僕から言わせてもらうなら、雲雀恭弥というのは案外小心者だ。根拠はと言われたら、今目にしている光景がそれだと言えよう。
 目の前には一組の男女。男の方は言わずもがなの雲雀恭弥。女の方はと言って、彼の付き人のように常のそばにいる娘だ。
 今僕らは仕事の話の打ち合わせために日本庭園の見える座敷で蕎麦を食べているところで、彼女は先ほどから箸をつけずに僕らのやり取りをメモしたり、話の流れに合わせて新しい書類を渡したりと仕事に集中している。

「、はい」
「食べた方がいいですよ。せっかくの高いお蕎麦なんですから」
「あ。はい」
 僕が食事を促すと、苦笑いした彼女が書類を脇に退けた。手を合わせて「いただきます」と言ってから箸を取る。その彼女の隣にいる彼は射殺さんばかりの勢いで僕を睨みつけていた。それに肩を竦める。
 そんな顔をするくらいならあなたが食事を勧めるべきですよ、と思いながら書類をめくる。
 次の仕事はミルフィオーレの残党が立て篭もっているというドイツにある古城へ赴く任務で、僕は雲雀恭弥と一緒に行かないとならないらしい。よりにもよって彼と。人選ミスなのではないかと沢田綱吉を疑いたくなった。水と油で有名な僕らだというのに、彼は何を考えているのか。
 ふうと息を吐いて湯飲みを傾けたところで、僕と同じく書類を睨んでいた雲雀恭弥が「これ、どのくらいかかるの」とぼやいた。蕎麦を食べている彼女の代わりに「さあ、どうでしょうね。残党の数にもよりますが…籠城戦ならそう簡単には行かないでしょう。できるだけ建物に傷をつけるなとここに書いてありますし」「………」書類を睨みつけた彼の視線が隣に移った。なるべく早く食事を終えようと懸命にちゅるちゅる蕎麦をすすっている彼女に目を細める。普段から人を睨むことしかしない彼には珍しい、少し優しい眼差しだった。
 それだけ見ていても十分周囲には伝わる。だというのに、当人達は気付いていない。
 白蘭がを攫っている間の彼の荒みようと言ったらなかった。あの雲雀恭弥が、まるで使い物にならなかったのだ。たった一人部下を攫われたくらいで憔悴するような人物ではない。現に、その場に居合わせた彼の他の部下は皆死んでいた。それには目もくれなかった。彼の関心は部下が攫われたという事実にあったのではなく、彼女が攫われたという事実にあったのだ。
 結果的に、白蘭が死亡し、彼女は雲雀恭弥のもとへ戻った。それで彼も以前と同じに唯我独尊の一匹狼に戻った。
 けれど、白蘭に遭遇する前と後で、彼は大きく変わった。
 主に、彼女に対する意識の仕方。周りから見ても過保護を通り過ぎて異常なまでに彼女をそばに置こうとする。遠ざける時間がなくなった。仕事先のどこへでも連れてきて、非戦闘員の彼女を連れ回す。危険な任務の際には護衛をつけて待たせるという徹底振り。そこまでして離れたくないのだろうか、と僕なんかは半分以上呆れている。
 そして、そこまでしておきながら、彼は彼女に決定的な言葉の一つも告げてはいない。
 いや、準備のようなものはしているのだ。それには気付いている。装飾の類などつけない彼が何度も宝石店に足を運んでいることは知っているし、努力はしているのだろう、彼なりに。
 が。まだまだというか。喧嘩事になれば負け知らずだというのに、色事にはどうしてこうも疎いのか。いや、疎いというか、臆病というか。同じようなことか。
「…雲雀くん」
 呼べば、彼はじろりとこっちを睨むように僕を見た。「何」とつっけんどんな声が返ってくる。「いい加減に渡したらどうですか、そのポケットのもの」僕がそう言うと、彼の目が分かりやすく泳いだ。次にはまた僕を睨みつけて「意味が分からない」「…ならいいですけどね」ふうと一つ息を吐く。僕らの会話の間に彼女は蕎麦を食べ終えたようで、書類の束を再び机の上に置いた。だからその話はそこで終わった。
 三日後、仕事のために空港で落ち合えば、当然のように彼の傍らには彼女がいた。ぺこりと頭を下げてくるのでこちらも頭を下げ返す。
も行かれるのですか?」
「はい。あの、足手纏いになるだけだって言ったんですけど…」
 やんわりと訊ねた僕に、彼女は困った顔でちらりと雲雀恭弥を見た。自家用機なんてものを持っている彼はすでに搭乗口だった。僕を迎えに来た彼女は困った顔で笑う。「ごめんなさい。あの、足を引っぱります」なんて頭を下げられて少し笑って、それから目を見張る。彼女の後ろにいてはならないはずの人物が見えたのだ。思わず右目を塞ぐと、顔を上げた彼女が首を傾げた。黒い髪がさらりと揺れる、その向こうに白い人物が見えた。
