数え切れない数の世界があった。数え切れない数の運命があり、正義があり、悪があり、人生があった。
 人は死ぬ。誰でも死ぬ。遅いか早いか、満足に逝くか不幸に逝くか、多少の違いはあれど死んでしまうことそれ自体に変化は訪れない。
 寿命は存在する全てのものにあるんだし、そう悲観することでもない。この世界に投げ出されて生きることを強要される僕らはその瞬間からすでに不幸なんだ。それだけなんだよ、人間て。だから泣きながら生まれてくるんだよ。自分が生まれたときから不幸だって自覚してるから。そして人間は不幸に生きて、不幸に死ぬんだ。ただそれだけなんだよ、人間て。

 そう語った僕に、それは違うよ白蘭、と返す声の持ち主がいた。

 確かに生きるものはいつか死んでしまう。事故で命を落とすのか、病気に蝕まれて息を引き取るのか、老衰で満足に逝くのか、違いはあると思う。
 でもね、生きているって幸せなんだと思うよ。生まれたときに泣いていたのはきっと嬉しいから。嬉し泣きだよ白蘭。あなたもそうやって生まれてきたんだよ。私もきっとそう。

 その人はそう言って僕の言葉をやわらかく否定した。
 でもいつかは死ぬでしょう、それは変わらないでしょう。どんなに生きたいと叫んでも人はいつか死ぬんだ。僕が食い下がるようにそう言うとその人は困ったように笑う。そうだね、それは変わらないねと。
 白蘭、と呼ばれる。掌が頬を滑り落ちて死ぬのが怖いのと訊かれる。
 僕はこのとき笑った。そんなこと言うまでもないのにと。
 数え切れない世界に存在する数え切れない自分と意思を共有する僕は、どちらも思っていた。これだけ様々な世界で生きてきたのだからもういいだろうという考えと、これだけ色んなことができるのだからもっと生きていけばきっと面白いことだってある、という考え。
 怖いよ。死ぬことが怖い。それを必死に誤魔化してるんだ。どうだい、この無様な僕はさ。笑って言ったけれどその人は悲しそうに微笑んだだけで、否定しなかった。肯定もしなかった。それがまた辛かった。
 怖いよ。君を失うことがただ。そうこぼして抱き締めた君は僕の頭をゆっくりと撫でる。あやすように。
 そしてまた君が死んだ。僕より先に死んだ。
 一度目は交通事故。地下鉄のホームに落下して滑り込んできた電車に身体を切断されて死んだ。勝手にホームに落ちて死ぬ人なんていない。彼女は突き飛ばされたのだろう。それが故意だったのか本当の事故だったのかはもうどうでもいい。ただそうやって君は死に、僕の掌をすり抜けた。
 二度目は病死。僕が必死になって他の世界から病の特効薬を探してる間に君は死んでしまった。急性の病で、これまで見たことも聞いたこともない、身体が石のように硬化していく病気だった。二日ともたなかった。息を引き取った君は彫像のようにきれいで、その光はまた僕の掌をすり抜けた。
 三度目は天災に巻き込まれて死体も残らなかった。大きな地震に火山活動まで加わり、一般市民だった君は僕の手が届かないところで死んだ。抗いようのない自然の力に押し潰されて。
 四度目は戦争の最中に爆撃で。五度目は要人として狙われ暗殺。六度目は人を庇って銃撃を受けた。七度目は首を吊って自殺。八度目はテロに巻き込まれた。九度目はまた病死。原因不明の病が世界を蔓延り、慈善事業を率先していた君はそれに感染して死んだ。
 そこから先はもう数えるのをやめた。
 君が死んで僕の掌からすり抜けていく焼けるような感覚が大嫌いだった。
 君が僕の手の届かないところで死んでいく。僕を残していってしまう。それが嫌だった。
 だから、自分のためにも、僕は世界を征服しよう。世界を手中に収めてしまえばきっと君も生きていけるはずだ。今までのことを僕は忘れない。忘れられない。だから今度こそ違う世界で君と幸せに生きてみせるんだ。君を奪うあらゆる可能性を潰してみせる。今度こそ君が老衰で死ぬまで僕の隣にいてくれる世界を作ってみせる。
 僕の願いは単純だ。してることは大きいのかもしれないけど、僕はただ、君と一緒に生きていきたいって、それだけを願ってるんだよ。
?」
 意識が醒めて、掠れた声で彼女の名前を呼んだ。返事がない。何度か瞬きしてから腕を伸ばして反動をつけて起き上がると、僕が寝ていたのはソファだった。無理な姿勢で固まってたせいか身体のあちこちが痛い。
 ぱさり、と音を立てて落ちたのは白いブランケットだった。それをつまんで記憶を辿る。僕はこんなもの被って寝た憶えはない。から、これは彼女が被せてくれたものだろう。
 その彼女を探して視線が彷徨う。アテもなく足を踏み出してとにかく探した。ベッドにはいない。テレビの前にいるわけでもない。浴室でもないし、そうなったらまた外だ。
 テラスの両開きの大きな窓を押し開けてたんと白いタイルを踏む。人口の風が肌を撫でて生ぬるい。

