『 一度目。自分でも何十×をつけたいか分からないくらいに大失敗
  ほぼ思い通り描いていた道すじの未来を大幅に変更 』
 一度はやってみたいと思っていた世界大戦という戦争の最中で見つけてしまったちっぽけな君は、ただ一人の人間で、女の子で、ミルフィオーレに対抗する組織ボンゴレのトップの婚約者だった。
 見つけた君を光だと思った。
 どうしてそう思ったのかは分からない。強いて言うなら、直感的に、だろうか。
 僕の魂とかその辺りの何かが君を光だと叫んだ。僕はそれを信じた。自分を信じた。自分以外に信じるべき何かなんて僕にはなかった。他でもない自らがそう感じたのなら、それを信じる。そうして今まで勝ち残ってきた。これもそれと同じだ。
 手に入れたくて交渉を持ちかけたら、相手は意外にもその光に執着した。大義名分を掲げて戦っていたくせに、それを守るためにその光を手離すことはしなかった。
 だから殺した。ボンゴレ率いる沢田綱吉も、その仲間も、家族も、全員殺してその光だけを残した。
 どうだい僕にはこんなに力があるんだよ。だから僕のところへおいでよ。絶対に得するから。にこにこ笑顔で言ったのにその光は恐怖とかその辺の何かで顔を引きつらせたままで、気の毒になるくらいがたがたと震えていた。何がそんなに怖いのかと自分を顧みたら、白を基調としているはずの制服がべったりと重く紅に染まっているのに初めて気がついた。
 小さなその光の名前を僕は知らない。
 その光は人のカタチをしていて、女の子のカタチをしていて、恐怖に引きつった顔でもう動かない沢田綱吉の手をずっと握って離さなかった。
 周りで朽ち果てて動かない人間だったものに囲まれて、血にまみれて笑顔で手を差し伸べる僕に顔を引きつらせ、その光は舌を噛み切って死んだ。
 僕が手を下したわけじゃない。だけど結果的にその光は消えた。その原因は僕にあるのだろう。
 あまりにも直接的で短絡すぎたと僕は自分の行動に×印をいくつもつけ反省した。
 次はもう少し穏便に、できれば血を見せないように事を運ぼう。そう決めて、僕は飛んだ。
『 二度目。これもまた失敗
  人は生きている。彼女も生きている。僕も生きている
  僕が飛べるのは十年前まで。それまでにあった全てに、僕は干渉できない 』
 光だ、と思ったのはどうしてだろう。ポケットに手を突っ込んで猫背気味に歩きつつ、制服姿で通学する君を見ていて何度となく考えたことだ。
 僕は基本的に自分が信じたことは信じるけれど、そこに理由を探さないほど馬鹿でもない。自分で感じたことは信じているけど、納得するだけの理由をこうして探している。もうずっと。
 君は別段美人でもない。スタイルも普通。性格というほどのものを僕はまだ知らない。見た目でしか君を判断できない。
 でも、別に美人でもないしなぁ。ありきたりな日本人だ。どうして気になったんだろう。気にしたんだろう。光だなんて思ったんだろう。時間を巻き戻してまでまた君のことを追いかけたんだろう。不思議だ。
 中学三年生の君の背中を眺めて、コンビニで買った肉まんをかじった。普通の味すぎて特に感想も浮かばない。
 これってストーカーだなと思いながら君の背中を追いかけて歩く。君を光だと思った理由を探して君を追いかける。
 君はどこまでも一般人で普通の女の子だった。観察すればするほどそれがよく分かった。その度につまらないなぁと思った。あの沢田綱吉が最後までこだわって譲らなかった光が本当にただの女の子だなんてね。
 午後、学校が終わる時間帯、夕方。僕はスタバにいて、頬杖をついて紙カップのコーヒーをすすっていた。
 受験勉強ってやつをするためにスタバの奥の席に座って教科書やらノートやらを広げている君が、気難しい顔で眉間に皺を刻んでいる。ときどき思い出したようにスコーンを一口かじり、水を飲み、また勉強に戻る。そんな君を眺め続けていると、君のテーブルの横に黒い格好の誰かが立った。君が顔を上げる。僕も視線を上げて相手を見る。なんてことはない、知っている顔。あどけなさというか子供っぽさの方が残る雲雀恭弥、だ。
「恭弥くん」
「用事って何」
「あの、勉強が分からなくて…数学得意だったよね。教えてほしいなぁって」
