彼女は泣き虫だった。
 感動という意味でも涙腺は弱く、すぐにぽろぽろと涙をこぼすし、失敗という意味でも打たれ弱く、泣きたくもないのに涙がこぼれてしまうとぼろぼろと泣いて、しゃくり上げるのを我慢する声で、今にも大きく泣き出してしまうのを堪えて堪えて、一人で泣く。彼女はそういう人だった。
 別に、泣き虫が悪いことだとは思わない。
 それは怒られることに慣れていないだとか傷つきやすいのだとかゆとり教育のせいだとかそういったことは関係ない。彼女が涙脆いのはそれだけ自分に与えられる事柄に敏感で、感受性が高い、ということだ。それは生まれつきの才能のようなもので、否定したところでそれ以上もそれ以下もありはしない。
 僕が僕をやめられないように、彼女も彼女をやめることはできない。

 僕がたいていのことを笑ってやり過ごせるのなら、彼女はたいていのことを泣いて過ごす。
 そんな君にとって僕は未来からの腐れ縁の頼れる存在で、そして、そこで止まっている。
 僕にとって君は極最近そうだと気付いた大切な人。
 泣き虫な君の涙を止めたくて、君の視線の先には僕がいてほしくて。だけど肝心な一言を伝えられていない、そんな駄目な奴。それが僕だ。
「また泣いてる」
「だって……」
 充血しがちな目を袖で拭ったり掌で覆ったりして、彼女はまた泣いている。理由は映画が怖かったから。
 たまにはこういう刺激もいいだろうって有名作のホラー映画を借りてきたらこれだ。
 ふっと息を吐いてぐずる彼女を腕の中におさめる。「はーい怖くない怖くない。僕がいるでしょー」とのんびり声をかけつつリモコンでテレビを消した。DVDは変わらず回っていたけど、彼女がこれじゃあね。僕だけ見たって面白くもないし。作り物の恐怖なんて所詮知れている。
 そういう意味では君だって未来でそれなりの経験をし、それが現代へと受け継がれたはずなのだけど。あの世界とこの世界のことははっきり区別されているらしい。もしかしたら、夢、と思っているのかもしれない。
 ぐずる彼女が言う。「白蘭、怖いものないの」と。
 僕は首を捻った。僕の怖いもの。そんなこと前は訊かれもしなかったな。不思議だ。僕には怖いものなんかないって思われてたんだろうか。まぁ実際そんなふうに振舞っていたのかもしれないけど。
 少し考えて、打ち消されたあの未来を思った。彼女の髪に口元まで埋めて「どうかな。死ぬのが怖かったんだろうけど…今はそうでもないしなぁ」「どうして?」「いつか死ぬと決まってるから?」「私に訊かれても……」「そーだね」唇だけで笑って口の中だけで呟く。
 本当はね、あの十年後の未来で、僕の盾になって先に死んだ君を見た瞬間心は決まってたんだ。僕が本当に怖かったものは自分の死じゃなかった。それが分かった。この世界はドス黒い欲望だけが勝つ腐った世界ではなかった。それが分かった。それで十分だったから、君を追って僕も逝けたんだ。
 そんなこと言うのは照れくさかったから口にはしない。
 だから僕が怖いのは君が損なわれること。君はそれをまだ知らない。
 するりとした肌触りの、指に絡めても滑らかに解けて流れる黒い髪を視界に入れながら、いまだ鼻を鳴らす彼女の背中をあやすように撫でてやる。
「ほら、僕がいるでしょ。泣かない」
 何度そう言ってきたろう。呪文のように、聞かせてきたろう。
 彼女は僕の呪文にやがて顔を上げ、まだ赤い目をこすって少しだけ笑う。本当にささやかに、唇を少しだけ持ち上げる笑い方で、僕くらいしか笑ってるんだと気付かないような笑みを浮かべる。
 その笑顔が嬉しいから僕も笑う。恐らく誰が見ても笑っていると取れる笑みを、特別な君にだけ向けて、微笑む。
「で、また泣いてるのはどうして?」
「…白蘭」
 夜の公園に呼び出されて駆けつければ、一人所在なさげにブランコを揺らしていた彼女が立ち上がった。暗いからよく分からなかったけど、公園の街灯に照らされた横顔は目元が腫れ上がっていた気がした。
 どうして泣いてるのかを答える前に彼女は僕に縋った。「びゃくらん」と濡れて歪んだ声に呼ばれたら僕だって我慢ができなかった。理由を問うておきながら答えは求めずに彼女を抱き締め、彼女も僕の背中を抱いてしゃくり上げるように泣き出すのだ。
 泣き虫な君。すぐに涙を流す君。
 君の中にはきっと僕なんかにはないような涙の泉というものが存在しているんだろう。なみなみとした水平を保つそれは、少しの揺らぎで溢れてこぼれる。それが涙になって体外にこぼれ落ち、君の目から頬を伝って顎へと落ちるのだろう。
 君が泣いていると僕も苦しかった。
 君が泣いているのに同じように泣けない自分が嫌だった。
 君は君、僕は僕。同じ人間というカテゴリの生き物なのに君と僕はこんなにも違う。僕が大丈夫なことでも君は傷つき、涙する。
「どうして泣いてるの」
 幼い子供が親に縋るように抱きついている彼女はくぐもった声で言う。白いコートの僕の胸に顔を埋めたまま「おこられた」と、傷ついている声で言う。
 怒られた、だけじゃあ詳細が分からない。
 寒い夜であるその日、吐き出す息は街灯の光を受けて濁っては消える中、彼女の話を聞いた。というか、僕が訊かなくては彼女は泣いてばかりだったので、僕が訊き出した。
 彼女は仕事をしている。労働環境は好ましくない。女性でも軽作業があり清掃もあれば接待もあり、上司は仕事をせず、仕事は部下に回ってくる。今日は社内でも有名なクレーマーが直接押しかけてきて、取り次いだ彼女は散々な目に合った、というのが訊き出せたことだった。思い返すほどそのときが甦っていっそう泣き出す彼女をこれ以上問い詰めることもできず、弱ったなぁ、と思って空を仰ぐ。
 星が出ている。月がきれいだ。腕の中はあたたかい。僕の背中を強く抱く細い腕の感触も分かる。
 僕にはほんのりと甘いこの時間も、彼女にとっては涙で埋まる記憶。そこにいる僕は傷ついた君を慰めるただの男でしかないだろうか。
 それでいいのか。そのままで。こんなほんのりと甘い時間を過ごすのも悪くはない。ここから踏み出さないままならば、この時間はこの先も続くだろう。
 ただ、その先へ行けない。このままは、ここより先へは続かない。
 このままは立ち止まること。歩みを止めること。その先へは今を離れなくては行くことはできない。