 わりと大きめの声で呼んだのに返事はなかった。むっとしつつ人工芝の上を歩いて彼女の姿を探す。
 少しして、見えた姿と耳に引っかかる微かな呼吸音に足を止めた。
 彼女は眠っていた。中庭の中央にある大きな木の根元で、わざわざ運んできたのか、広げた白い布団の上で人口の陽の光を浴びて眠っていた。
 ほっとする。恐怖を握り潰すようにぐっと拳を握り締めて歩き出す。気持ち音を立てないようにさくさくと芝を踏んで、白い布団に埋もれる彼女の傍らにゆっくり膝をつく。そっと手を伸ばして頬を撫でるとあたたかかった。そのことにまたほっとした。
 ああ、君は生きている。そう実感して僕は安心する。この世界で君はまだ生きている、と安心する。
 今度こそ君を死なせはしない。そう誓った胸の内に今までの君の死に様が思い浮かぶ。列車に身体を分断されたむごい身体、彫刻のようにきれいな状態で死んだ君、自然の猛威に押し潰された君、戦争の最中空からの爆撃に基地ごと吹き飛ばされた君、僕の隣の立場に目をつけられ毒殺された君、子供を庇って撃たれた君、恵まれない人生に首をくくってさよならをした君、飛行機を乗っ取ったテロリストにより集団自殺をせざるを得なかった君、人の力になりたいと言った君を容赦なく襲った流行り病。
 君は死んだ。死んでいった。どれも僕の手の届かないところだった。だから僕は世界を手の届く形に変える。神になる。今度こそ君に無残な死が降り注がないように。
「…風邪、は引かないか。ぬるいもんね、ここの空気」
 ぽつりと独り言を漏らす。さわさわと風に揺れる木が木の葉を何枚か落とした。ひらりひらりと宙を舞う葉が視界の端に見える。
 何も知らずに眠っている君は生きていた。呼吸していた。それだけでよかった。たったそれだけで、涙が出てくるほどに嬉しかった。
 この世界の君にとって僕がどんな存在なのか分からないけど、現実世界から君をさらってこんなところに軟禁している僕は、よほどひどい男に見えるんじゃないだろうか。
 たとえば、君に嫌いだとか憎いとか言われたとして。そうしたら僕は。
(…思い浮かばないなぁ)
 想像してみたけど上手くいかない。うーんと首を捻ったところで頬に触れている手に触れる掌の感触。顔を寄せて「」と囁くと彼女が薄目を開けて僕を見た。口元を緩めて笑った彼女が「白蘭」と僕を呼ぶ。それだけで僕はもう。
「ひどいな、そばにいてよ。こんなとこで眠ってないでさ」
「だって…いい天気に見えたんだもん」
「いつも同じでしょ」
 半分呆れて笑うと、彼女は目を閉じた。さわさわと静かな風にやわらかい髪が揺れている。
 何度も確かめるように頬を撫でていると、彼女が笑った。「しつこいよ白蘭」と。「しつこくて悪かったね」と返してその頬に口付ける。君が生きている、ただそれだけの現実がこんなにも嬉しくて。
「…ねぇ」
「うん」
「人間てさ、泣いて生まれてくるでしょ。どうしてだと思う?」
 思い出した昔のことを口にしてみる。じっと見つめている先で彼女は不思議そうな顔をしていた。それから少し考える素振りをみせて、「そうだなぁ」と漏らして一つ頷く。「きっと嬉しいからだね。生まれてきたことが嬉しいから、嬉し泣きしてるんだね」と笑う。
 期待していた答えのとおりすぎて、僕も笑う。
 ああ、そう言うと思ってた。だって君だもの。僕に答えをくれた、君だものね。

 大丈夫、今度こそ未来を勝ち取るよ。もぎ取るよ、この世界から。君の居場所がないのですって言う神様なんか蹴飛ばして代わりに僕がその椅子に座る。ぎゅうぎゅうすぎてこの世界に君の場所がないっていうなら百人でも千人でも他の奴を蹴落とすよ。君の場所を作るよ。
 だから僕と一緒に生きよう。

「ああ、そういえば。言ってなかったね」
「何を?」
「僕は君を愛してるよ。だからできれば僕を愛してくれると嬉しいな」
「…白蘭」
 にっこり笑いかけたら彼女は少し困った顔をした。僕はそれで構わなかった。白い布団ごと彼女を抱き上げて「さぁ戻ろう」と歩き出す。
 君は沈黙を守っていたけれど、その口元は少しだけ笑っていた。
 だから僕はそれで大満足。否定されても君の反応なら何でも大幅満足なんだけど、肯定ならさらに満足さ。
 あらゆる可能性を考えて君の存在に配慮したにも関わらず、君はまた僕の掌をすり抜け、死んだ。
 愛してるという言葉を聞いた、その翌日に。