人間て寿命があるでしょう?
 人に限らず存在するものには寿命ってツキモノだけどさ、それってなんか理不尽な話だよね。望んで生まれてきたわけでもないのに、仕方ないから生きようかって思えたときには死ぬことを考えないといけない。生きようとすればするほど死の影が過ぎる。ね、そういうのってさ、理不尽すぎるよね。
 だから僕は世界を変えるよ。どんな手を使ってもね。
「…、」
 懐かしい言葉を思い出して瞼を押し上げると、見慣れた白っぽい部屋が見えた。どうやらソファに転がってうつらうつらしているうちに私は眠ってしまったようだ。
 よいしょと身体を起こして伸びをするとあちこち痛む。
 立ち上がって窓辺に行き、ガラス戸を開けた。窓の向こうからはやわらかい春のような風が吹き込んできて髪を揺らしていく。
 ここが地下だなんて、言われなければ絶対に分からない。吹き込む風が偽物だなんて分からない。この陽射しでさえ太陽を模擬されたものだなんて、言われなければ絶対に分からないだろう。
 よいしょ、と窓枠を乗り越えて中庭に下りる。しゃがみ込んで地面に触れるとさらさらとした芝生の感触が掌をくすぐる。
 これは多分本物だ。ううんどうだろう、作り物かもしれない。試しにぷちっと一本抜いて断面に目を凝らしてみる。多分本物、じゃないのかな。どうかな。
 立ち上がって中央にある大きな木の根元へ行って、幹に掌を当ててみる。耳を押し当てて目を閉じてみる。これは本物? どうかな。ここにどのくらい本物が置いてあるんだろう。どうなんだろう。
「何してんの
「、」
 どきっとするくらい耳元で声がしてびっくりして振り返ると、彼がいた。白蘭という名前の人。それ以外はよく知らないけど、なんだか色々できる人らしい、ということは分かってる。
 距離を取ろうとしたけど拒まれた。自然な形で幹に両手をついて私を囲んだ彼が「本当外好きだね。気付くと君は外にばかりいる」「…でも、偽物、なんでしょう? ほとんど」「そっ。もう地上のものはほぼ毒されてるしねー」「?」毒されてる、の言葉に首を捻った私に彼は笑う。
 その笑顔はとても寂しそうで、悲しそうで、そして空っぽだった。
「部屋戻ろーよ。お菓子持ってきたんだよ。お茶にしよ」
「…またマシュマロ?」
 彼の好物である白くてふわふわのお菓子を思い出してじとりとした目を向ける。あはと笑った彼は「いんや、今日はの大好きなバタークッキー。すんごく苦労したけど手に入ったからさ」「えっ」クッキーと言われてぱっと顔を上げる。そんな私に彼は笑う。彼はまるで鏡のように、私が本当に嬉しいって笑うと、本当に嬉しそうに笑うのだ。
 いつの間にか手を引かれていたけれど、もう抵抗しようという気持ちもなかった。
 ちゃんとテラスの窓の方から部屋に戻ると、もうお茶の用意がしてあった。
 私がソファに腰掛けると、当たり前のように彼が隣に腰掛ける。もう慣れ始めたその体温の近さ。その存在の近さ。
 かちゃん、とカップを手に取る。琥珀色の液体にミルクを垂らしてスプーンでかき混ぜて一口。うん、おいしい。砂糖を入れなくても甘くておいしい。
 手を伸ばしてお皿にきれいに並べられたバタークッキーを一つつまむ。どきどきしながらぱきんと割って半分口に入れた。どのくらいおいしいのだろう、と期待で膨らんでいた心にクッキーの味が届くと、心で膨らんでいた期待の風船は幸せな風船に空気を移してしぼんでいく。
 彼の用意するものは全て一級品だ。だから本当においしい。
 ふと、いつもなら今日はどうしてたとか僕の方は相変わらず忙しいとか何かしら話をしてくる彼が静かなことに気付いた。視線で窺うとじっとこっちを観察しているのが見える。…彼に見つめられることに慣れてきたとはいえ、やっぱり、あまり気持ちのいいものでもない。
「…白蘭、食べないの?」
