戦争が起こった。比較的平和だと言われていた私の国も同盟国の開戦に引きずられるように戦争を始めた。私は女だったから戦場へ行く強請はなかったけれど、父さんは行かなくてはいけなかった。母さんは泣いて見送った。私は泣かないようにした。
 母さんが買い物に出たまま帰ってこない、ということに気付いたその午後は、空は曇っていた。こんなに曇っているなら空からミサイルが降ってくることはないだろうなんて考えて母さんを迎えに出かけた私は、ミサイルよりももっと怖いものに遭遇することになる。
 町の北と南にある入口の南側から悲鳴が聞こえたのだ。それがどういうものか分かっている私は一度だけ固まってから母さんのことを思い、思考を振り切り、走った。逃げないと殺されるのだろうと予感していた。その予感を促すような連続した銃声音に背筋が寒くなる。悲鳴がぴたりと止んだのは、きっと銃に撃たれて殺されてしまったからだ。逃げないといけない。母さんは、どこへ行ってしまったのか分からないけど、家に戻っていたら殺されてしまう。逃げなくては。逃げて、
 逃げて、どこへ行けば?
 町の北口の門が見えた。息を切らせながら走り抜ける。足がもつれそうになるのを必死で堪えてとにかく走る。
 遠いところで銃声が響いている。人の悲鳴が聞こえる。ああ、それから、笑った声も。
 必死に走って野山に逃げ込んだ。昔から遊んでいた森だから獣道の行き先もだいたい知っている。草木で手足を切りながら走って走って走って、見えた川原のそばでようやく立ち止まって息を切らせて振り返る。曇り空がさらに怪しく重い色になってきている。そしてそれに混じるように空へ上がっているあれは煙だ。多分、町は焼き払いを受けている。みんな殺されている。
 は、と息を吐いて笑っている膝で地面に座り込んだ。
 父さんが戦っているのに。母さんを置いてきてしまった。私は一人逃げてきた。駄目な子だ。本当に。
 でも怖い。死ぬのは嫌だ。死ぬよりむごい目に合うのも嫌だ。だから自分の足で逃げなくちゃ。満足いくまで逃げなくちゃ。
 ふらふらする足で立ち上がる。もう少し遠くへ。せめてもう少し、あの煙が分からなくなる、ところまで。
 空っぽの頭に浮かぶのは、父さんと母さんの姿。家族の時間。
「…ごめんなさい」
 掠れた声で謝る。その声に感情が入らないくらい、私は疲れ切っていた。

 そうして町はなくなった。私は森に潜んで息を押し殺して時間を過ごした。どこへ行ってもこれから大変なのだということは分かっていたから、せめて最後に家を確認したいなんて思ってしまった。危険だと分かっていたけど森に潜み続け、町に人気がなくなってからも丸一日待って、朝陽が昇ってからようやく燃え尽きた町に足を踏み入れた。
 何もなくなっていた。誰も残ってはいなかった。辺りは焼け屑しかなかった。
 木の燃えたにおい。生き物の燃えたにおい。
 戦争は悲しみしか生まないのに、どうして世界から争いはなくならないんだろうか。
 自分の家があった場所を探して彷徨うも、見つけられなかった。あまりに跡形もなくて、どの灰が自分の家だったのかなんて分からなかった。
 焼けたにおいの立ち込める地面に座り込んですんと鼻を鳴らし、膝を抱え込んだとき。じゃりと靴音がした。確かに誰もいないと確認したはずなのにと背筋が凍りつく。それと同時に諦める。ああ私もここまでなんだな、と。
 ゆっくり振り返った先、朝陽を背中に受けて立っていたのは、兵服なんて着ていない一人の青年だった。
「あの…あなた誰?」
