ちょっとした遊びのつもりだった。あんまりにも退屈だったから、手馴れた玩具よりも新しい玩具で遊ぼうと思った。
 うん、最初はそれだけだった。
 ところがその玩具で遊ぶのにはコツがあって、おまけになかなか思い通りにならない。言わば新しいゲームなんだけど、未だにクリアの画面が見えてこない。ゲームにはシナリオがあっていつかクリアの画面が現れるか、ゲームオーバーで終わるか、どちらかだ。終わってやるつもりはもちろんなかったから、僕としてはこのゲームを満場一致のクリアにしたい。
 そう思ってるんだけど、現実、なかなかに上手くいかない。
どう? ほら、きれいだろう?」
「裾が、汚れちゃうよ。こんなに長いと」
「いーんだよそんなこと気にしなくて。他にも似合いそうなものいっぱい持ってきたからさ。気に入らないならどれでも好きなの着てくれれば」
 白い鳥籠の中に白いクローゼットを設置させて、白いトルソーに純白のドレスを着せた。そんな僕に、新しい玩具は微妙に曇った表情で笑う。
 本当にささやかな笑顔はパッと見たら曇ってるなんて分からないかもしれない。だけど僕には分かっている。このゲームをクリアするためには彼女のどんな些細な表情の変化も見逃せはしない、重要な要素の一つなのだ。ここ最近ずっと気にしているからこそ分かる。ここにいるくせに、君は僕を見ていない。それがよく分かる。
 どんなにおいしいものを用意しても、どんなにきれいなドレスを用意しても、どんなに言葉巧みに甘やかしても、優しくしても、彼女の表情はいつも曇りがちだ。それが彼女の常なのだろうと思うくらいにはいつもそうやって曇っている。
 だけど僕は知っている。本当はもっと笑う子だし、もっと泣く子だし、もっと怒る子なんだと。
 色を払拭した白い場所に、白い彼女がいる。髪だけが漆黒のように黒い。そうして彼女は常にそこにいる。外の見えない白い場所で、閉じた場所で、他に何もない場所で、僕しか見えないようにと蓋をした場所で、それでも僕以外を考えている。ぼんやりした表情で格子に身体を預けて黒い色のことを考えている。雲雀恭弥、という人間のことを。
 調べるまでもなく有名な人物。ボンゴレファミリーの中でもトップの実力を誇る唯我独尊の一匹狼。他者の助けを必要とせず、他を寄せつけない。
 ただ一人、という君を除いて。
 それなりに魅力的な人間を演じてきたつもりだ。彼女というゲームをクリアするだけの素質が僕にはある。女の子一人思い通りにすることなんて朝飯前だと手をつけたこのゲームは、思いの他時間がかかっている。いや、かかりすぎている。
 君はどうしてそんなに雲雀恭弥ばかり見ているんだろう。考えているんだろう。この僕が、ここまでしているのに。
 その夜、照明の落ちた鳥籠の部屋に行くと、彼女はベッドの上で眠っていた。僕が似合うと言った白いドレスを着ていた。やっぱり似合っていた。今度はティアラでも買ってこようか、と思いながら足音を立てずにベッドに近づく。
 無数のパラレルワールドの一つで、無駄な足掻きをしている世界がある。わざわざ過去の自分を呼び寄せて僕らと戦わせるなんて方法を取った世界が一つだけ。そしてその世界で見つけた。時空の覇者になれる最後のパズルのピースを。
 それさえ手に入れれば、僕はもう無敵だ。完全無欠の神になる。
 あと少しだ。どこかの世界の自分が消えたら僕まで消えてしまうと怯えるのもあと少しの辛抱だ。もう少しで終わる。ここまで積み上げてきたものに報いが訪れる。
 そっと手を伸ばしてやわらかい頬に触れた。手の甲で何度も撫でる。小さく丸くなるように眠っている彼女は目を覚まさない。
 厭きたら、薬でも飲ませてユニのように人形にしようと思っていた。そうすれば僕の言うことを何でもきく都合のいい子になるから。
 ただ、そうしてしまうともうあの曇った笑顔も見られない。怒った顔も泣いた顔も笑った顔も見ることはなくなるだろう。僕に従順な君ももちろんいいんだけど、それがつまらないのも確かなのだ。思い通りにいかないものを攻略することこそ面白い。それがあるから退屈しのぎになる。何でも頷かれるだけだったら、とっくに厭きて捨てていた。
 二律背反の思いがある。僕を求めればいいのにと思って手を差し伸べる心と、僕を求めたらそれでゲームはクリア、そこでおしまいだと思っている心。
 二つが同時に実ることはない。だからこその二律背反。矛盾だ。
 退屈しのぎに手に取った玩具に、今は僕の方が必死になって遊び方をマスターしようとしている。
「…雲雀恭弥ってさ。顔は確かに整ってるけど、僕だってカッコイイでしょ? ねぇ」
 眠っている彼女の頬を撫でる。「お金も権力も全て欲しいがまま。君が欲しいって言うもの何だってあげることができるんだよ? そんな男って他にいないでしょ。何なら国一つだってあげちゃうよ。ねぇ」やわらかい頬を掌で撫でる。むに、とつまんでみるとやっぱりやわらかかった。
「国宝級の王冠だって、僕なら持ち出せるんだよ。何十億もする豪邸だってプレゼントできる。一生遊んだままでいさせてあげることだって簡単だ。君が怖いと思うものを遠ざけることだってできる。…だからさ。ねぇ、
 頬をつまんでいた手を離す。ベッドのそばにしゃがみ込んで膝頭に顎を乗せた。じっとその寝顔を見つめる。
 特別美人じゃないし、ありふれた日本人の髪の色だし、スタイルがいいわけでもないし、君はどこにでもいそうな一般人だ。それなのにどうして雲雀恭弥は君を選んで、僕も君を選んだのだろう。始まりは同じだろうか。暇潰しとか退屈しのぎとか、その辺の気楽な考えから手を伸ばしたのだろうか。それがこんなに泥沼になるとも知らずに?
 そう。泥沼だ。もう腰辺りまで浸かってしまったんじゃないだろうか。自力で這い上がることは不可能だ。どれだけ進もうとしてもこの沼には岸辺が見えない。おまけに底なしで、身体はどんどん沈んでいくだけ。
 飛べばいいのかもしれない。何せ僕は人を超えた存在だ。背中から翼を生やして飛べば、泥沼から浮き上がることも簡単だろう。
 …多分、簡単だ。振り切ろうと思えば。だからまだ浸かったままなんだ。そう思っている。

