23という人生の中で、私も様々な人に恋をしたけれど、思えば、この恋が一番報われないものだったかもしれない。
 想い人の名前は白蘭。
 自由奔放、人に縛られないマイペース屋で、頭がよくて、器量もあって、スポーツもほぼ万能、言うまでもなくイケメンという、女性には間違いなく良判子をバンバン押されるような人。アイドルとかでテレビに出てもおかしくない、映画の中にぽっと出ても違和感のない雰囲気さえ持つ、彼はそんな人だ。
 ただ一点問題があるとするなら。彼は、優しいのだけど、マイペースだ。人に縛られることはあまり好きじゃない。つまり、特定の恋人を作らない人なのだ。
 当然、というか。そんな白蘭が渡り歩く女性というのは、そういう仕事をやってそうな人とか、恋は自由にするものとオープンになっている人とか、そういう感じの人が多い。
 そして私はといえば、水商売をしているわけでもないし、浮気はいけないことだと思う人だし、大企業の令嬢とか秀でた才能のある人間とかでもない、ただの凡人。
 …彼の拠り所の一人として、報われないことをしていると思いながら、それでも、想うことはやめられなかった。
 私浮気する人は駄目なの、さようなら、と白蘭を捨てられたら。…どんなによかったろう。
 ある土砂降りの夜。きっと今日も帰ってこないと分かっていながらも、夕食のスパゲッティを二皿用意する。私と、白蘭の分。
 私がいただきますと夕食に手を合わせ、ごちそうさまでしたをするまでの間、手をつけられない一人分の食事と向かい合って食べて、そして、その夕食はそのまま明日のおかずとして活かされて片付けられるのだ。もうずっとそうやってきたから、そんなことには慣れていた。
 いつものように二人分の夕食が白いテーブルに並ぶ。フォークを置き、水のカップも二つ用意して、だけど、席につくのはいつも私一人だけ。
 そこへ、彼が帰ってきた。
 ドンと扉を叩く音に慌てて鍵を外してドアを開ければ、雨に濡れた白蘭が立っていた。一ヶ月ぶりに会った彼は変わらない笑顔で私に「ただいま」と言って、昨日も一昨日もそうやって帰ってきたような動作で家に上がった。
 驚きでぽかんとしていた私は、「おっ、今日はスパゲッティ? ボロネーゼかな」と席につく彼の姿を見つめて、慌てて玄関のドアを閉めて脱衣所に駆け込み、使っていないふわふわのタオルを数枚手に取る。動くことを思い出した身体で、濡れている髪に白いタオルを被せ、雨雫で濡れているコートの肩にもタオルを被せた。

「白蘭」
「んー?」

 さっそくフォークを手にスパゲッティを食べ始めている彼の名前を呼んで。返事が返ってくることが嬉しくて、手が震えた。

「おかえり」

 涙を見せないように笑うと、そんな私をじっと見つめた白蘭が小さく首を傾げた。「さみしかった?」と訊かれて、全力で頷きたいのを堪える。堪えて、笑う。私が笑うと白蘭も笑う。「ほらもういいから、さ、一緒に食べようよ」と髪を拭う手に掌を被せられて、その体温に胸を高鳴らせた私は、彼の言葉に従うだけ。
 だってね、さみしいなんてそんなことを言っても、あなたは何も変わらないもの。困らせてしまうだけ。むしろ、面倒くさい女だと思われてしまうだけ。そうなったら最後、あなたは私を見ないだろう。それだけは避けたい。
 だから私は言わないの。死ぬほどさみしかったなんて言わない。実は毎日泣いてたのよなんて言わない。帰ってこないあなたを想って心はずっと泣いていたのよ、なんて言わない。
 今あなたはここにいる。
 そのことだけを思って、そのことだけで私の全てを埋めて、息をする。