「僕は白蘭ていうんだ。ヨロシクね。はいどうぞー、とりあえずマシュマロでも食べときなよ。お腹減ってるでしょ?」
「あ、ありがとう」
 戦火に焼けた町で会った人は名前を白蘭といって、なぜだか私を助けてくれた。
 がたんと車の後部座席が荒れた道を走って揺れる。随分久しぶりに車になんて乗った。この人、こんな戦火の中を車で堂々と行くなんてちょっと変な人なんだろうか。いぶかしむ私にマシュマロの袋を渡して「座ってよ。何も取って食おうとかじゃないんだからさ」「………」浅くしか腰掛けていない私のことを、彼はちゃんと気付いていたようだ。どのみち車は動いてしまってる。飛び出すのは、得策ではない。
 がたんごとんと揺れる車の振動に負けて、座席に深く座り込む。お腹は減っていたので押しつけられた開封済みの袋からマシュマロをつまんでぱくぱく食べた。久しぶりにちゃんとしたものを食べた。マシュマロってこんなに甘かったんだ。
 隣にいる彼は私をじっと観察している。汚い子だなとか思われてるんだろうか。その通りだから、私に返せる言葉なんてないけど。
 お腹が減っている私はぺろりとマシュマロを平らげてしまった。ちょっと名残惜しく空になった袋を睨んでいると、「はいどうぞ」と新しいのをくれる彼。ちらりと窺うとやっぱりこっちを見ている。どこか、満足そうに笑って。
「…私、お金ないよ」
「いいよ。あげる」
「どうして?」
「僕がそうしたいから。それだけ」
「………じゃあいただきます」
 マシュマロのおいしさに負けた私はびりびり新しい袋の封を破った。白やピンクのマシュマロをつまんでぱくぱく食べる。ぴたと手を止めて少し考え、つまんだマシュマロを隣の人の顔に突きつける。「ん?」「私ばっかり食べてるから。はい」瞬きしてきょとんとしている彼の唇にマシュマロを押しつけた。口元だけで笑った彼が少し寂しそうに見えたのは、私の気のせいだろうか。
 ぱくりとマシュマロを食べると彼は笑う。「いやーやっぱりおいしいよねマシュマロ」と言って笑う。渋々頷いた私はまたマシュマロを食べる作業に戻る。隣にいる彼はにこにここっちを見ている。
 よく分からない人だ。戦争孤児なんて拾ってどうする気なんだろう。まぁいいけど。
「君は、だね」
 ぽつりとした呟きに一つ瞬いて顔を上げる。「どうして私の名前…?」首を捻る私に彼は笑う。どこか寂しそうで、悲しそうで、影が付き纏う笑顔で。
「運命だよ。君がだと分かった瞬間からもう決めてた。ずっと探してたんだ。やっと見つけられてよかったよ」
「…運命?」
「そうさ。それにしてもひどい格好じゃないか。ちょっと待ってよ、僕のになるけどなんか着替えよう」
 一人で納得して一人で座席の後ろを引っくり返し始めた彼。その横顔を見つめてもしゃもしゃマシュマロを頬張る。甘い。窓の外に視線を流すと景色が流れていた。
 私は白蘭なんて名前今日初めて聞いたし、この人のことも何一つ知らない。

 呼ばれて視線だけ向けると、白い上着を被せられた。さらりとした上等そうな上着だ。汚れた私なんかが触れたら途端に汚くなってしまうだろう。おまけにマシュマロをつまんでた指だし。頭から上着を被ったままどうしようかと逡巡していると声がする。「大丈夫だ。今度こそ君を救うよ」と、震えた声が。
 汚しても洗えばきれいになる大丈夫と決心して上着をつまんで引っぺがしたとき、苦しいくらいに抱き締められた。突然すぎる抱擁に頭が真っ白になる。
 私はきれいなんかじゃないのに、今とても汚いのに、どうしてこの人は私のことを抱き締めてるんだろうか。どうして私に運命だとか言ってみせるんだろうか。そして、どうして今、この人は泣いているのか。まるで私のことで泣いているみたいだ。