 教科書を取り上げてあれこれと手振りを加えて分からないをアピールする彼女に、雲雀恭弥は呆れたような顔をして彼女の向かいの席に腰を下ろした。そのときちょうど目が合った。何見てるのさとでも言いたげに細められた灰色の瞳は、知っている目だ。とてもよく知っている。君は気に入らない相手にはそういう目をしてつっかかっていったからね。
 それからさ、知ってるよ。前回の君は沢田綱吉の隣で笑う彼女を物欲しそうに眺めていたよね。無表情だったけど、表情がない分だけ君の瞳は感情を映すんだ。それって自分では気付いてないことなんだろうけど。
 知ってるよ。君が彼女のこと昔から追いかけていたってこと、昔から影で守ってきていたんだってことも、ちゃんと知ってるよ。僕が戻せない時間のその向こうで君はを見てきたんだよね。それって少し、いや、だいぶ、羨ましいことだ。
 コーヒーの紙カップを持って席を立つ。
 雲雀恭弥が来てしまったことだし、今日の観察はここまでだとスタバの店を出て、振り返る。
 窓ガラスの向こうにいる君と黒い彼。その黒い方が僕のことを睨んでいた。下手をしたつもりはないけれど、気付かれたのかもしれない。まだ子供とはいえ相手はあの雲雀恭弥だ。彼女が僕のストーカー行為に気付いて彼に相談したなんてことも考えられないわけではない。そういう用心棒に彼はもってこいだろうし。
 さて、それならどうしようか。うーんどうしようかな。
 ぶらりと歩き出しながらコーヒーをすする。必要最低限なものしか食べていない胃にコーヒーは妙に沁みた。
 結果的に、その世界で君は雲雀恭弥と結婚した。
 あの日から君の隣には黒い彼が立つようになった。ときに周囲を警戒するような灰色の鋭い眼光を逃れることは難しくなかったけれど、雲雀恭弥を出し抜いて君に接触するというのはなかなかに大変で、風紀委員に見つかったり彼自身に妨げられたりしているうちに時間だけが過ぎた。僕も他にやるべきことがいくつかあったし、あまり性急すぎると前回のように大失敗を犯してしまうし、とゆるりゆるりと君とのことを考えていたら、あっという間にエンドがやってきた。
 君は生きている。ただ他人のものになったというだけで、が雲雀になったというだけで、君という人は根本的に何も変わらない。君が光だと感じたあのときの気持ちは変わらない。だから君を手に入れたいと思う気持ちも変わらない。
 だからエンドなんて文字が現れるのはおかしいのに、エンドだなんて、なんで思ったのだろう。
 あまり急いだらいけないと悠長に構えていたら今度は先を越された。そのことが思っていたより僕のプライドを傷つけたようで、雲雀恭弥の目を盗んで君を奪って拉致監禁するという強引な手段に出てから初めて気付いた。泣いてばかりの君はちっとも光なんかではなくて、笑っていなくては、意味がないんだと。
「ねぇ、そんなに雲雀恭弥のことが好き?」
 泣いてばかりの君に問いかけても無言。僕の方を見ることもなければ頷くことも否定することもせず、それしかできないようにすすり泣いて、泣いて、泣いて、ずっと泣いていた。
 どうやって突き止めたのか知らないけど雲雀恭弥が君を奪い返しに来たとき、僕は自分でも意固地だと思うくらい抵抗し、最終的に君を殺した。
 もう一度誰かのもとへ渡るくらいなら。僕の前では泣いてばかりの君が違う奴の前で笑うのなら。そんな君は、死ねばいいと。君を殺した。
 君を殺した掌が真っ赤に濡れた。
 君の頚動脈を断ち切ったたった一度のその感触を、僕は永遠に、引きずることになる。
『 三度目。これもまた失敗
  この手で君を殺したあのときの感触が消えてくれない 』
 飛んだ十年前でもう一度最初からやり直し。
 今度の世界では積極的に君にアピールすることにした。今の世の中ナンパなんて珍しくもないからそういった手段で君に近付くのはたやすい。
 僕は容姿的に劣っているわけでもなかったし、君の関心を惹くのには甘い言葉とか甘いマスクがあれば事足りた。君は最初こそよく分からない顔でぽつぽつとしか僕の言葉に応じなかったけれど、それも一ヶ月ほどの話で、二ヶ月も三ヶ月もたてば僕が本気なんだと知ってちゃんと僕に向き合うようになった。