 少し身体を離し、屈んで目線を合わせる。ひっくとしゃくり上げる彼女が上目遣いに僕を見る。どう見ても腫れ上がった、寝て覚めてもきっとそのままだと思う目元に胸がずきりと痛み、そして昂揚もする。君の瞳に今僕だけが映っている。その瞳がずっとそうして僕だけを映していてくれれば、なんて思う。

 僕は君に恋をしている。

「そんな職場は辞めよう。君がそんなふうに傷ついて泣いてばかりいたら、僕だって参っちゃうよ」
「…め、わく?」
「違う。こうして呼ばれるのも一緒にいるのも全然構わない、むしろ望むところ。そうじゃなくて、君が泣くことが、君が傷つくことが、僕はすごく嫌なんだ」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
「……わかんない」
「うん。言ってなかったから知らないかもしれない。気付いてくれてもよかったんだけどね」
 目をこすって僅かに首を傾げる君に言う。一度だけ深呼吸をして、「僕はのことが好きなんだ」と、十年後の未来の最後の方で気付けたことを口にする。
 彼女はぽかんとした顔をした。目をこすることも忘れて腫れた目元で僕を見て、「すき?」「うん」「びゃくらんが? わたしを?」「そう」ぽかんとした顔をさらにぽかんとさせて、それはもう、見ている僕がなんだか笑えてくるくらいには君は驚いていて。確かに、あの未来の僕は人に好きだなんて言うような奴じゃなかったから、その驚きも仕方がないのかもしれないけど。それにしたって驚きすぎだよ、。ちょっと失礼じゃないか。僕だって人並みの想いくらいあるし恋だってするんだよ。
 彼女がぽかんと驚いたままだったので、僕より一回りは小さい身体をもう一度抱き締めてみた。さっきより強くその背中を抱いた。きつくきつく、君を苦しめる全てを君の中から排除するように強く抱き締めた。
 君はもう泣かず、戸惑ったような間のあとに、さっきよりもそっとした手つきで僕の背中を抱いた。
 縋ってくれるだけでもよかった。頼れる存在だけでもよかった。そんなのは嘘だった。君を抱き締める度にその想いは強くなる一方だった。
 僕は君の隣に立っていたかったし、君を守っていたかったし、君の視線の先にはなるべく僕がいてほしかった。泣いてほしくなかったし、苦しんでほしくなかったし、笑ってほしかった。そのために僕ができることをなんだってしたかった。
 君には僕がいるよ。そばにいるよ。物理的にそばにいなかったとしても、心はずっと寄り添っているよ。そんな想いを込めて、僕は君を抱き締める。強く強く。
 人一番感受性が高く、少しのことで感情を揺れさせ、触れさせ、涙をこぼす、泣き虫な君へ。
 あの未来では叶わなかったことを今叶えよう。
 そのための現実。そのための今。
 黒い欲望ばかりが目立つこの世界で、白い純真さが少しだけ残り抵抗しているように、紡ごう。あのときは無理だったことを、今、この場所から。
 幸せにするよなんて大それたことは言えない。だけど、僕のベストを尽くすって誓うよ。だから。

き虫な君へ
(どうか、笑って)