「…白、蘭?」
「うん」
「何か、悲しいの?」
「ああ、違う。違うよ。これは…嬉し泣きだよ。多分。そうやって生まれてきたんだろ、僕らは」
 泣きながら生まれてくることを彼はそう言った。私は浅く頷いて、そろそろと手を持ち上げてふわふわしている彼の髪を撫でた。子供をそうしてあやすように。彼は私に縋りつく子供のように震えていた。私より大きいくせに、とちょっと呆れながら彼の髪を撫でて形のいい頭を撫でる。「大丈夫白蘭。大丈夫」と言い聞かせる。「君は本当にソレばっかりだ」「え?」「何でもない。なんでもない…」首筋に埋まる吐息がくすぐったい。
 私はこのとき確かに彼に拾われ、食事を与えてもらい、衣服も住居もお金もその他いろいろなものを与えてもらった。全て彼の好意で厚意だ。その代わり私は彼につきっきり。彼はまだ若いけれど、どうやら仕事というものがたくさんあるらしい。そんな彼の傍らで人形よろしくそばにいるのが私の役目で、一人でいても退屈だしなと思った私も彼について色んなところへ行くことに迷いはなかった。
 楽しかった。白蘭は私に優しくしてくれた。嬉しかった。だから私も白蘭に優しくした。
 一緒にマシュマロを食べておやつの時間はボードゲームをたくさんした。私は負けっぱなしだけど、白蘭は無駄にアドバイスをくれたりするから、その度に頭のいい彼に感心しつつゲームを続ける。そんな毎日。
 少しの疑問を感じつつも、過ぎる日々は心地がよかったから、私は何も文句なんてなかった。
 白蘭は私を愛してくれているんだそうだ。私にはまだ愛って何なのかよく分からないけど、彼が好きか嫌いかと言われれば好きだ。愛はきっとその延長線上にあるんだろう。多分、そうだ。

 その日はよく晴れていて、世界が戦争で荒廃しぼろぼろになっていってるなんて嘘なんじゃないか、と疑ってしまうような晴天だった。
 私は白蘭とお茶の時間を過ごしていた。カフェオレのお供は相変わらずマシュマロだ。どれだけ世界が荒廃していてもマシュマロだけはあるなんて、もしかしたら白蘭が作るようにって部下の人に命じているのかもしれない。なんて思いながらのんびりカップを傾けたとき、かたかたかた、と振動音がした。テーブルの花瓶が揺れている。視線を上げた彼が空を見上げて目を細め、がたんと席を立つ。
「何? 揺れてる」
「何かな。何か分からないけど、来るね。は中へ。外に出ちゃ駄目だ。いいね」
「え、でも」
「僕が直々に片付けてやるさ」
 ぼっ、と背中から翼を生やした彼が飛び立つ。その後姿を見送ってからカップを二つ持ってマシュマロの袋を持ってじりじり後退した。せっかくのお茶の時間なのに。子供みたいなことを思いながら彼に言われたとおり部屋に戻って、彼の帰りを待ってじりじりしながらカフェオレをすする。マシュマロを食べる。
 五分待った。でもまだ戻ってこない。  待ち切れなくて窓に駆け寄って空を見上げると、大きな戦艦が見えた。背筋が竦む。ここはバリアみたいなものが張ってあって絶対に外からは見えないのだと白蘭が言ってたけど、あんなものが空に浮いてたら、隠れてようと見えてようとやっぱり怖い。
 気のせいじゃなく黒い大砲がみんなこっちを向いている。
 どうしようと考えたところで彼の白い翼が見えてはっとする。「白蘭」とこぼして窓に額を擦りつけて目を凝らす。
 一対、何だ。あの戦艦にはどのくらいの戦力があるのだろう。白蘭が何でもできるのは私だって知ってるし分かってる。でも、だからって、こんなの不利に決まってるじゃないか。
