん、ぽん、と背中を叩く手に頷く。「足、冷たくてごめんね。サイズが分からないのと、荷物が重くなるからさ、サンダルしか持ってこなかったんだ」「うん。大丈夫」「そう? じゃあ、行こう」限られた光源の中で立ち上がった白蘭に続いて、壁に手を当てながら立ち上がる。今度は白蘭が軽く屈まないと通れないくらい狭く細い道だったけれど、先を歩く彼の足取りに迷いはない。私は安心して彼についていくことができた。
 …そう、これは始まり。
 これから私は生きるんだ。生きて行くんだ。
 そのときの私は、白蘭という頼れる人がそばにいてくれること、自分の未来が不確定であることが嬉しくて、笑っていた。
 ……私をなくした兄が、狂ってしまうとも知らずに。