雲雀恭弥という生き物は、人として生を受けてこの世界に誕生した。けれどそれはきっとカミサマとか運命とかその辺りの見えない何かの歯車が引き起こした小さなミスだったのだ、と僕は思っている。
 人としておよそらしくない行動でしか価値を見出せず、言葉など必要性を感じないし、他人との意思疎通にも興味がない。規格外、出来損ない、成り損ない、欠陥品。自分という人間を一言で表すなら、そういう言葉が一番分かりやすいだろう。
 あるいは僕は人ではなく動物なのかもしれない。獣、という意味の。
 同じ人に興味は湧かない。規格外の自分と同じくらい規格外の誰かには興味が湧く。それ以外はどうでもいい。
 どうでもいい。そうやって切って捨てた自分と同じ二足歩行の生き物がそこら中に散らばっている。屍の上に立っている僕の手には馴染んだ武器があって、赤黒い色をぽたりぽたりと地に落とし、汚していく。
 咬み殺して動かなくなった生き物の中で一つ動くものがあった。それは人の形をしていた。まだ動くものがあったことに目を細めて屍の山から下りる。それは動かず、死体の中で蹲るようにして顔を伏せていた。
 咬み殺してしまおう。深く考えもせずトンファーを持つ手を振り上げる。
 蹲っていたそれが、僕に気付いたように顔を上げた。ゆるりと流れる黒い髪に思考に引っかかりができる。中途半端な位置で腕が静止した。
 こちらを振り返った顔に、ぽろぽろと涙をこぼす顔に、見憶えがあった。
 唯一。そう、僕が唯一、自分以外に意識を割くとき。相手はだいたい君だった。

 君が泣く。怖い夢を見たんですと僕に泣きついてくる。夢くらいでどうしてそんなふうに泣けるんだろうと僕は君に呆れた。馬鹿じゃないのと言っても君は泣くだけだった。現実よりも夢の方が世界の全てであるとでも言いたげに君は泣いたままだった。
 仕方がないから、手を伸ばして、君の黒い髪を撫でた。人の頭なんて撫でたことがないからくしゃくしゃ髪をかき回すようにしか撫でられなかった。
 それでも君が泣くから、僕はその怖い夢とやらが鬱陶しくなった。壊してやろう、と思った。咬み殺してやろうと思った。
 だけどその方法がないことにふと気付いた。
 君の頭の中にその夢はいるのかもしれない。だけど君の頭を破壊したら、君が死んでしまう。だからできない。ならそれ以外に君の怖い夢を壊す方法は? 一通り考えてみたけれど、有効な方法は思い浮かばなかった。そんな自分にふっと息を吐く。
 君が泣いている。厭きもせず泣き続けている。
 その涙を止める術を、僕は持ち得ない。

 君が笑う。嬉しそうに僕に笑いかける。
 君が珍しく慌てていて、おまけに僕の背中を押して見てほしいものがあるんですとか急かすから、仕方なく君についていった。そうしたら中庭に出て、そこに桜が咲いていた。淡い桃色の花弁を風に散らしていた。まだ大半が蕾だったけれど、それは確かに生きていた。
 死にかけた老樹だった。もう無理だろうと切って捨てた僕の言葉を受けて、君が一人で世話に奮闘していたことは知っていた。もう一度花を咲かせるとは思っていなかったから、僕は珍しく驚いていた。
 咲きました。ね、咲きました。嬉しそうに君が笑っている。老樹の幹を労わるように撫でて頑張りましたとこぼす横顔に視線を投げて、もう一度桜の木を見上げる。
 死にかけていた。放っておいたら確実に枯れていた。それで終わりだった。だけど君が手を差し伸べた。この老樹に生きてほしいと願った。もう一度花を咲かせてほしいと世話をした。手間暇を惜しまず時間も労力も出来る限りを注ぎ込まれて、この木は応えるように花を咲かせたのだ。
 君は、と口にしてから、何を言おうとしていたのかを忘れた。
 幹から手を離した君が僕を見上げる。
 君はとても人間らしい。泣くし怒るし笑うし、痛いという顔をするし、楽しいという顔もするし、苦しいという顔もする。君はとても人間らしい。僕とは違う。
 僕はね、どう頑張っても君のようになることはできないんだよ。僕は僕のやり方しか知らないし、できないんだ。君のように振舞うことはどうしたってできないんだ。
 くるりと老樹に背を向けて歩き出す。
 結局、君に言おうと思ったはずの忘れた言葉は、思い出せなかった。