 そっと蓋をしていた手を外す。『やぁ骸チャン』なんて、幻聴まで聞こえた。
 わしと彼女の肩を掴んでくるりと方向転換、つかつか歩き出しながら「さぁ、待たせると雲雀くんがうるさいですし行きましょうか」「は、はい」押されるまま歩く彼女と、搭乗口から射殺さんばかりの視線が突き刺さるのを感じつつちらりと後ろを振り返る。
 にこにこした笑みを浮かべて、死んだ人間がそこにいた。右目にしか見えないことを考えるに、幽霊、もしくは魂に似た存在が。
『そう怖い顔しないでよ。別に危害加えるためにいるんじゃないって』
 にこりと微笑んだ白蘭から、確かに害意のようなものは感じない。「ちょっと、いつまで触ってるの」搭乗口まで行けばばしと彼に手を振り払われた。肩を竦めて返せば、戸惑う彼女の背中を押した彼が「行くよ」とさっさと歩いて行く。
 二人から少し距離を取って歩きながら、白い存在に問いかけた。
「それで、あなたはなぜここにいるのですか」
『さぁ。なんでって言われても僕も困るなぁ。確かに死んだんだけどねー』
 ころころ笑う白蘭にはぁと息を吐いて、小さな飛行機に乗り込む。当たり前のように白蘭がついてくる。ゆったりとしたビジネスクラスのシートが左右に四つ並んでいる空間には、シート以外にテレビ、冷蔵庫といったものまで並んでいた。
 右側の前から三番目のシートにもたれかかる。白蘭は彼女のシートの横で立ち止まった。『』と愛おしそうに彼女の名を呼んで手を伸ばす。白い指先は当然彼女に触れることなくすり抜けた。
 僕以外には白蘭が視えていないようだった。彼女は呼ばれたことに気付かない。顔を上げることもない。白蘭はその現実に寂しそうに笑ってみせた。
『……なんでここにいるのか、だっけ』
 飛行機のエンジン音を無視して、白蘭の声はよく届いた。
『僕にもよく分からないんだよね。確かに死んだ。この手は届かなかった。いくら想ってもは僕を見てくれなかった。最後まで届かないまま終わったよ』
 …できるのなら、彼女の頭を撫でることでもしたいのだろう。ふわふわした白い手が中途半端に彼女の頭に埋まったりするのを見ていると、飛行機が離陸を知らせた。
 にこりと笑みを浮かべてこっちを見た白蘭が『きっと未練だね。あんまり好きになっちゃったもんだからさ。それに、も律儀なんだ。わざわざ僕のお墓作って毎月絶対お参りに来る。馬鹿だよね。僕は雲雀恭弥を殺してでも君の全部を奪おうって考えた、しょうがない男なのにね』そうですか、と口の中だけで呟く。『うん、そうなんだ』とこぼした白蘭がその場に座り込んだ。呆とした表情で彼女のことを見つめてそれきり喋らなくなる。
 …未練。そこにいる彼は、彼女という未練に縛られて存在しているようだった。
「彼女が幸せになれば、君は満足するんですか」
 声になっていないくらいの声で訊ねると、白蘭は小さく笑った。『んー、そうだな。そうだね。うん、これではもう大丈夫って思えたら、僕も満足かな』その視線が彼女から雲雀恭弥へと移る。
『ねぇ、どうしては雲雀恭弥がよかったのかな』
 …そんなこと、僕が知るわけもなかった。肩を竦めて返せば、白蘭は目を閉じて、それきりまた喋らなくなった。
 仕事先のドイツに部下を呼び寄せた。普段は頭に蛙を被ってるふざけた風体の弟子の一人だ。普段から被ってるわけじゃないですの言葉通り、今回は蛙なしでやって来た。
 ぽむと彼女の頭を叩いて「僕らが離れている間、彼女を守っていてください」「はぁ、そのために呼んだんですか。師匠の頼みですからそりゃあ構いませんけどー」僕から彼女に視線を移した弟子が首を傾げた。「師匠のコレですか?」小指を立ててくる弟子にはぁと息を吐いて「違います」と返すと、彼女が苦笑いしていた。向こうの方で雲雀恭弥が苛々と地面を靴で叩いている。分かりやすいことだ。
『あーあ、雲雀恭弥って短気だねぇ。それもが絡むとかなーり面倒くさい男だし。どうなのアレ、ねぇ骸チャン』
「……ししょー」
「何ですか我が弟子」
「いえ、気付いてるならいいんですけど。気付いてないならと思って」
「気付いてますよ。お前はを守っていればそれでいいんです」
