生まれた限り、生きている限り、この世に存在している限り、いつかは終わりが来る。無機物にも有機物にもそれ以外にもおしまいだけが等しく訪れ、束の間存在した自分というものをきれいに消し去ってしまう。
 生きているということはそれだけで残酷な現実だ。
 生きている限り可能性に怯えなくてはいけない。終わりが来るまでそうやって生きていかないとならない。
 どれだけ嫌だと叫んでも、おしまいは私達に手を伸ばしてくる。必死に走る。その手に影を捕まれることがないように走り続ける。転びそうになりながら、階段を駆け上がったり駆け下りたり、山道に入ったり海辺の砂浜を蹴ったりしながら、どこまでも追ってくる影からただひたすらに逃げる毎日が広がっている。
 終わりたいなんていつ誰がどこで言ったというのか。私は終わりたくなんてない。あっちに行けと叫んでもおしまいは手を伸ばしてくる。私の影を捕らえようと。そうして影を捕まえたらそのまま私を引きずり込むようにして足首を絡め取り、私を転ばせ、なお走ろうともがく私を容赦なく呑み込むのだ。
 私は終わりたくなんてない。私はまだ走りたい。まだ息をしていたい。
 生きている限り、怯えなくてはならない。痛みを堪えなくてはならない。悲しみに耐えなくてはいけない。それはとても辛い。そんな辛いことが日常。世界の姿。終わってしまうならその方が苦しまずにすむのではないかと思えるくらいに胸を抉るような日々。
 でも。ううん、だからかもしれない。少し、走り続けることに疲れてしまった。
 おしまいは嫌だ。まだ終わりたくない。でも、その強い気持ちが褪せるくらいには、私はもう疲れ切っていた。
 どうせ終わりから逃れることはできない。いつか私も終わる。あの影に呑まれてしまえば、簡単に終わってしまう。
 ねぇ、じゃあ、終わらせようか。どうせ終わるのだから。逃げたくても逃げられないのだから。だったら終わらせよう。
 何より、もう私は疲れてしまった。生きることにも、逃げることにも、何もかもに。
 その時の気持ちは諦めが一番大きかった。次に安堵だろうか。あとはぐちゃぐちゃだった。悲しかった気もするし悔しかった気もするし苦しかった気もするし辛かった気もする。ぐちゃぐちゃだった。
 でも思った。これで終わろうと、諦めた心でおしまいの手から逃げることをやめ、走り続けて疲れ切っていた足を止めたとき、ほっとした。
 どうせ逃げられないのだから。だったらもう立ち止まろう。足を止めてしまおう。そうすればもう疲れることはないから。もう息を切らせることもないから。おしまいに足を取られてしまえば私は終わる。私が構築する私の世界は終わり、何もなくなる。私がいなくなっても世界は終わりに向けて回り続けるだろうけど、自分のいなくなった世界のことなんて私はどうでもいい。私にとっての世界はそこで終わりだ。私が終われば、私の世界だって終わる。
 どうせおしまいに包まれてしまうのなら。なるべく苦しまず、痛みを感じず、悲しみも感じず、辛さも感じない、そういう終わり方が望ましい。

 は、と短く笑って足を止めて顔を上げる。振り返ったらきっと恐怖が湧き上がるから、後ろは見ない。
 次第に暗くなっていく世界の中で、私は空を見上げた。雲一つない晴れ渡った空は、灰色をしてた。
 ああ。私、どうしてあんなに一生懸命走っていたんだっけ。がむしゃらになっていたんだっけ。どうして終わりたくないと必死になっていたんだろう。どれだけ逃げたっていつかは終わってしまうのに。現に今足を止めてしまった。どうしてだろう。どうして今まであんなに走っていたんだろう。
 足首を、冷たいものが這い上がる。背中が寒くなる。それでもじっと空を見上げたまま、終わりに支配されるまで、私はただ空を見上げ続けていた。
 これで、おしまいだと。目を閉じて。諦めて。ほっとして。じわりと心に何かが滲んで。黒い人が滲んで浮かんで。唐突に、自分が走っていた理由を思い出した。
 終わってもいいと思っていた。そんな世界だった。だけど終わりたくないと思うようになった。それは、
 それは、一人の人のせいであり、その人のおかげでもある。
 全身を覆う冷たいものに預けていた身で、ちっとも動かない身体で、前を見る。そこに誰かが立っている。いつも黒いものばかり着ている、あまり表情を動かすことのない、私のよく知ってる人が。
?」
 呼ばれて、目が覚めた。
 ぱちと目を開けると見知った顔が一つ、こっちを覗き込んでいた。何度か瞬いて「びゃくらん?」と掠れた声で呼んでみると、白蘭はにこりと笑みを浮かべて「アタリ。っていうかよくこんなとこでそんな体勢で寝れるよね。僕は無理だなぁ」と言って私の頭を何度か撫でた。
 こんなとこ、で示されているのは鳥籠のような牢屋の地べたという意味で、そんな体勢というのは膝を抱えて小さく蹲っている姿勢のことを言っていた。
 ずり、と足を動かして伸ばす。すっかり身体が凝り固まっていた。おまけに嫌な夢を見てしまったせいでとても寒い。背筋も心も全てが寒い。
 全身を白っぽい服装で固めている白蘭は「おやつ持ってきたんだ。マシュマロ食べるでしょ」と笑う。
 私がこの人に捕まって、そろそろだいぶたつ。ここには時計のようなものはないし、外も見えないから、正確にどのくらい時間がたっているのかはよく分からない。
「紅茶は、あるの?」
「もっちろん。今ある一番いい茶葉を持ってきた。すぐ用意させるよ。だからお茶にしよ」
 にこにこと笑顔を浮かべる彼に、私は抵抗する術など持たなかった。こくりと一つ頷いて、白い装束を引きずるようにしてゆっくり立ち上がる。
 白い鉄格子に囲まれた広い鳥籠の牢屋の中に、白いテーブルが一つと、白い椅子が二つ。隅には白いベッドもある。
 ここは鳥籠の中。そして私は、そこに捕らえられた小鳥。
 白い服を着た人達がティータイムの準備をしている間、後ろから私を抱き締めて、白蘭は一人話を続けている。「この間街に行ったらさ、に似合いそうな白いドレスを見つけたんだよね」「ドレス?」「そー。うーんあれってウエディングドレスなのかなぁ。でもシンプルなデザインだったし、気に入っちゃってね。普段着でいいからにに着せようと思って」およそ私の主観を無視した、同意を求めていない一方的な話だった。そんなこと諦めていたし、慣れていた。
 白い色なんて、似合わないと思っていた。だって私は黒い色ばかり着ていたから。それが、あの人の好きな色だったから。だから黒い色ばかり着ていた。白い色とは疎遠だった。
「さ、お茶にしよー」
 ティータイムの用意が整ったテーブルへと歩き出した白蘭に手を引かれて歩く。白い色の背中を見つめてから目を伏せる。私が慣れている黒い色は、ここには存在しない。
 あの人、今頃どうしてるだろう。
 私が白蘭の手に落ちたとき、どんな顔をしていたろう。どんなことを思ったろう。何も思ってくれなかったろうか。それも十分ありえると思ってしまうのが少し残念なところだ。
 早く、帰れたらいいのだけど。そう思いながら白い椅子に浅く腰かけて、白いカップの中の琥珀色の液体を見つめた。向かい側で白蘭がさっそくマシュマロを頬張っている。「ほら食べて食べて。遠慮しないで」「…うん」顔を上げて淡く微笑む。にこにこ笑顔を浮かべている彼に、私は何もできない。ただ従うだけ。怖い夢を見たんですと縋りつける黒い背中はここにはない。ないのだ。