 君が泣いている。どうしてかそこで泣いている。
 トンファーを振り上げたままの腕を下ろした。さっきまで獣のように本能だけに従っていた身体が戸惑いを覚えていた。君が泣いているせいだ。君がそこにいるせいだ。だから、僕は人になる。獣から人になる。成ったのか、それとも戻ったのか、よく分からない。
 ゆっくり一つ息を吐き出して、膝をつく。トンファーを落とせば、泣いている君が僕に縋りつく。雲雀さん、と泣き濡れた声で僕を呼ぶ。
 君が泣く。また泣いている。
 そんな君に僕ができることはないに等しい。自分じゃない体温が縋りついてくるのを受け止めて、片手で不器用に頭を撫でるくらいしかできない。
 せめて泣いている理由を訊こうか。それが僕にどうにかできることなら、君の涙を止めることもできるかもしれない。
 どうしたのさ、と訊ねると君がひっくと肩を震わせた。
 雲雀さん、と呼ばれる。聞いてるよと返す。涙でとろけた二つの瞳で僕を見上げた君が言う。
 助けて、と、震える声で。
 夢はそこで醒めた。
 もう何度も見た、泣いている君に何もできないままに終わる夢だった。
「……、」
 気だるい身体で布団をずらして起き上がる。頭に手をやって緩く頭を振った。まだ、君の声がこびりついて離れない。
 君が連れ去られてから半月ほどたった。行方は一向に掴めない。
 今は忙しい時期だった。ミルフィオーレがこちらに仕掛けてくるまでもう日もない。ボンゴレ全体と同盟ファミリーで対策をまとめていた。僕も使者として数国に顔を出す必要があった。そんな大事な時期に君をなくしたのは、僕の失敗としか、言いようがない。
 マシなリングが手元にない状況でミルフィオーレファミリートップの白蘭と遭遇した時点で結果は決まっていた。それでも這いつくばるなんて趣味じゃなかったし、嫌な笑いを浮かべてる相手にくれてやるものは何一つ持ち合わせていなかった。ましてや隣に君がいたのだから、僕が折れるわけがない。
 ただ、結果だけが見えていた。それは誰の目にも同じだった。
 だから彼女が言った。僕が殺される前に、もうボロボロだった僕を抱き締めて言った。部下が死屍累々と転がる景色の中で、私が行くから、だからお願い、この人だけは見逃して、と。
 相手は嫌な笑いを浮かべて仕方がないなぁ、今回だけ特別だよと彼女に手を差し伸べた。
 その手を振り払ってやりたかったのに、もう立ち上がることさえ困難になっていた僕には何もできやしなかった。相手をたた睨むことしかできなかった。
 彼女が立ち上がる。泣きそうな顔で僕を見て、無理矢理笑う。笑った拍子に涙がこぼれて落ちた。

 さようなら

 そう残して、君はあいつの手を取って行ってしまった。僕の命を繋ぐために、君は行ってしまった。
…」
 ぽつりと彼女の名前をこぼして目を閉じる。瞼を押し上げる。ゆるりと立ち上がって、歩き出す。
 この屋敷のどこを捜してももう君はいない。それなのに君のいそうな場所に足を向ける僕は、一体何がしたいのだろうか。
 君を捜している。探している。それは分かってる。だけど君を取り戻したとして、言いたいことがあるわけでもないし、何かしたいことがあるわけでもない。ただ君がそばにいないことに胸騒ぎがするだけ。
 規格外として生まれた雲雀恭弥という人間が、唯一こだわった、君だから。
 想像するだけで苛々するんだ。君があの白い奴に何をされているのか、どんな目に合わされているのか、考えただけで手当たり次第物を壊すくらいには苛々する。落ち着かない。落ち着けない。こんなに必死になって君を捜しているのに、探しているのに、見つからない。見つけられない。ひどく苛々する。ひどく胸がむかつく。吐き気で食事があまり喉を通らない。君がいない。ただそれだけの現実がひどく僕を抉っている。
 雲雀恭弥という人間は、という人間に、何を抱いているのだろうか。
 君の笑った顔。泣いた顔。怒った顔。僕にはないものを持って君はそこにいた。君は僕のようにはなれないと寂しそうに笑っていた。僕は言わなかったけど、僕だって君のようにはなれないよ、と思っていた。
 君になりたかったわけじゃない。君も、僕になりたかったわけじゃないだろう。
 ただ、遠いと。同じ形をした生き物なのにこんなにも遠いと、お互いそう思っていただけ。
 手を伸ばせば届いた。知ろうと思えばいくらでも機会はあった。君は手の届く場所にいたのだから、遠い距離を埋めようとすれば、埋めることはできたはずだった。それが一ミリでも一センチでもそれ以下でも、前よりは近くなったと思うことはできたはずだった。
 これは罰だろうか。できることをしようとしなかった僕へ、カミサマとか運命とかが科した罰だろうか。

 君を捜している。探している。
 ただ、そう。求めている。
 分かってる。本当は分かっていた。君の笑った顔、怒った顔、泣いた顔。君を隣に置いている自分に、どこかで理解していたんだ。必要だと思ったから、そうしてもいいと思ったからそばに置いているのだろうと。
 君を取り戻したとして、言いたいことがあるわけでもないし、何かしたいことがあるわけでもない。
 ただ、君が隣にいないと、僕が落ち着けないから。人間らしくない僕がさらに人間らしくなくなるから。だから。
…」
 ばしゃ、と水溜りを蹴って裸足で中庭に出れば、土砂降りの雨を吸い上げた着物が肌にはりついて重かった。
 彼女があれだけ手をかけた老樹に咲いた花は、この雨ですっかり散ってしまっていた。
 このまま何もしなければ木はまた衰弱していくだけだろう。誰かに世話をさせなくてはいけない。けれど、この間まで彼女が自分のやり方で世話をしていたのだから、違う人間にやらせたら、きっとその違いに気付いて木は余計に枯れるだけなのだろう。
 彼女の手で。彼女の心で。彼女の愛で、この木は花を咲かせたのだから。
 彼女の笑った顔で、泣いた顔で、怒った顔で、僕は生きてきたも同然なのだと、今更気付いてしまった。
 だからこんなにも何もできない。君を捜すこと、探すこと、それくらいしかできない。
 僕はやはり人間ではなかったようだ。
 だってそうだろう?
 こんなにも君がいないと何もできないだなんて、僕は本当に、規格外の、出来損ないの、成り損ないの、欠陥品だ。