「はぁ。ソレの危害も含みますか?」
 ことりと首を捻った弟子に、ソレで示された白蘭に視線を投げる。本人はにこにこ笑顔を浮かべて『やだなぁ、僕がに危害を加えるなんてありえないよ!』とにこやかに笑う始末。はぁと息を吐いて「お前の判断に任せましょう」「ラジャー」ぴっと敬礼した弟子が、真面目モードを崩してぺたっと地面に座り込む。「それにしても疲れました。急に来いとか師匠相変わらず人でなし…」「黙りなさい」「…あのぅ」控えめな声に彼女に視線を向けると、控えめに雲雀恭弥の方を示して「そろそろ雲雀さんが爆発すると思います」なんて言うから、それもそうだと思って彼女から一歩離れた。
「それでは、この蛙に何なりと申しつけてくださいね。一週間ほどは離れないとなりませんから」
「蛙じゃありませんー、フランですー」
「あ、はい。気をつけてくださいね骸さん」
 頷いた彼女がくるりと雲雀恭弥を振り返り、手でメガホンを作る。「雲雀さーん、気をつけてくださいねー! 怪我してきたら嫌ですからねーっ」そう言って彼女が手を振ると、彼は分かりやすくそっぽを向いた。分かったとばかりに小さく振られた手は、彼なりの精一杯なのだろう。…やはり小心者だ。喧嘩のときのように遠慮などせずに行けばいいものを。
『まー頑張ってね骸チャン。ミルフィオーレだってそうクズばっかでもないよ。何せ僕が集めた人材だし。が悲しむのは嫌だから、二人とも怪我しないようにねー』
 彼女の隣に当たり前のように陣取ってひらひらと手を振ってくる白蘭。はぁと息を吐いて歩いていけば、彼が「遅い」と僕をなじった。「すみませんね。ところで君、視えていたりは?」「は? 何が」意味が分からないとばかりに睨まれて肩を竦める。蛙の弟子が予想外にできたというだけで、白蘭のことが視えているのはどうやら僕らだけのようだ。
 問題の古城へ向かう道中、少し考えた。
 今のあの白蘭なら、放置しておいてもそう問題はないだろう。何か力を持っているわけでもないようだし、彼女に触れられるわけでもない。プライバシー的に彼女が侵されるという問題はあるけれど、それも彼女の意識の外、伝わらない、分からないことだ。
 放っておいても問題はない。今のままなら。
 あの白蘭が魂のような存在だったとして。生前あれだけ力を持っていた人間だ。死んで魂だけになったからといって侮っていいわけでもない。放置しておいて何か問題が起きても困る。彼女に何かあれば雲雀恭弥は必ず影響を受け、それは周りに飛び火する。
 となれば、なるべく早く彼の言う未練とやらを片付け、成仏を促すしかないだろう。
 僕ならば、無理矢理消し去るという方法も可能かもしれない。最終的に彼が彼女に付き纏うようならそれしかないだろう。
 ただ、今の彼をそこまでして引き剥がす気にはならない。
 彼の眼差しには愛を感じる。白蘭は一人の人間として、を愛していたのだ。
「…いつになったら渡すつもりですか。そのポケットのもの」
 なるべく建物を壊すな、の言いつけをすっかり破って一匹狼で暴れ回る雲雀恭弥をカバーしながら、戦闘の合間を縫って訊ねてみた。「何のこと?」「指輪ですよ」まだ白を切るつもりらしい。呆れて言えば、彼の視線が僅かに泳いだ。どうしてそれをとでも言いたげだな顔に「君が宝石店に頻繁に出入りしていたことは周知の事実です。この間も言いましたよね」「………」はぁと息を吐いた彼がトンファーをごつと壁に押しつけた。
「…君、プロポーズしたことあるの」
「ありませんねぇ」
「慣れてそうだけど、そういうの」
「不慣れだとは言いませんが、君よりはマシでしょうね。何ですか、その顔は」
「……うるさいな。どんな顔してどうやって渡せばいいのか、考えて、結局分からなくなって…ずっとそうだ。分からないんだよ」
 …とんだ小心者というか、臆病者というか。あの雲雀恭弥がこんなに情けない顔をしているのを、僕は今初めて見た。
 恐らく白蘭に彼女を連れ去られたときはもっとひどい顔だったんだろう。普段なら笑い飛ばしてけなしてやるところだ。それを溜息を吐いただけで終わらせ、視線を上げて思考を切り替える。これは思っているより時間がかかりそうな仕事だ。
「とりあえず片付けて帰りましょうか。が待ってますよ」
「君に言われるまでもない」
 彼も思考を切り替えたようで、そこから先は会話なしでひたすらミルフィオーレの残党狩りに時間を費やした。