 君が僕を見てくれる。僕の目を見て話をしてくれる。僕がちゃんと笑えば君も笑ってくれる。光になる。他人の前でしか笑わなかった遠い光が目の前で輝いている。そのことが嬉しかった。本当に、すごく、嬉しかった。
 僕は完璧に演じていたはずだ。君に必要な人間を。君が必要な人間を。君という光に惹かれた人間を。
 でも、君はまた僕から離れた。
 前々回は沢田綱吉、前回は雲雀恭弥、今回は六道骸。どこで盤面が狂ってしまったのか、あんな棘しかない奴のところへ君は行ってしまった。あの人のこと放っておけないみたいなの、ごめんね白蘭なんて泣き出しそうな顔で言って、行ってしまった。
 あんな奴を放っておけないなんて言うくらいなら、僕のそばにずっといてほしかった。
 演じていた完璧な人間をそれ以上演じる理由もなくなり、僕のそばから離れると言った君を閉じ込めた。どこへも行けないように、どこにも行かないようにと閉じ込めた。
 それまで積み重ねてきた日々があったから君は僕を完全に拒絶することはなかったけれど、ずっと哀しそうにしていた。六道骸のことが放っておけないと言ったのは純粋にただ彼のことを心配していたのかもしれない。だけど僕はたったそれだけのことでも許せない、心の狭い人間になっていた。
「ねぇどうしてそうなの。どうして僕のこと置いていくの。君はいつでもそうだ。僕は誰より君を必要としてるんだよ?」
 ねぇと言葉を吐き出しながら君の首を両手で掴んだ。勢いのまま君の首を絞めてしまおうかとすら考えた。
 君の首に触れたときに思い出すのは頚動脈を断ち切ったあの感触。それがぶるりと全身を震わせて寒気を呼ぶ。君が哀しそうに笑っていることが何より背筋を寒くさせる。
 前回の君は泣いたままだった。その前の君は恐怖に引きつった顔をしていた。そして今の君は笑っている。哀しそうに笑っている。君と僕の隙間は少しずつだけど埋まってきている。道はすぐ平坦にはならないけれど、君と僕の距離は縮まっている。そのはずだ。現にこの世界では君と笑うことができた。そうだろう? だからこれは間違ってなんかいやしないさ。君と僕は決定的に交われないなんて、そんなこと、僕は認めない。
 この世界でそれ以上君を見ていることができず、僕はまた飛んだ。
 君の首から手を離したときの君の笑った顔が、殺してくれてもよかったのになんて笑った顔が、網膜に焼きついた。
『 四度目
  正直君にどう接していいのかと迷ってしまって、この世界では大したことができなかった
  ただ、君が他の誰かと笑うのを見ていて、やっぱり僕の光だと思った。だから諦めるなんてできない、と強く思った 』
『 五度目。失敗
  君がボンゴレの傘下に入ることが未来なのならと僕もボンゴレに入ったみたけれど、誰かの下で動くなんて僕にできるはずもなかった
  僕ならこうするああすると意見が口を突くし、実際そうした方が上手くいくことが多く、結果的にデキすぎる僕を気に入らない幹部により反乱分子として組織から弾き出される形になった
  君との関係は恋人だった。ボンゴレから外れても内密に関係を続けていた
  組織と僕との板挟みで君が苦しんでいることに僕はとっくに気付いていた
  それでも君を手離すことができなくて駄々をこねる子供のように君に縋りついていたら、君は心を病んで、病院の屋上から飛び降りて、全てが終わった
 ……僕は知らない。気付きたくもない
 君のことは遠くにある光として諦めようなんてオトナの見解は、僕にはない 』
『 六度目
  この世界では徹底的に君のことを調べ上げた
  生い立ちから始まり育った環境や状況などは言うに及ばず、これでもかというほど君についてを調べ上げ資料をまとめ、分からないことはないというくらい君を理解した
  君の好きなタイプ、嗜好品、苦手なもの、嫌いなもの、全てを熟知し君に接したにも関わらず、ズレていく。全て整っているはずの盤面に前回とは違う何かが現れ、僕と君の間に割り込んでくる
  面白くない。とにかく面白くない
  この世界で君のことを一番理解しているのは僕だ。この僕だ
  それなのにどうして君は僕以外を見たりするのだろう? 僕以外に笑ったりするのだろう? 君のことを一番求めているのは僕なのに、どうして君は僕を好きになってくれないのだろう?