「僕のこと好き?」

 ベッドの中でそんなふうに私に囁くあなたをずるいと思う。いつもの微笑みで私の髪を撫でるあなたがすごくずるいと思う。
 それでも私はあなたが好きだから、正直に「好き」と言ってしまうのだ。それであなたが笑ってくれると知っているからこそ。
 白蘭が帰ってこない日は。彼が使う白いカップだとか、白い箸だとか、白いシャツだとか、白い色ばかりの彼の物をきれいにする。いつ帰ってきても埃なんて一つもないように、きれいにきれいに磨いて、帰ってこない彼を待つ。
 これはあなたが使うもの。だから、あなたがいなければ食器棚やクローゼットの中で眠ったままの、あなたの、残骸。
 あなたのいない日々にあなたを思って息をする私。
 馬鹿みたいでしょう。自分でもそう思う。
 私といない間、あなたは誰と一緒にいるのだろう? 違う人と笑っているのだろうか? それとも純粋に仕事をしているだけで忙しい身なのだろうか?
 あなたへの疑問と猜疑とで軋む胸を抱えながら、私はあなたを想っている。
 …もっと違う人を好きになっていればよかった。そう思ったことは何度もある。
 ……でも、白蘭を好きだった。
 帰ってきてほしい。この間みたいにひょっこりと何気ない顔でただいまってこのドアを叩いてくれればいい。私はあなたを笑顔で迎える。あなたに都合のいい女であることを理解していながら、そこから抜け出さず、私はあなたを待っている。
 ねぇ、馬鹿みたいでしょう。なんて扱いやすい女と思うでしょう。
 私はそれくらい彼のことが好きだった。それだけ、だった。
 霧のような小雨が降り始めたその日。慌てて洗濯物を取り込んで、私は、少し散歩をすることにした。
 気分を上向けるために笑顔の練習をするように作り笑いを浮かべてみる。
 自覚できるほど、ちっとも自然じゃない、誰が見たって分かる作った笑顔。
 …だけど、白蘭がいてくれれば、私は自然に笑えるのだ。
 笑え、と自分に命じる。顔の筋肉に笑いなさいと命令する。それでも口元は不自然に引きつった笑みしか浮かべられなくて、そのうち疲れて、私は笑うことをやめた。
 霧のような小雨が、少し雨粒の大きさを増して、私の肩や顔を叩いている。

「白蘭」

 ぽつりとこぼすように呼んでみたって。彼は来てなんてくれない。
 分かってる。…分かってた。
 私なんていつ捨てられてもおかしくない、取り得のない女だ。大企業の社長令嬢でもなければ、人より秀でた才能があるわけでもない、その辺にいるただの女。そんな女を白蘭がいつまでも気にかけてくれるわけなんてないと、私は分かってた。
 彼はミルフィオーレという大きな組織のトップに立つ人だ。そんな彼の隣に立つには、私はあまりに何もなさすぎる。
 は、と自分を嘲る笑いをこぼして、顔を上げると、大きさを増した雨粒が額を、頬を打ち、流れていく。
 すっと流れた雨粒の筋に、私は泣いているのか、それとも自嘲しているのか、と思う。

「びゃくらん」

 あなたの名前を呼ぶ。それだけで切なくなる。苦しくなる。胸がぎゅっと何かに掴まれているように息苦しいと感じる。
 ねぇ、あなたは今どこにいますか。その意識の中に私はどのくらいいますか。
 あなたは今、しあわせなのですか。
 私の想いは、重たいでしょうか。
 雨の中をただただ歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。ふと立ち止まって振り返ると、もうどの道を来たのか分からないくらいの同じ形の木々に辺りを囲まれ、天気は曇天で、太陽など見えず、方向を探ろうにもそれすら特定できない。
 ぎゅうと胸元で拳を握る。
 この胸を掴んで苦しく揺さぶるあなたは、私の中で相変わらず笑っている。
 振り切りたくて、ブーツの足で走り出す。久しぶりに走ることなんてしたからすぐに息が上がる。さっきよりもっとずっと苦しくなる。それでも私の中には白蘭がいる。
 あなたを振り切りたくて走った。自分を嘲笑いながら、雨粒の涙を流しながら、苦しい身体で、ひたすらに走る。
 雨粒が目の前の景色を白く滲ませている。同じような形の木々と草の生えた道。自分がどこへ向かっているのかも分からず、私はただ走る。
 足が上がらなくなり、がっと木の根に蹴躓いて、危うく転びそうになった。そこをなんとか堪えて二、三歩進み、ぱったりと足が止まる。
 はぁ、はぁと全身で息をしながら、私は泣いていた。
 いつまでもどこまでもあなたは私の中にいる。私を支配している。私に向かって笑っている。
(どうしよう)
 蹲って、全身で息をしながら、仄暗い絶望に襲われた。
 他には何も考えられないくらいに苦しくなっても、息をすることで精一杯になっても、白蘭が、私の中から消えてくれない。
(どうしよう)
 自分があなたなしじゃもうどうしようもないことには薄々気付いていた。あなたを待ち続ける馬鹿で扱いやすい女、それが自分だ、と気付いていた。だけどこれでそれが証明された。私の中を引っくり返してもあなたがいる。息をするので精一杯になってもあなたがいる。あなたが私を埋めている。