 一つ頬を撫でる。その手を細い首に触れさせる。
 この首をへし折ってしまうことも、恐らく簡単だ。思い通りにならない玩具にやきもきしてるなら壊してしまえばいい。新しい玩具を手に入れれば古い玩具のことなんてすぐ忘れるさ。
 でも、同じ玩具は二度と手に入らない。攻略できなかったゲームは僕の記憶に留まるだろう。あそこでああしていれば、こうしていればなんて壊してしまってから思うようになったら、それこそシャレにならない。だから生かしておく。必ずこのゲームを攻略してスッキリするんだ。満足するんだ。そうしたら何の躊躇いもなくこの玩具を捨てられるはずだから。
「……と、思うんだけどなぁ」
 彼女の首から手を離して、白いシーツの上の手に掌を重ねた。
 夜は長く、彼女の眠りは深く、ゆっくりとした呼吸を聞きながら目を閉じる。

 どうしてここへ来たのか? 彼女が眠っていると分かっていながら。
 答えは、落ち着かなかったから、だ。
 どこのパラレルワールドでも僕は負け知らずで、最強だ。負けたらそこで終わってしまうから負けられないという思いも強いけど、事実、負けに似た状況に追い込まれたことはない。あの世界で僕は多少手をこまねいてるようだけど、やっと時空の覇者になれる夢を前にして、今までで一番やりがいのあることをしてるはずだ。夢を叶えるための最後の一手を打とうとしている。
 それなのにどうしてだろう。背中が寒い。
 夢が叶う。もうこれで何者にも怯える必要はない。世界は僕の思い通りに。そして僕は神様に。
 ようやく全てが終わる。そして始まる。最後に共有した自分自身からそう感じた。僕もそう思った。
 それなのにどうしてこんなに全身が冷たいのだろうか。

「…、びゃく、らん」
 のろりと顔を上げると、彼女が僕を見ていた。眠そうな顔だった。「どうしたの」と言われて緩く首を振る。「何でもないよ。の寝顔見てただけ」と笑うと彼女は何度か瞬きをした。それから眠そうに目をこすって起き上がる。ぎしとベッドが軋んだ音を立てた。
「ねむれないの」
「…そうだね。うん、そうだ」
 緩く、彼女の手が僕の手を撫でた。小さい手を握る自分の手に力がこもる。彼女は何も言わず、ただ黙って僕の手の甲を指で撫でた。
 すっかり泥沼だ。簡単にいかないから面白いのがゲームなのに、攻略方法を組み立てていつかエンドを迎えるためにやっていたゲームなのに、ハマってしまった。
 君はきっと僕を見ない。どんなに優しくしてもどんな贈り物をしてもどんな甘い言葉を吐いても僕になびくことはない。君は雲雀恭弥を見ている。僕に言わせればあんなどうしようもない男のことを、それでも思っている。想っている。
 さっきから背中が寒くて仕方がない。
「ねぇ
「うん」
「僕さ、君のことが好きなんだ」
 彼女は返事をくれなかった。僕も返事を求めていなかった。聞くまでもなかった。彼女の答えは決まっている。
 だから、立ち上がる。明け始めた景色の中彼女の手を引く。淡い微笑みを浮かべている彼女の笑顔はやはり曇っていた。分かってた。最初から最後まで、君は僕にそうとしか笑いはしない。
「だから僕は雲雀恭弥を殺すよ」
 そう告げると、彼女は目を伏せた。握ってる手が僅かに震えた気がした。その手を強く握って白い鳥籠から外に出る。
 中途半端なこの気持ちに区切りをつけたい。それから、背中の寒さを忘れたい。だから殺しに行こう。君の目の前で殺してしまおう。原形を留めないくらいめちゃくちゃにしてやろう。そうすれば君は雲雀恭弥を諦める。そして、僕を嫌いになる。僕を憎む。それでいいさ。そうしたら僕もきれいに君を想うことなんてやめるから。
 君を想うことなんてやめてみせる。
 嫌われても必死になる自分がいたら、そうだな。そんな自分は笑ってやろうか、とりあえず。