  ミルフィオーレを設立するためにするべきことの時間も全部捨てて、君だけに割いたのに。時間も、心も、身体も、全て捧げたのに、報われない。そんなのってあんまりだ
 君は言う。僕のことがよく分からないと
 僕は言う。君のことが欲しいだけだよと
 君は言う。どうして私なの、と
 僕は言う。そんなの僕だって知らないよ、と
 君は言う。なら私じゃなくても白蘭は大丈夫、と。それだけ人のこと愛せるのだから、私よりもずっとあなたのことだけ見て、あなたのことだけ愛してくれる人がきっといるよ、と
 僕は言う。だから、僕は君に愛されたいんだ、と、叫ぶ
  ……口にしてから気付いた、その愚かさ
  僕は君のことを愛していた。好き以上に思っていた。好ましい以上に想っていた。だから欲しかった
  君に惹かれた。その存在が心を捉えた
  理由なんて、たったそれだけのことなんだ。たったそれだけで十分なことだったんだ 』
 僕は飛ぶ。駆け抜ける。現在から過去へ、過去から現在へと時間を辿り続ける。

 繰り返し繰り返し君を求め続ける夢は現実へと繋がらず、何度でも何度でも僕は時間を越える。

 何度でも。何度でも。君が僕だけを見てくれるその日まで飛び続けようと、僕はまた過去へと時間を巻き戻す。
「はぁ…」
 悩ましげな溜息まで吐いて、恋するって辛いことなんだな、と思春期男子みたいなことを思った自分に薄く笑う。
 だらしなく机にへばりついていた身体をのろりと起こして、右手を掲げる。いつかの世界で君の命を断ち切った手。君の血で真っ赤に染まった手だ。今は何も汚れていない掌。さっきまでポテチとかつまんでいた、どこにでもある普通の手。
 あれから何かある度しつこいくらい手を洗うのが癖になった。どれだけ洗っても君の血がこびりついて離れないような錯覚をまだ抱いたりする。もうだいぶ落ち着いたけど。
 だらりと下ろした手で机に頬杖をつき、遅いなぁと思う。
 場所はどこにでもあるカフェの一角。待ち合わせの時間は十分は過ぎた。でも君は現れない。すっぽかされたかな、とだいぶ気持ちが沈んだところで机の上に放置していた携帯が震えた。反射のような動きで掠め取ってフリップを弾いて通話ボタンを押せば『白蘭ごめーん今着く!』と元気な声が聞こえた。僕が心からほっとしたのは言うまでもない。
「何? なんかあったの」
『おばーちゃんに道訊かれちゃって。私も分からないからあれこれ探して、結局、駅員さんにパスしてきたんだけど…って着いた』
 カランカランとカフェの扉に取りつけられたベルが高い音を立てれば、扉の向こうから息を弾ませて飛び込んできたのは他でもない君だった。携帯を持った手を振って「白蘭ごめんね遅れたね、本当ごめん」と駆け寄ってくる君が眩しくて、僕は目を細めて君の姿を脳裏に刻み付けた。
「私が奢るよ。待たせちゃったもん」
「いいよ。デートのときに女の子に会計させる男がどこにいるのさ」
「ええ…でもなぁ」
 席について、不満げな顔でコートを脱いだ君がまだ納得してない顔をしつつ水の入ったグラスを傾けた。頬杖をついたままじっと見つめているとぱちっと目が合って、視線が迷ったあとにまた僕へと戻って、君がはにかむように笑う。僕も口元を緩めて笑う。君のそういう顔が、たまらなく好きだ。
 一見すれば恋人同士のように見える僕と君との距離感だけれど、ずっと君だけを見ている僕は知っていた。君が僕以外を見ているんだということに気付いていた。その相手が誰かまでは知らないけど、僕は君のことを愛しているけれど、君は僕のことを愛してはいないということに気付いていた。分かっていた。
 …それでも、愛していた。
 僕は君を愛している。君を光だと思ったあの瞬間から、君に焦がれている。