「びゃくら…っ」

 ひぅ、と引きつった息を吸い込み、私の中から消えないあなたを想う。
 あなたを待ち続ける、馬鹿で、扱いやすい、報われない女。それが私。そんなこと分かっていた。分かっているつもりでいた。
 自分が本当にそれしかできない奴なのだ、と分かったら。苦しくなった。
 あの家から離れれば、あるいは走って走って走り続けて息をすることで精一杯になれば、あなたがいなくなってくれると。そう期待していたのかもしれない。
 私は笑う。自分を笑う。嘲笑う。
 なんて馬鹿な女なの。なんて都合のいい女なの。そうやって自分を笑って、消えないあなたに、私に笑いかける思い出のあなたに、泣いてしまう。
 ……それでも私はあなたを待つのだろう。あなたの物をきれいに磨いたりして、白いあの家で、二人分の食事を作り、上手に片付け、時間を過ごして、帰らないあなたを待つのだろう。
(ああそれはなんて)
 愚か、と呟き、自分を笑ってのろりと顔を上げる。小雨のせいで白んで見える視界を袖で拭う。滲んで見えていたのは雨のせいだけではない。涙が邪魔をしていたせいだ。少しだけクリアになった視界で瞬きをして、空を見上げる。泣いている。私の心と同じように。
 きっと私の心には永遠に降り続ける雨だ。
 ふ、と笑った私の目尻をすうと流れていくのは、涙なのか雨粒なのか。
 そんなとき。頭上の空と森の木々を見上げる私の視界を、すっと遮った、白い傘。



 そして、私を呼ぶ、あなたの声。
 嘘だ、と思いながら振り返れば、白い傘を差したあなたがそこにいた。いつも通りの笑みを浮かべて「こんなとこで何してるの? っていうかびしょ濡れじゃないか」と白いタオルを私の頭に被せた。くしゃくしゃと髪を拭う心地いい指先の感触に、胸が苦しくなって、とても切なくなって、彼に抱きついた。「うおっと」と私を受け止めた白蘭の背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。
 あなたから離れられたらなんて考えてこんなところまでやって来て、それでもあなたは私の中から少しも消えてくれなくて、そんな自分を嘲笑って泣いたら、本当のあなたがやって来た。

「あー、迷子になって怖かった? でもダイジョーブ。僕が見つけたからね。家に帰れるよ」
「…っ、ぅ、ううー」

 頭を撫でる彼の手の感触と、彼の温度と、彼の声。
 どれだけ走っても、どれだけ苦しくなっても消えてくれないあなたの中に、私はどのくらい残っているでしょうか。私の中はあなたで埋まっている。だけどあなたの中はきっと私で埋まってなんてない。
 それでも私はあなたが好きなものだから。こうして頭を撫でられて、よしよしと背中を抱かれたら、安らげるのだ。自然と笑みがこぼれるのだ。あなたで満たされて笑うことができるのだ。
 …それなら、私がこれから選択する未来も、決まっているようなものじゃないか。

「びゃくらん」
「うん?」
「わたしのこと、すき?」

 縋るように訊ねる。見上げる私に、彼は小さく笑った。躊躇う間もなく私の唇に唇を重ねて「好きだよ」と囁く声音に、私は、泣いて、笑った。
 きっと私の中に降るこの雨は永遠に止まないままだろう。
 それでも私はあなたを想う。想っている。いつまでもずっと。これからもずっと愛してる。
 あなたが帰ってきてくれたときにだけ差される白い傘。彼が差すその傘の中に入って、手を繋いで、あの白い家へと帰る道を辿る。
 そこで待っているものは今までと変わらない苦しい時間。あなたの帰りを待つだけの時間。そうだと分かっていても、あなたと手を繋いでいるこの今が少しでも長く続くのなら、それでいい。
 束の間でもいい。少しでもいい。あなたの中が私で埋まってくれることを願って、私は息をする。