 君、馬鹿じゃないの

 そう言ってくれる人は。ここにはいない。不器用にくしゃくしゃ髪を撫でてくれる手はない。人を慰めるときに浮かべるような笑顔なんて知らないあの人は、無表情に少し困惑を混ぜて、私の頭を撫でるだけ。
が何考えてるのか、手に取るように分かるなぁ」
「、」
 はっとして意識を戻す。テーブルに頬杖をついてこっちを眺めている白蘭はにこにこと笑顔のままだった。笑顔を浮かべてるくせに少しも笑っていない目は、射抜くような鋭さで私を捉えている。
「好きな子の表情はどんなものでも見たいだろ? だからいいんだけどね。でもやっぱり面白くないよねー。手を伸ばせばすぐ届く距離に僕がいるのに、君は違う奴のことを考えてる」
「そんなこと、」
「あるある。僕的にはさぁ雲雀恭弥ってそれなりにできるんだろうなって思うくらいだけど、人としてさ、優しくないでしょ? 唯我独尊の一匹狼じゃん。そばにいたって大事にされないよ? むしろ傷つきそう。それなのにどうしてアレのことばっかり考えてるのか理解できないなぁ」
 ぐしゃり、とマシュマロを握って潰した白蘭が笑う。それはとても薄っぺらい、作りものの笑顔だった。
 カップを持つ手が震えないように、余計なことを言わないように、私は唇を引き結ぶ。そんな私に相手は笑う。薄い笑顔で席を立って私に手を伸ばし、その掌がゆっくりと頬を撫でて落ちる。
「僕なら君に優しくするよ。甘くて溶けそうなくらいに優しくしてあげる。もう少しで時空の覇者になれるからね。そうしたらなんっでもできるようになるし、君が怖いと思ってるものとか全部を取り払うこともできるようになるさ」
 んね、と笑いかけられて、何も返せない。
 私が怖いと思っているもの。たとえば、終わりが定められているこの命の期限とか、世界に訪れるおしまいとか、自分の手では変えられない大きな運命とか。そんなどうしようもないものを相手にしても、笑うんだろう。この人も、あの人も。
 似ているのだ。どこかが少しだけ。だから思い出したりする。少し重ねたりする。白い色と黒い色を、似て非なる二つを重ねて、胸が苦しくなったりする。
「…白蘭は」
 ぽつりとこぼして、少し口を閉じて。続きを待ってる彼に、こう言う。「私を、どうしたいの」そう呟いた私ににっこりと笑顔を浮かべて、彼は言うのだ。「は僕のお嫁さんになるんだよ」と、もう決定事項のようにそう口にして、笑うのだ。
「だから、アレは消さないとね。そうしたら君は泣くのだろうけど、そういう顔も見たいな。それにどうせ僕でいっぱいになるんだから、いいよね。少しの間悲しいくらいさ」
 にこにこと笑顔を浮かべて、白蘭は怖いことを言う。
 震えそうになる手でカップを口に運んで、ミルクティーを飲み下した。甘い味がするのに心は寒いままだった。あたたかくならない。こういうときあの人はどうするだろう。私、どうしたらいいだろう。
 答えが見つからないまま、「ほらあーんして」と差し出されたマシュマロを見つめて口を開く。
 白いマシュマロは甘く、噛んでいれば口の中で溶けて消えた。
 まるで、黒い背中が、遠ざかるように。溶けて、消えた。