 どうでもいい話をしてカフェでのお茶をすませてショッピング街へ行き、君が欲しいと言っていた新しいバッグを買うために店を渡り歩いた。
 君の隣を歩きながらその手を握ろうと何度か考えた。だけど君が困ったような顔で笑うのだろうと思ったら最後の踏ん切りがつかず、結局最後まで手を握れなかった。
 今日は夕食は食べずに早めに帰るという君を駅まで見送ったときに言われた。
 白蘭あのね、私、好きな人がいるんだ。だから、これからは白蘭とこういうこと、できないかもしれない、と、僕をあまり傷つけない言い方でやんわりと笑って言われた。
 …傷つかないわけではなかった。もちろん傷ついた。僕は君の笑顔に微笑を返したと思うけれど、それがどういう笑顔だったかまでは分からなかった。不自然じゃなかったろうかとかそういうことも分からなかった。どれだけ予想していた言葉でも、防護壁を纏った心でも、君の言葉のナイフはたやすく僕を抉るから。その痛みでその他が曖昧になってしまうから、上手に笑えていたろうかなんて、もう分からない。
 想像していた。長年の経験とでもいうのかな。他の世界での君と僕を見てきたから、経験してきたから、分かるんだ。そうだろうなって分かってた。
 だけど、僕は君のことが好きだよ。愛してるよ。そいつが君にひどいことするようなら僕は君のところへ飛んでいく。いつだって行くから、言ってね。そう言ったら君は笑ったっけ。
 ……本当にそうなってくれたなら。君の好きになった相手が実はひどい奴で、君を裏切ったり悲しませたりするような奴なら。そうしたら僕は一時でも君の居場所に、なれただろう。それが悲しみや寂しさ、孤独からくる慰めを求めるような心だったとしても、構わなかったろう。
 君をこの腕に閉じ込めることができるならなんだってよかったんだ。君が求めてくれるならどんな形だってよかったんだ。
 改札の向こうの人混みの中へと混じっていく君を見送って、駅を出る。寒空の下で握って消える息を吐き出して自分の右手を掲げた。
 いつかの世界で君の命を断ち切った手。君の血で真っ赤に染まった手。
 僕はまだこの世界で生きるだろう。君が僕を見てくれることを願いながら、君を待つのだろう。
 君は進む。どの世界でも君は前へと進む。
 僕は止まっている。君という光を見つけた瞬間から僕は止まっている。君が隣にいてくれないと歩けないと、僕が自分で決めたから、そこから一歩も前へ進めていない。全く馬鹿みたいな話だけど、君がいないと僕は何度も現在を過去に巻き戻してやり直しばかりしているんだ。
 ねぇ、馬鹿みたいだろ。いい加減にしなさいって、君がそうやって隣で叱ってくれれば、僕は前を見るのにね。
 このままじゃどうやっても君は僕を見てくれないのに、僕は何度繰り返すつもりなんだろう。いつ諦めるつもりなんだろう。もう無理なんだって、泣くのだろう。
 曇天へ向かって伸ばした右手でぐっと拳を握って胸に押しつける。
「待つよ。待つくらいならいいでしょ。迷惑かけないからさ。…ねぇ
 未練がましく言葉を吐いて、歩き出す。巻き戻した世界の時間の中を、過去を歩く。生きるべき現在を捨ててひたすら過去を生きる。そうしないと君がいないから。
 ここには君がいる。でも僕を見る君がいない。だから僕は進めない。もうずっと止まったままだ。
 僕を愛してくれと叫んでも、君は他の誰かを愛する。君が好きなんだと告白しても、君は困ったように笑うだけ。ありがとうと笑うだけ。でも私は、と絶望の言葉を繋げるだけ。
 それなのにまだ待つだなんて、僕も相当にしつこい男だ。

 君へ渡したい溢れるほどの愛を譲る先など見当たらず、君からの愛に渇望しながら、僕は生きる。
 『もういいかい』という言葉に『もういいよ』という声が聞こえるまで。

も う い い か い