 ここにいろと言われたのに、大砲がいっせいに火を噴いたのと、彼の翼が光って大きく膨らんだのを見たらテラスに飛び出していた。手すりから大きく身を乗り出して「白蘭っ!」と声を上げる。届かない。戦艦が出すエンジン音と大砲の音が空を覆って耳を覆ってうるさい。
 光る翼を背負った彼がこっちを振り返った気がした。ただの人でしかない私に見える距離でもないのに、なぜかそう見えた。
 その姿に手を伸ばす。届かないと分かっていながら。
 大砲の音が耳でうるさい。
 彼が攻撃を全て受け止めている。消し去っているのか、同じくらいの力をぶつけているのか、分からない。でもそのために今も翼を広げ続けている。あれをやると疲れるからっていつも部下の人に任せきりのくせに、今はあんなに一生懸命止めようとしている。光の閃光を跳ね返している。あんなに一生懸命。
 ここからじゃ遠すぎて顔なんて見えないのに。私はそう思った。そして、
 どっ、と胸を突き抜けた衝撃。
 一瞬息をするのを忘れて、一歩二歩とよろけた身体で、恐る恐る自分の胸を見る。ちょうど真ん中辺りが真っ赤に染まっていた。大砲の細い閃光が、逸れたのか、彼が受け止め切れなかったのか。私の胸を貫いたのだ。偶然にも。
 喉をせり上がる血を吐き出して手すりにだんと手をついて転倒を耐えた。
 ああ、私の馬鹿。だから白蘭は言ったじゃないか、中にいろって。ちゃんと建物の中にいればこんなことにはなってなかったかもしれないのに、外に出たから。言いつけを守らなかったから。だからこれは、私が悪いのだ。自業自得。
っ!!」
 悲鳴のような、怒号のような、彼の叫び声が聞こえた。
 口から血が溢れる。まだ止まらない。定まらない視界をどうにか持ち上げると、白ではなく、赤いような黒いような翼を背負った白蘭が見えた。
 ああでもそれも、似合ってる気がする。特に怪我はなさそうだ。この目で見ている景色に頼るのなら。
 こっちに飛んでくる彼に手を伸ばす。
 ああ、なんて顔をしてるんだろう白蘭は。ねぇ白蘭、なんでそんなに泣いているの。
 彼の遥か向こうで戦艦が真っ二つになって地へ落ちていくのが見える。
(あなたが心配だったから外に出て、こんな馬鹿で、ごめんね。白蘭)
 伸ばした手が落ちる瞬間、彼の手が私の手を取った。ぼろぼろ泣いている彼が「なんで、中にいろって言っただろ。何外に出てるんだよ、絶対守れるはずの中にいてくれなくちゃ…、ねぇ」「……、」口がもう動かない。彼の手を握り返すのがどうにか精一杯だ。
 血が、止まらない。多分私はこのまま死んでしまうのだろう。
「まただ…また守れなかった。今度こそ絶対って思ってたのに、大丈夫だって思ってたのに。全部排除してきたのにどうして。どうしてっ!」
(びゃく、らん)
「救えたよ。救えた…絶対。君が、僕を、心配しなければ。ねぇ、僕は君に優しくしすぎたかな? もっと冷たくしてればさっき外に出なかった? そしたらまだ未来は、続いて、」
 一人で喋り続ける彼の手をありったけの力で握る。掠れた呼気でそれでも言葉を紡ごうと残っている力を振り絞る。
 これで最後でいい。だから。泣きじゃくる彼に、私の言葉を。どうか神様。
「…す、き、だ、か。ら。しか、た、な、い、よ」
 血を吐いた口で笑ってもちっともかわいくないだろう。汚いだろう。まるでいつかの私のように。彼に拾われた頃の私のように汚いだろう。
 それでも最後くらいはと私は笑う。
 泣いて泣いて泣いて泣いて、泣いて。ただ泣いている彼を見ながら、愛してると言葉を搾り出し、私の人生は緩やかに閉じた。