「んー。おいし? クッキー」
「うん。すごくおいしい」
 ぱく、と残り半分を口に入れてそう言って笑ったら彼も笑った。「んじゃ僕も食べよ」とクッキーをつまんでぽいと口に放り込んだ彼は、満足そうだった。

 急にこんなところに連れてこられて軟禁のような生活を送っているのに、私はどうして彼のことを怒れないのだろうと考える。
 普通に暮らしていた。世界は回っていた。普通に生活していた私は街で彼とすれ違った。きっかけはそれだけだった。何をされたのか憶えていないけど、気付いたらこの部屋にいた。それからずっと外には出ていない。そんな私に彼は言った。こうするしかなかったんだ、と。
 意味が分からなかった。でもそう言った彼はとても苦しそうで悲しそうで寂しそうだった。今にも泣き出しそうな小さな子供にも見えた。だから怒るに怒れず、中途半端な気持ちを持て余して、結局溜息を吐くだけで終わった。
 彼を怒ることはできなかった。責めることができなかった。そうして当然のはずなのに。
 作り物でできた世界に特別な不自由は感じず、出会う人の姿はなく、ここには彼がいるだけ。
 狭い世界は白っぽい色でできていて、私は空の色を忘れた。雨の感触を忘れた。本当の太陽を忘れた。
 それでも、彼を責めることができない。どうしてだろう。

「何か欲しいものはある? 今度来るときに調達できるよう考えとくけど」
「…白蘭」
「うん?」
「さっきうたた寝してたら、昔の白蘭の言葉を聞いたよ。だから僕は世界を変えるよ、って。あれはどういう意味…?」
 紅茶を一口含む。隣で白蘭は空っぽの笑顔で笑う。「また昔の記憶だねそれ。どういう意味ってそのまんまの意味だけど?」「…それがよく分かんないよ。どういうこと?」カップをテーブルに戻して、その手で彼の髪に触れた。ふわふわした髪をそろりと撫でて、確かめるように頭を撫でてみる。私の手を握って止めた彼は、もう笑っていなかった。いつかに見た苦しそうで悲しそうで寂しそうな顔をしていた。それを笑って追い出そうとしている、そんな顔をしていた。
「…僕は神になるんだ。この世界を支配する全知全能の神様に」
「……神様になってしたいことがあるの?」
「したいこと? それは特にないけど、世界の支配者になることに意味があるんだ。…ああ、いや。したいことか。僕がやりたいことは、したいことになるのかな」
 自嘲のようなぼやき声が耳を打つ。祈るように私の手を両手で握り締めて「世界を変えたい。支配するというより、変えるために、手の届く世界にしたい。全てに手の届く存在になりたいんだ」「…それは、どうして?」無謀な夢としかいいようのない言葉をこぼす彼を私は笑えない。今まで見てきたどんな白蘭よりも、今目の前にしている彼が一番弱い存在に見えたから。
 夢見ることを忘れてしまった瞳が私を捉えて、私を抱き締めた。片腕で強く抱き寄せられた現実に、頭が追いついてくれない。
「君を救いたいからだよ。
 耳を掠める言葉はとても苦しそうで、泣き出しそうな、子供の声だった。
 頭が追いついてくれない。でも私を抱き締める今の白蘭は、確かに震えていた。そんな幼い子供のような彼に問い詰める真似もできず、私は目を閉じる。口元を緩めて笑って彼の頭をゆっくり撫でてあげる。
 急にこんなところに連れてこられて、自由を奪われて、怒ったっていいのに。どうして私は彼のことを怒れないのだろう。それどころか、しょうがないな、なんて笑ってしまうんだろう。
「白蘭。私なら大丈夫」
「…どこの世界でも君はソレだね。そう言う」
「世界?」
「…何でもないよ」
 私の頭を撫でた彼はもう震えていなかった。私の肩に手を置いて離れた身体は細く、その瞳は強く。予感していた口付けが降ってきても私は彼を突き飛ばすことなどできず、ただ、ゆっくりと目を閉じた。